摩利支天の御前で
風邪をこじらせ、慶次郎の肉体は日に弱っていった。
この時ばかりは利家も女達を利久の世話に寄越し、医者も呼んでくれた。だが、慶次郎の下痢は治まらず、何も食べられない状態が何日も続いた。
夕暮れが近づいた時、慶次郎は目を覚ました。妙に気分が良い。天井を見るも、亡者の顔は誰も見えない。
(・・・亡者達にも見放されたか。そろそろ終わりか。約束を破った儂をあいつ等は地獄で待っているじゃろう。もう一合戦出来んかったはちと口惜しい・・・)
目を横に移すと、涙を流した美嵐丸の目が慶次郎をじっと見ていた。
(お嵐・・・済まぬな。楽しかったぞ)
だが真剣に心配する美嵐丸を少しからかいたくなった。儂は死ぬ。だが何も恐くはなかった。その豪放さが却って、この日本史上屈指の大豪傑を悔やませる事態を生んだ。
「お前は儂が死んでも伴をして呉れぬよな」
その時慶次郎は咽せた。痰が絡み次の言葉が失われた。
「今、白湯を・・・」
美嵐丸は慶次郎を落ち着かせると火鉢に炭を足し、しばし退散する旨を言って深く頭を垂れた。美嵐丸が去った後、火鉢の炭がぱちと言い鉄瓶がしゅうと音をさせ、彼が平伏した畳の一所は一滴の清い水で濡れていた。
慶次郎は真夜中に頭を打たれたように感じ目を醒ました。
ぴんと張りつめた冬の外気が雨戸の隙間から侵入していた。
「お嵐!」
慶次郎は弱った体を満身の力で起こした。
「誰か!」
嗄れ声で呼んだが、女中も小者も寝入ったか、誰も起きてこない。
慶次郎は必死の気力で立った。そしてよろめきながら障子を開け、柱を手繰るように美嵐丸の部屋に向かった。
「お嵐!」
美嵐丸の部屋に入って慶次郎が見たものは、部屋の上座に飾った摩利支天の掛け軸の前に蝋燭と線香を炊き、数珠を手首に巻いて脇差しで胸を突いた美嵐丸の骸であった。
その顔は従容とし、何の翳りも無く、主のために命を捧げた者の顔であった。
慶次郎は不覚を嘆いた。そしてその書台の上にあった書き置きを見た。
前田慶次様
私もお手に掛かりし亡者どもと
おんみちをおたすけ申し候
決死の場合あれば
私の姿をお探しくだされ
嵐
旦那様
参る