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作者: 倉紀ノウ


 

 海に面した静かな町だった。


 都会のビル街と違って、そう高くはない建築物がつくる町並み。その隙間に、日差しを受けて銀色にきらめく日本海が見える。


『K区立文化センター』


 嫌みの無いツーブロックの短髪にビジネススーツ姿の男が、その建物を見上げて立っていた。


 男の名は、大原一成。大原はやや不安そうな面持ちで、腕時計で時間を確かめた。左手には、ノートパソコンの入ったビジネスバッグを提げている。大原はややあってから、建物の中へ入って行った。


文化センターというものに詳しくないからよく分からないが、受け付けというものは無いのだろうか。


 自動ドアを抜けた先で、大原は立ち止まった。


 彼は骨董屋の息子である。よって、文化センターのことをそれほどよく知らない。いや、彼はそれほど世情に明るい人間ではなかった。


 受付け係はいない。窓口すら用意がない。平日だからなのか、人もほとんどいなかった。


 担当の方は、どこにいるのだろう。このまま二階へ上がろうか。


 大原がそう考えていると、そこへ、重そうな書物を抱えて隣の広間から出てきた女性がいた。


「あの、 1週間ほど前にお電話いただきました、骨董を扱っております、大原と申します。展示担当の塩田様はどちらでしょうか?」


 大原が言うと、表情を明るくして、


「私も展示担当をしております、北沢と申します。お待ちしておりました。塩田でしたら二階の展示会場に。意外と若い方なんですね」

 

 色が白く、笑顔が素敵な女性だった。歳は27、8といったところだろうか。落ち着いた雰囲気を持ちながら、少女のような快活さを残している。とても好感のもてる顔だった。


「ええ……」


 笑ってから、大原は軽く頭を下げた。それから、彼女が体に不釣り合いなほど重そうな書物を抱えているのを見て、


「あ……持ちますよ」


 と言った。北沢と名乗った女性は、


「すみません。展示会での資料なんです」


 大原は書物を半分ほどを自分で持った。


 彼女が出てきた広間には、本棚が置かれている。


「そこ、図書館ですか」


「ええ。1階は図書館になっています。二階の広間では映画を上映しています」

 

 大原は書物を抱えて、二階に上がった。階段を上ってすぐの広間では、古い映画が放映されていた。


「それで、ここが展示場です」


 案内された先の広間では、会場作りが行われている最中、といった様子だった。

 

 北沢は、向こうをむいてしゃがんでいた、初老の男性に声をかけた。それが担当の塩田だという。塩田は呼ばれると、立ちあがって、大原の方を見た。


「ああ、例の骨董屋の」


 険しい顔の男だった。厳格といってもいいだろう。年配にありがちな、うるさ型かもしれない。塩田の顔を見て、大原はそう思った。


「大原と申します。よろしくお願いします」


 電話でそのあたりの話はつけてある。だが、この挨拶では足りないだろうか。大原はもう一言ほど付け足そうと思ったが、


「いや、悪いね、大した商売じゃないのに。東京から御苦労だったね。へえ、案外若いんだねえ。店は大丈夫なの?」

 

 塩田は構わずそう言った。嫌味の無い、柔和な言葉遣いだった。


 大原はそれで気が楽になって、


「ええ、店は、親父の店ですから。それに、そんなに客は来ませんので。長旅は嫌だから、お前が行ってこいと、そう言われまして。ああ、でも知識はちゃんとありますから大丈夫です」


 すると塩田は、何度もうなずいて、


「うん。まあ、どっちでもOK。こっちはズブの素人だからねえ。電話でも言ったことなんけど、ここで大正時代に使われてた日用品なんかの展示をしようと思って。どうせやるなら貴重なものを並べようと思ったんだけどさ。まあ、そんなに凝らなくても良かったんだけど」


「いえ、こちらこそ勉強させてもらいます」


 この塩田という人物は、顔からは厳格な印象を受けるが、人となりは違う。女性のような言葉遣いをするし、実は堅苦しいことが嫌いな質で、柔和な人なのだ。


 すでに会場には、無数の品が集まっていた。箪笥、陶器、絵画、火鉢、年季の入った置き時計などが、カーペットの上に並べられていた。


「大方、一般からの寄付なんだけどさ、俺たちにゃ、よくわからねえからさ。どう? これは、ってもん、ある?」


 塩田が尋ねた。すると大原は、


「これはすごい……。よく、これだけ集まりましたね。じっくり見せていただきたいですね。物によっては、買い取らせていただくこともできますか?」


「その前に飯。君、昼まだだろ。こっち詳しくないなら、俺が案内してあげる」

 

 そう言って、展示会場を出た。大原はその背を追った。





 古い看板に大衆食堂と書かれている。

 

「ここのきつね、うまいぞ」


 塩田は、のれんをくぐりながら言った。

 

 椅子に腰かけるなり、塩田はきつねうどんを注文した。中年女性の店員とは、どうやら顔馴染みのようである。


「そっちのお兄ちゃんは何にします?」


 聞かれたので大原は迷わず、


「じゃあ、おんなじものを」


 二人がきつねうどんを注文してから塩田は、


「トシちゃん、いなり4つくれる?」


 注文を追加した。それから大原に向かって、


「今日、寝るとこどっか決めてあんの? なんならウチに泊まってもいいけど。女房しかいないから割と静かだぞ」


 大原は答えた。


「せっかくだから、旅館に泊まろうと思います。もう、予約はしてあるんで」


「なんだ。どこ?」


「大槻旅館ってところです」


「ああ。あそこねえ。あそこは中学んときの先輩がやってんだ」


 食堂は、昼時でも客が少なかった。大原たちの他には一人、静かに丼ものを食っている男がいるだけだ。


 古びた扇風機が、穏やかに首を振っている。ガラスドアの冷蔵庫には、今はあまり見かけない瓶のコーラとオレンジジュースが冷やされている。


「この町、静かでいいところですね」


 大原が言った。


「俺はこの町から出たことない。ここで地味に暮らしてきたんだ。まあ、外の世界にも、色々楽しいことはあるだろうけど。俺はここが一番だな。欲出さなきゃあ、そこそこ買い物もできるし」


 塩田は、メガネを拭きながらそう言った。


 すぐに、きつねうどんといなり寿司が来た。きつねうどんは出汁がきいていて、うまかった。大原は、長年この店が守ってきた味なのだと感じた。





 昼食を済ませた二人は、会場に戻って展示会場作りを始めた。


「では、器は器で、絵画とかポスターはそれでまとめて展示しましょうか」


 大原が言った。


 簡素な長机に、おおまかに種類分けをして置いているときだった。


 どさっと音がした。


 何の加減か、長机に置かれていた、男ものの鞄が床に落下したのだ。


 近くにいた北沢が走り寄って、鞄を机に置き直した。


 年季の入った鞄だった。底面が偏って、座りが悪くなっているのだろうか。

 

 そう、大原は疑った。


 


 夜になって、大原は予約していた大槻旅館にいた。客は大原だけのようだ。清潔感はあるが、なんとも地味な内装だった。大原は、むしろその飾り気のないところに魅力を感じた。外の世界とは違い、時間がゆっくりと流れているような、そんな旅館だった。

 

 大原は一風呂浴びて、浴衣姿で大浴場から部屋へ戻るときに、ふと玄関を見た。そこに塩田が立っていた。


「塩田さん……」


 何か、言い残した要件でもあるのかと思ったが、


「いや、飲もうと思って」


 と、なんだか照れくさそうに、塩田が言った。


 塩田は大原の部屋に上がった。それから、手に提げていたビニール袋からパックを取り出す。


「大したもんじゃないけど、コンビニのつまみと、旨煮。旨煮は女房が作ったんだ」


 パックに入ったちくわと、ポテトサラダにバターピー。缶ビールも何本か入っている。


 それらを見て、大原が、


「コンビニ、近くにあるんですか? 俺も髭剃り買いたいんですけど」


「最初のコンビニは、こっから車で20分」

 

 と、塩田は端的に答えた。


「しかし、殺風景な部屋だなあ。地元だから使わねえけど、これじゃ退屈だわな」


 12畳の和室である。一人での予約なのだが、家族向けの大きな部屋を貸してもらえた。白い壁と合板の天井。部屋の片隅には小さなテレビ。

 

 夜は車も走っていないので、しんとしている。開け放した窓から見える町は、ぽつんぽつんと街灯の灯りがあるだけで、あとは暗かった。東京のように、ぎらついた不眠の輝きはない。


 夜は暗い方がいい。それが自然だ。大原は思った。


「まあ、やってよ。大したものは無いけど」

 

 塩田はコップにビールを注いだ。


「はあ。いただきます」

 

 小さく頭を下げて、ビールを飲んだ。


「で、どう? なんとかなりそう?」


「ええ。あれだけ集まればもう、ちょっとしたものですよ」


 大原は、ノートパソコンを取り出して、


「さっきパソコンに画像を入れたんですけど、このアンティークは貴重ですよ。この棚は生活感も出ています。値段とかの価値って意味ではないんですけど。大事に使っていたのがわかります。やっぱり、この時代の人たちって、すごく大事に物を扱ったんだと思います」


「へえ、そうか」


 塩田は、旨煮の人参を箸でつまんで、


「物には時代の匂いってのがあるもんだな。俺たちの今使ってる物がさ、100年後になったら、どんな感じに残るもんなのかねえ。旨煮、ビールのつまみにゃ最高だ」


 大原も、それに倣って旨煮を口に入れた。野菜と鶏肉にしっかりした味がついていて、大原好みの味だった。


 それから塩田は大原に向かって、


「君、嫁さんは?」


「ええ、まだいないんです」


「へえ。選んでる最中?」


「最近、彼女にふられたばっかりで」

 

大原は苦笑いをしてみせた。


「ま、君くらいの男だったら女には困らないでしょ。俺はもうさ、こっちの方がよくなっちまってるけど」

 

 そう言って、塩田はコップに注いだビールを飲んだ。塩田は話し相手がいて、酒が飲めればそれでいいようだった。


 2、3時間飲んでから、塩田は帰った。


 塩田が帰ったあと、大原は、今日撮影した展示物の画像をノートパソコンで眺めた。

 

 ……今と昔では、物のつくられ方も、その意味も違う。我々が作ってきた、使ってきた『物』と人の関係は変わってきたような気がする。


 大原は、少し考えた。

 

 それから床に入った。


 長旅の疲れもあってか、すぐに寝入った。


 辺りはとても静かだった。


 と、何か音がした。

 

 どさっという、重いものが落ちる音。


 その音で、大原は夢の中から現実に引き戻された。

 

 音がしたのは、隣の部屋のようだ。大原は、枕から頭を離して、聞き耳を立てた。


 ずずず、と畳を擦るような音。


 わざと足を引きずって歩いているような足音がする。

 

 隣の部屋、といってもそれは自分が借りている、襖を隔てた部屋だ。まさか、誰かがそこにいるのだろうか。


 なんだか気味が悪い。

 

 大原は、暗闇の中で身を起こした。


 すると、今度は襖を開ける音がする。


 すすー、と白い襖の片側だけが動いているのが分かる。

 

 大原は起き上がって、灯りをつけた。


 大原は、襖を開けた者の正体を見ようとした。


 しかし、そこには、誰もいない。


 大原は、開かれた襖に歩み寄った。そこにいないのなら、向こうの部屋にはまだ姿があるはずだ。


 向こうの部屋を覗いた。こちらの部屋が明るいので、向こうが暗くとも部屋の様子は分かる。


 向こうの部屋を覗いたとたん、大原は驚きで目を大きくした。


 部屋の隅に、女が立っていたのだ。


 その異様な存在からして、この世のものではないとすぐに知れた。

 

 地味な着物を着て、男物の四角い大きな革鞄を持っている。


 あの、展示会場にあった鞄だった。


 



「サンドイッチくれる? 腹が減ったら、それでも齧ってるからさ」


 文化センターの1階にある売店で、塩田が係の女性に言った。塩田は、サンドイッチとペットボトル飲料を買った。


 大原は、その背を黙って見ていた。


「顔色悪いぞ。暑くて寝れなかったのか」


 塩田が、小銭入れをポケットに押し込みながら言った。


「塩田さん。あの鞄って……」


 昨日のことを聞こうと思った。だが、言えなかった。


「え?」


「いえ、なんでもありません」


 塩田が不思議そうな顔で、大原の顔を眺めた。


 昨夜、旅館に来たあの女は、幽霊だった。大原は幽霊というものを初めて見た。輪郭はぼんやりとしていたように思う。地味な着物を着ていた。大正時代に流行した、耳隠しという髪型をして、あの大きな革鞄を片手に持って立っていた。あの何か言いたげな目。あの目が、大原の脳裏に焼き付いていた。


 大原は、会場作りをする北沢に、


「この鞄も一般の寄付なんですよね」


 と尋ねた。


「はい。そうですよ」


「この鞄の持ち主は、わかりますか?」


「寄付されたものだったら、管理台帳はあります。でもその鞄、どうかしたんですか? なにか気になることでもありますか?」


「いえ、ちょっと気になって」

 

 北沢は、すぐに事務室から台帳を出してきた。


 大原は、彼女と一緒に例の革鞄の持ち主の名前を指で追った。


「これですね。桐島伸治という方です」


 住所と氏名の他に、その他の欄があった。返却を希望している人、寄付を希望する人、それから処分を希望する人の欄に分かれていた。処分を希望する人は特に、赤いペンで記入することが明記されていた。

 

 あの革鞄を寄付した桐島伸治という人物は、処分を希望していた。


「あの鞄は、この人の、どういう関係の方の持ち物か分かりますか?」


 大原が聞くと、


「いいえ、親族の方のものだと思いますが、どなたのものかまでは……。あの鞄、どうかしたんですか?」


「いや、それは……」


 はっきりと答えることができず、大原はまたも言葉を濁した。




 展示会の初日。会場作りは特に問題も無く、予定通りに運んだ。大原たちは、成果を確認するべく展示会場を改めて見物してみることにした。


「ふんふん。なかなかそれっぽくて、いい感じじゃない」


 塩田は腕組みをして展示物を眺めた。


「やっぱり、骨董屋さんが来てくれただけのことはあるな」


 と、生活用品のコーナーで塩田が声を上げた。


「あれ? 誰か触った?」


 革鞄が倒れていることに気づいた。大原も、鞄に視線を向けた。


 塩田が直そうとすると、北沢の表情が強張っていた。


「それ、たまに動くんですよね。昨日も私、ここにきたとき、その鞄の向きが変わってたんです」


 そうか。やっぱりそうだったか。大原は青ざめた。


 あの革鞄には、霊が憑いていた。勝手に展示したがために、俺を呪いに来たのだ。

 

 そう考えると震えが来た。故人の怒りを買ってしまった。

 

 古い物には、因縁や恨みのこもったものが存在する。大原は骨董屋に流れてきた品々を扱ってきて、それを知っていた。

 

 まさか自分が、そういう曰くのある品をつかんでしまうとは。




 大原はその夜、塩田に旅館まで来てもらって、自分の体験を白状した。


 自分を恨んで、あの女の幽霊が来たと話した。


「塩田さんが来てくれた夜のことです。地味な着物を着て、耳隠しの髪型で。大正時代に流行った、この、耳のへんを隠して、後ろでまとめたような……」


「ああ。あの別嬪さんなあ、俺んとこにも来たよ」


 塩田は顔色を変えずにそう言った。


「え? 塩田さんのところにも?」


「ああ」


「恨んでるような目じゃなかったですか?」


「いや、あれはそういう目じゃなかったなあ。悲しい目をしてた。あの女のことを聞いたよ」

 

 塩田は、バターピーを何粒か口に入れた。


「誰からですか?」


 質問には答えずに、塩田はバッグから資料の入った封筒を取り出した。それに手を入れて、一枚の古い写真を取り出した。古ぼけた白黒写真だった。


 そこには、一家族の写真が写っていた。


「この子だろ?」


 と言って、塩田は一人の女を指差した。


 大原は、その女を見た。


「はい。たしかにそうです」


 写真に写った女は、まさしく大原が見た、あの幽霊だった。


「名前は桐島節子。あの鞄を寄付した桐島伸治って人から、色々聞いたよ。その、桐島伸治って人の、祖父の兄妹にあたるそうだ」


「桐島、節子……」

 

 大原は写真を見た。あのとき大原が見た、あの目をしていた。身体の線は細く、睫毛は長く、顔は小顔ですっきりとしている。たしかに、美しい女性だった。


「……家庭が貧しくてな、遊郭に身売りしたそうだ。若いのに着物を買う金も惜しんで、いつも古い着物ばっかり着ていたそうだ。あの鞄は、桐島節子の父親のもんだそうだ。 男物だが、大事に使っていたらしい。優しい男に惚れやすくてな、騙されて、稼いだ金を失くしちまったそうだ。遊郭で働いて、それで重い病気を移されてな、そこを追いだされた。そんで、しまいには寝たきりになって、肝炎で死んだそうだ。なんで、伸治さんは、あの鞄の処分を望んだのか」


 塩田は喉を潤すために、ゆっくりとビールを飲んだ。


「あいつは、化け物になっちまった。鞄と一緒に惚れた男のとこに行っちまう。って、そう言うんだよ。だから、鞄を処分してくれって言ったんだ」


「そうだったんですか……」


 様々な思いが、大原の胸に去来した。


「俺は人を恨むような子じゃないと思ってるよ。だって、なんにもしてこなかったもの。きっと死んだ今になっても、悪いと知ってて優しそうな男のとこに行っちまうんだろうな。でも、手は出してこない。見てるだけなんだよ、あの子は。幽霊だけど、ちゃんと区別はついてるんだろうな。大したもんだよ」


 塩田は独り言のような口調で、そう言った。

 

 霊になってからも、優しい男に惹かれて、その男を頼ってしまう。しかし、それは悪いことと知っている、か。


 たしかにあのとき、桐島節子は何もしてこなかった。ただ、控えめにこちらを窺っていただけだった。




 夜も更けて、塩田が帰った。


 大原は、一人になってからもなんとなく余ったつまみをつまんだり、ビールの残りを飲んだりしていた。


 そろそろ寝るか、と思った矢先のことだった。


 どさっ。あの音がした。


 大きな鞄の落ちる音。隣の部屋からである。


 来た。


 大原は、ゆっくりと隣の部屋に通じる襖に目をやった。


 向こうは暗闇だが、大原のいる部屋の灯りはついている。


 襖がゆっくりと開く。女がその隙間から覗いていた。

 

 今度ははっきりした姿を見た。輪郭はおぼろげだが、生きているような顔色だった。


 大原は恐怖を抱きつつも、彼女を美しいと思う余裕があった。

 

 彼女は、遠慮がちに大原の方を覗いていた。


「桐島……節子さん、ですか?」


 思いきって声をかけた。


 すると、桐島節子は目を伏せて俯いた。それから、自らの訪問を詫びるかのように一礼をして、後ずさりした。

 

 大原は後を追って隣の部屋に入ったが、すでに彼女はいなくなっていた。




「そうだったんですか。そんなことがあったなんて……」


 大原と塩田、それに北沢は、仕事終わりに場末の焼き肉屋にいた。昨日の出来事を聞かされた北沢が、そう言った。


 塩田は黙って、肉の様子を眺めていた。肉は既に程よく焼けているのに、手をつけようとしない。


「俺はやっぱり、塩田さんが正しいと思います。あの女性は、悪いことをするような感じには見えませんでした」


「そうか」


 塩田はそれだけ言うと、少し焼けすぎた肉を箸で取った。


 それから、ややあって北沢が、


「やっぱり返した方がいいですよ。あの鞄、桐島節子さんが大事にしていたものなんですよね? 処分なんて。それに、桐島伸治さんやその家族は、節子さんのことを誤解していると思います」


 肉の焼ける音だけが、しばらく響いていた。大原も、あの鞄は桐島家に返して、大事に保管してもらった方がよいと思った。


 処分すべき物ではない。そう思った。


「これからも、桐島節子は、色んな人のところに行くんでしょうか」


 大原が、ぽつりと言った。塩田が、それに答えた。


「そうかもな。でもさ、この広い世の中に、そういうことが少しくらいあってもいいんじゃねえかな。そっとしといてやった方がいいと、俺は思うなあ」


「返しましょうよ」

 

 大原が決然と言った。


「そうだな、その方がいいな。じゃあな、明日にでも返しに行くか。明日、なんもなかっただろ?」


 塩田が言った。


 明日は、大原が東京へ帰る日だった。




「それでは、またなにかありましたら連絡ください」


 来た時と同じ荷物を持って、大原が言った。


「ありがとうな。またこっち来たら寄ってよ。なんか御馳走するから」


 翌朝のことだった。大原は、塩田と北沢に、文化センターの前で挨拶をした。


 塩田の手には、あの鞄があった。これから桐島伸治に返しにいくのだ。


 大原も立ち合いたかったが、ここで別れることにした。


「ありがとうございました。また来てくださいね。今日の話、しますから……」


 北沢が言った。


 大原は深く一礼して、その場を去った。


 町はとても静かだった。もう一度、文化センターを見た。それから、駅の方へ向かった。大原の顔は、晴れやかだった。

 

 桐島節子……。


 大正時代を生きた、一人の女性の物語を知った……。


 その生涯は察するに余りある、言葉では足りない『生』そのものだったろう。


 一人の人間、一つの物が、この世に与える影響は大きいのかもしれない。


 また、あの町へ行こう。


 大原は、帰りの電車の中でそう思った。


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