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彼女は宙の中

「大人になりたくない」

 彼女は言った。

 生憎、その時の俺はその言葉の意味を理解できなかった。
 大人になるのは自然なことで、嫌でもいつかは大人になっちまう。それは俺にとっての常識で、きっと世間一般の常識――――

 じゃあ、いつから大人になるのだろうか。

 所説あるが、世間では20歳を過ぎれば大人だ。
 まだ子供だとしても、もうそんな言い訳は許されない。

 彼女はそれがたまらなく嫌だったのだろう。
 理不尽な世界にもううんざりしていたのだろう。

 ならば、俺にできることはただ一つ

 これは、そんな彼女と俺の物語





 初夏の日差しが、身体を焦がす。 暑い
 目も開けないような眩い光が、視界を独占する。 眩しい
 絶えることなく流れ続ける汗が染み込んだTシャツが、体にべっとりとくっつく。 気持ち悪い

 誰だ、カーテンを開けたまま寝ちまった馬鹿野郎は……俺か。

 そんな冗談は程ほどに、俺はカーテンをぴしゃりと閉める。が、部屋のジメジメとした蒸し暑さは変わらない。

 いくら高田馬場駅たかだのばばえきから徒歩三分と言えど、風呂なし3LKの部屋で7万は高すぎないだろうか。おまけに、水道代を払っているのに水道はよく出なくなる、壁が薄いので隣の生活音は駄々漏れ、よく雨漏りする、一か月に一回は床が抜けるのオプション付きだ。

 次は更新せずにきっぱりとこことお別れしよう。と言って、もう三回ほど更新しているのだが…
 第一、どうしてこんな不便な物件をわざわざ選んだのかと言うと、行く予定の大学に近かったからだ。が、お昼過ぎまでぐーたらしていることからお察しの通り、現在絶賛浪人中。
 大学が近い事なんてただの拷問に過ぎなない。

 俺は鉛のように思い体でむくりと起き上がる。
 枕元の携帯電話はマイマザーからの着信が20件余り、全くしょうがない奴だぜ! …なんていいながらも、またどうせ「今月で仕送りやめる」とかだろう。無視無視

 とりあえず、こんな蒸し暑い部屋にいたら間違いなく死んじまう。もちろんエアコンなんかないし、実家から持ってきた扇風機も音が五月蠅うるさすぎて隣人から苦情が来るため使えない。

 別に何も買う予定はないのだが、涼む&暇をつぶすためにコンビニにでも行くことにした。驚くことに、コンビニは駅よりも大学よりも遠く、歩いて十数分かかるのだがまあしょうがない。

 そうと決まったら、こんな首元デロンデロンのTシャツじゃコンビニと言えどさすがにいかんので、簡単に着替えることにした。
 適当なシャツとジーンズをタンスから引っ張り、身に纏う。

 そうだ、髪を切りに行かないといけない。あれこれ一年半ほど切りに行ってないので、後ろ髪は肩ぐらいまでのびている。こりゃいかん
 だが、今日はいつもより頭が軽い気がする。視界も心なしか広いし、首にべったりと髪がくっついてもいない。

 まあ、どっちみち切りに行こう。財布は少し寂しいが、1000円カットならなんとか行けるはずだ。

 俺の今日のプランは、コンビニ→千円カット→バイトに決まった。
 俺は顎に触れてひげが伸びていることを確かめると、ひげを剃るために洗面台の前に立った。

 俺は絶句した。

「は?嘘だろ…」

 俺はそこで目を疑った。頬をつねった、普通に痛い。
 ということは、これは紛れもない現実なのか……

 そう、通常なら頭から生えてるはずの髪の毛が、一本もないのである。
 昨日までは十分すぎるほど茂っていた髪の毛が、一本のこらず姿を消したのである。

 確かに、俺のご先祖様は男女構わずはげ散らかっているが、そういうレベルではない。まるで坊さんのようにツルッツルのピカッピカなのだ。

 俺は思わずその場に尻もちをついた。
 そして、扉の前に何かがあるのに気づく。

「おいおい、なんの冗談だよ…」

 それはどこからどう見てもトイレットペーパー。しかも再生紙のシングルだ。

 プラン変更

 俺はキャップを深々と被り、例のトイレットペーパーを抱えてアイツのもとに向かった。



 そいつはいつも通り、空きビルの屋上で足をぶらつかせていた。その手には双眼鏡、100均に売ってるやっすいやつだ。
 そいつはドアの軋む音がするなり、すぐにこっちに顔を向ける。


「久しぶりっ!!」

 声を弾ませはにかんだ彼女・・は、セーラー服を身に纏っていた。背も低いし顔も丸っこい、下手したら小学生にも見える。
 だが、彼女は平日の真昼間にこんなところで油を売っている非行少女ではなく、普通に成人している。俺よりもいくつか年上だ。

 で、彼女は何故セーラー服なんか来ているのかと言うと、ドがつくほどの貧乏人だからだ。そこそこいい生地の制服は、そこらの安っぽい服よりもだいぶ丈夫だといって彼女は愛用している。
 ショートヘアーの黒髪、くりんとした大きな目、顔はそこそこ整っている。だが、気が付けばそこらへんのバッタやらコオロギ、ゴキ…までもをむしゃむしゃと……この話はやめよう。

 この屋上は元々俺の縄張りで、そこにたまたま彼女がやってきたからたまに話し相手になってやってるってだけの関係。それ以上でも以下でもない。 

 どうして彼女に頼ろうとしているのかと言えば、彼女はオカルトやらなんやら常人には理解しがたい趣味を持っているから…それは建前で、俺にはこいつ以外ろくに話し相手がいない。
 親や警察に頼るわけにもいかないし……ぶっちゃけ消去法だ

「で、どうして来たの?」

 彼女は不思議そうに目をパチクリさせる。
 やっぱり、こいつに相談するのはやめようか…よく考えたらそこまで仲良くはない。

 俺が口をパクパクとさせている間に、彼女は俺が抱えていたトイレットペーパーの存在に気付く。

「なに?買い物帰り?」

「いや…その…」

 石造りの地面に、ぽたりと汗が垂れた。

 彼女は、また気づく。

「おまえ、髪切ったの? 前まではもうちょっと髪の毛がばさーって…」

 何を思ったか、彼女は必死に背伸びをして、俺の頭まで手を伸ばす。

 その拍子に、帽子は風と共にどこか遠くに飛んで行く。
 それと同時に、俺のつるっつるの頭があらわになる。

 途端に、彼女が腹を抱えて笑い出した。

「ちょ…おまえ、いくらなんでもそんなに笑うことは…」

 俺はこいつに一瞬でも頼ろうとしたことを後悔した。
 そうだ、真面目にとりあってくれる奴なんかいねぇんだ。

「…じゃなくて、髪と紙って…」

 彼女は笑いすぎてゴホっと咳を込んだ。
 そして、かがんだまま顔だけを俺の方に向け、言った。

「今日の標的は君だったみたいだね。」

 俺は、その言葉の意味がわからず目を白黒とさせる。

「ひ、標的?」

 俺は誰かに命を狙われるようなことをした覚えはない。
 もしかして、俺のふさふさな髪に嫉妬して、どこかの禿な魔法使いが俺の髪を根こそぎ持って行ったと?んなばかな

 彼女はやっと笑いが収まったようで、ぜーはーと呼吸が荒いまま言った。

「おまえは髪とひきかえに紙を得たんだよ。 たったそれだけの事。」

 彼女の短い髪と、セーラー服の赤いリボン、短めのスカートが風にはためいた。
 今日は風が強い。室内よりも屋外の方が涼しいかもしれない。

 俺の意識は、先ほど風で飛んで行った帽子と共にどこかに行ってしまったみたいだ。
 俺はただただ、いたずらな笑みを浮かべる彼女にくぎづけになっていた。

 そこで突然、急速に意識が戻った。
 が、俺は相変わらずの阿呆面で

「へぁ!?」

 そんな間抜けな声を漏らした。





 浪人生一年目。

 小学生の頃はクラスで頭のいい方だった。
 中学生の頃は学年で中堅と言ったところだった。
 高校生の頃は……ノーコメント
 俺の人生は成績と比例して下落中。上がることはもうないだろう。

 もはや、泥濘ぬかるみの底から這い上がる気力さえなくしていた。
 泥の中でも住み慣れれば地上より快適だ。

 でも、普通に生きていればどうしても周りの視線が気になってしまう。劣等感で押しつぶされそうになる。

 そんな時、俺には決まってすることがある。

 最寄りの空きビル――――壊すにも金がかかるので放置されている哀れな物件――――は俺にとって、壁の薄いマイホームより落ち着ける場所。
 その屋上のフェンスを乗り越えたところに、人が一人座れるぐらいのスペースがある。
 そこに腰を掛けて、両脚を宙ぶらりんにしながら、ゆっくりとした時の流れを眺める。安物の望遠鏡を携えて

 それが俺のストレス解消法。
 自殺しようだなんて一ミクロンも考えていない。

 何が楽しいかと言われると少し困るが、地上から離れた場所で下界の人々を観察する――――なんか神様みたいで、不思議な優越感があるから……それじゃ答えにならないだろうか。

 街外れの五階建ての空きビルは俺しか知らない、俺の秘密基地だった。
 なぜ過去形かと言われると

「おっはよー!! 今日も暇だね、浪人生!」

 背後から声が聞こえる。振り返らずとも誰だかわかる。
 というか、彼女以外こんなところに来るもの好きはいない。

「君は浪人生って自称しない方がいいよ? だって君、あと数十年は浪人生やるつもりでしょ?真面目に頑張ってる他の浪人生に失礼だよー!」

 丸っこい、無邪気な声が足音と共に近づいてくる。 
 せっかく、今日はいい気分だったのによぉ…

 彼女は、背後から俺の首をガシリとつかむと、無邪気な笑顔を浮かべてるそうな感じの声で言う。

「いいバイク盗んだから、ドライブでも行こう!」

 もちろん俺に拒否権はない。いわずもがな、首を絞められているからである。


 今日は風が強い。そんな中を盗んだバイクで走りだすのはなんとも気持ちのいいことか。

 俺は地面に吹っ飛ばされないように、夏服セーラー服の背中にぴっしりとへばりつく。何もやましい気持ちはない。本当だ、信じてくれ…
 と言っても、傍からみたら盗んだバイクで女子高生と逃避行するかなりやばい奴。半時間ほど走って、通行者に通報されなかったのが奇跡だ。

「おーい! やっほー!」

 信号待ちでじっとしてられない彼女は、歩道を歩く小学生たちに手を振る。

「知り合いか?」

「ううん、全然知らない」

 おまわりさん、早くこいつをどうにかしてくれ。
 というかそもそも、ひとさまのバイクを盗んだ時点で窃盗罪でお縄になるだろう。で、それと一緒にいる俺も共犯者として捕まるだろう。いや、もしかしたら俺が彼女に命令したと誤解されて、俺の方が重い刑罰を――――

 まあ、今更捕まっても痛くもかゆくもない。どうせ俺は前科持ちだ。イルカを救っても、恵まれない子供たちのために学校を作っても、地球温暖化をどうにかして阻止してもその罪は消えることない。
 いくら未成年で名前が公表されてなくても、今の時代顔や名前はもちろん、住所や出身高校、愛犬の名前までネットという無法地帯にばらまかれてしまう。

 俺もこいつと同じなのかもしれない。

 楽しそうにバイクを走らせる彼女に、俺はそんな事を思ってしまった。





 今は夏の真っただ中なう。

 ほんと、夏は死ねばいい。おなじく冬も。花粉症が辛いので春と秋も。
 夏風邪は馬鹿がひくというが、どうやら天才もひくようだ。その証拠に、今俺は鼻水が止まらない。

 そんな俺にニヤニヤとしながら彼女は

「どうした風邪かい?」

 と俺の背後から現れる。

「ああそうだが、なんか問題でも?」

 別に、と彼女は笑った。
 そしてふいに何かを思いついたように、首から下げてたポシェットをまさぐる。

 そして、嬉しそうにブドウ味のアイスキャンディーを取り出すと、それを半分にきれいに割って片一方を俺に差し出した。

「これ、俺に?」

 彼女は頷く。
 突然おかしな奴だ。いつもは虫の蒸し焼きなんかを食べさせようとするのに。あ、もしや…

「あー!! これもどうせ変なアイスなんだろ!?」

 俺はおもむろに立ち上がり、そう叫ぶ。
 彼女は首を振る。

 そうか…それならご厚意に甘えて
 俺はアイスを口に運ぼうとしたその時――――

「まって!」

 彼女が声を荒げた。
 まだ何かあるのか?

 彼女はそこらにある小石を拾うと、小さな円を描く。
 そして、そこにアイスの一片を落とす。

「おいおい何してんだ!もったいな…」

 慌てふためいた俺の口を、彼女は人差し指で塞いだ。
 そして

「これはおまじないです。 もし、あなたが今持っているものを失う代わりに、何かを得られるとしたら何を望みますか?」

 ニコニコとそう言った。

 なんだ、遊びか。適当に付き合ってやろう。

「そんじゃぁ、俺の髪と引き換えに、ケツ拭く紙とか? ははは、くだらねぇ。」

 世界一下らない駄洒落だ。いや、洒落にもならない。
 が、彼女は

「それは、いいですねぇ」

 と笑った。

 ああ、そんな下らない事を言っている間に、アイスがすっかり溶けちまったではねぇか。





 暦の上では今は秋。
 しかし人口の木々は頑なに色を変えない。

 肌寒くなってきた。そろそろ人間観察も潮時か。

 へっくしょん

 俺は大きなくしゃみをした。
 やべ、彼女に聞かれたか?少しばかり恥ずかしぃぜ。

 彼女は表情を少しも崩さずに、相変わらず脚をぶらぶらとさせて

「この季節は野草の種類が多くて助かるね、美味しい虫もごまんといるし」

 その顔はどこかもの悲しげだ。
 彼女は続ける。

「私ね、あなたにお願い事があるの。」

 黒い二つの大きな瞳が俺を捉える。

「こないだの事か?」

 彼女は首を振る。

「俺の願いは却下だとか?」

 彼女はまた首を振る。

「じゃあ、なんなんだ?」

 彼女はニヤリと笑うと、人差し指を唇の前に立てて

「ひ・み・つ」

 はぁ!?

 なんじゃそりゃ、なんじゃそりゃ

 俺の顔が思わず歪んだ。
 が、彼女はそんな俺を鮮やかに無視してその場に立ち上がると

「そんじゃ、いまから暴れにいこうぜ!」

 餓鬼大将のような無邪気な笑みを満面に浮かべる。

 なにが、そんじゃだ。

 俺がそうつっこむより前に、彼女はふわりと宙に浮いた。
 その足は、すぐ隣の――――このビルよりも少しばかり背の低い――――これまた空きビルの屋上に着地する。

 俺もそれに続く。

 彼女はそこに捨ててあった廃材の一つ、彼女の背丈と同じぐらいの長さの鉄棒を拾う。
 そしてそれをぐるぐると振り回す。

「やめろやめろ、あぶねーから」

 俺はへらへらと笑う。全く呑気な奴だぜ、俺も、彼女も。

 彼女はバリンバリンと窓ガラスを割りながら、走り回る。

「あぁ、大人になりたくないなぁ!」

 とこぼしながら

 駄目だぜ、さすがにそれはよぅ。
 盗んだバイクで走り出したかと思ったら、夜の校舎窓ガラス壊してまわるのか。
 まぁ、夜でも校舎でもないのだがな。

 あいかわらず、彼女は笑っている。とても楽しそうで、いきいきとしている。でも、相変わらずどこか寂しそうなんだ。


 空きビルの中でガラスの破片が割れる。
 その中に彼女はいる。

 なんて幻想的なんだろう。

 俺もその中に行きたい、なんて思った。





 夏が過ぎ去ろうとしている。


「コオロギの煮つけ食べる?」
「セミの唐揚げもおいしいよ!」
「バッタのバター焼きも絶品!」

 夏が終わりに近づいても、彼女は変わらず気色の悪い自作料理を勧めてくる。

「食わねぇよ」

 俺は簡潔に断る。きっぱり断ることは、相手にとっていいこともある。
 相変わらず俺っちイケメン!!

「そんなんだからモテないんだよっ!」

 彼女はぷいっと頬を膨らませ、そっぽを向いた。
 あ?俺モテないって?童貞だって?聞き捨てならんな!!

 だが、彼女は俺の静かな怒りに気付かぬまま

 相変わらず俺と彼女は空きビルの屋上で宙ぶらり。実に無意味な時間だ。

 彼女と出会ったのは昨春。俺がしょげていたころに、彼女がどこからかひょいと現れたのだ。
 まあ、最初は彼女と青い春を迎えられるかなーとか、こいつなら俺が約二十年死守してきた童貞を捧げてもいいかなーとか思ったりもした。
 顔はいいし、胸もそこそこある。でも、笑顔でゴキ…をむしゃむしゃしているようなやつは、さすがに嫌だ。

 そんな彼女は、盗んだバイクのキーをくるくると回しながら、薄い唇を開く。

「ねぇ、私のお願い聞いてくれる?」

 あまりに唐突な言葉に、俺は手に持っていた双眼鏡を手放してしまった。ガシャンと音がして、それは地面に当たって壊れた。

「ななな、何故に!?…」

 俺は思わずどもってしまった。

 彼女は唇にうっすらと笑みを浮かべて

「私ね、幸せなの。今がとても幸せなの。」

 何を突然言い出すんだ!?もしかして…もしかしなくても…

「だから、ずうっとこのままでいたいんだ。」

「大人になりたくないんだ…」

「だから」

 彼女の言葉や表情の一つ一つが、俺に突き刺さる。
 秋のさみしい世界に、彼女の淡い表情だけがはっきりと浮かぶ。

 俺には不思議と彼女の次の言葉がわかった。わかってしまった。

「私を殺してほしいんだぁ」

 彼女の寂しい笑顔で、俺の視界が歪んだ。

 やめてくれ、突然何を言い出す
 大人になりたくない?殺してくれ?勝手に死ねばいいだろう。

 俺とお前は無関係なんだ、ただの話し相手だ。それ以上でも以下でもない。
 別におまえがいなくなっても俺は何にも変わらない。変わらない。変わらない


 なのに、どうして少し寂しいのだろう。
 別に人を殺すのなんてそんなに怖くない。でも、彼女は

 俺は口を開いた。できるだけ冷静を保って。

「俺には、おまえの願いを叶える義理はない。 だから」

 ふっと息を吐いて、はっと息を吸って

「俺の願いを聞いてくれないか?」





 べっとりとした夏の暑さが俺にまとわりつく。

 ひっそりとした焦燥が喉につっかえる。

 手が震える。

 視界が歪む。

「…あははははははははははは」

 どうして笑いが止まらないのだろう。

 ごちゃごちゃとした狭いワンルーム。
 目の前には、世界で一番嫌いな人間が血を流して倒れている。
 部屋の隅で二人の人間が抱き合って震えている。

「やったよ。母さん、幸音ゆきね…」

 血がべっとりとついた包丁を握りながら、俺は言った。
 なぁ、どうして震えているんだい?
 もう恐れる人はいないよ?俺がこの手で片づけてあげたんだよ、だから

「なぁ、笑えよぉ」





「この馬鹿兄貴!! どうして電話に出ねぇんだよぉう!」

 少々口調の荒いわが妹が、俺を罵る。

 それも無理はない。
 今朝、実の母が帰らぬ人となった。母は重症な鬱患者で、数か月前から遠い病院で入院していた。

 妹は亡き母の携帯電話で、俺に20回ほど電話を掛けたそうだ。ご苦労様です。

「すまなかった、幸音…どうか俺の顔に免じて許してくれ!!」

「はぁ!?ざけんな、この糞童貞がぁ!!」

 妹よ、ちょっとばかし口が悪すぎるぞ。

 線香の香りが充満する狭い部屋、
 俺は今、高校の頃の制服を纏っている。
 もちろん喪服なんか持ってないからだ。

「っていうかさ、兄貴いつのまにはげてんの?ちゃんとご飯食べてる?」

 妹は心配そうに俺の顔を覗く。
 余計なお世話だ。

 青色のブレザーに身を包んだ妹、幸音は顔つきを真面目にして言う。

「…で、よかったね。正当防衛ってことになって。」

「法では裁かれなくても罪は罪だ。それに、一回悪い噂流されたらどう頑張っても拭うことはできない。」

 俯いた俺のつるっつるの頭を、幸音は慰めるように叩いた。

「そんな昔の話を振った私が悪かった…もうやめよ、ね? でも、あの時兄貴が動かなければ私も死んでたし…お母さんも…」

 その時、後ろから声がかかる。

「幸音ちゃん、この度はご愁傷様。」

 俺らの叔父だ。
 頭ははげ散らかっているのに、顎髭はなかなか立派。つくづく人間は不思議なものだと実感する。

 そんな叔父はよれよれのシャツのしわを伸ばしながら、冗談交じりに幸音に言う。

「お父さんはアル中DV男だったし、お母さんは鬱、そのうえ兄貴はろくでなし…本当にお気の毒に」

 誰がろくでなしだ。

 幸音は、そのとおりですねと笑う。が、その顔はどこか寂しげだった。
 叔父もそれを悟ったようで、微笑みながら言う。

「これからは心配しなくていいよ。幸音ちゃんは私たちが引き取る……き、君はどうする?」

 叔父の視線が俺に向いた。

 相変わらず俺は名前を憶えられていないようだ。
 まあ、当たり前だがな、こんなはぐれものの名前なんて脳みそに入れときたくないだろう。

 俺はできるだけ平常を保ったまま、言う。

「俺は、いいです。 まだ…会いたい人がいるので」





 街が真っ白に染まる、それはそれは寒い冬の夜。

 あと一週間ほどで今年も終わる。なかなか長い一年だった。

 もちろん俺は入試など受けず、来年も浪人生をやる予定だ。こんなんで母がぽっくりいっちゃったらどうする気なんだろう、つくづく俺は駄目な奴だ。
 駄目だ、このままだと俺も鬱になっちまう。前向き思考だけが俺のとりえなのに

 俺の足が向かうのは、いつもの空きビル。
 そこにはいつものように彼女がいる。

 でも、これも今日で最後だ。

「なあ、本当にこれでいいのか?」

 俺がそう言うと、彼女は振り返らずに頷いた。

「…私は、次に日が昇ったら大人になっちゃうんだ。だからさ、これでいいんだ。」

 その声は明るかった。いや、必死で明るくしようとしていた。
 彼女は振り返らずに、擦り切れたような声で続ける。

「私さ、自分勝手だということは十分承知だよ…でも、どうしてもあなたの記憶に残りたいんだ。 あなたの傷になれれば、色あせることなくあなたの記憶の中にいられるから…」

 俺は笑った。

「おまえらしいや。そんな自分勝手なところ」

 本当は笑ってなんかいないけど、笑った。

 彼女は柵の外にいる。短い黒髪が風に揺れる。

 俺は彼女の背中にゆっくりと近づいていく。
 そして、彼女の小さな背中に俺の手が振れた。

「あばよ」

「さよなら、宙くん」

 彼女は、初めて俺の名を呼んだ。
 自分の名前を呼ばれるなんていつぶりだろう。

 彼女の身体が、風に揺れる布切れのように宙に浮かんだ。
 そして、そのまま見えなくなった。





 彼女と出会って二度目の春が終わる。夏がくる。

 俺はこっちで仕事が決まった。幸音もあっちで楽しくやってるそうだ。
 俺はやっと引っ越しをした。家賃が今までの半分で、壁も厚くて風呂もついている 駅からは遠くなっちまったけど、それでも自転車を使えば30分もかからない。

 ひとつ、心残りがあるとすれば髪がいつまでたっても生えてこないのと、あの空きビルがちょっと遠くなっちまった事。

 自転車を漕いで一時間弱、やっと見覚えのあるビルが現れた。

 俺は高鳴る胸を抑えながら、狭い階段を上る。
 その足は、どんどんスピードを増していき、屋上に着くころには走っていた。

 そこに、彼女はいた。
 セーラー服に身を包んだ、ちょっと頭が弱い彼女が

 相変わらずその足は宙ぶらり、落っこちてしまわないか心配だ。
 彼女は俺に気付くと、嬉しそうに声を上げる。

「っ!…ひさしぶりぃ!」

「あぁ、ひさしぶり。」

 俺も笑った。

 いやいや、俺が今日ここに来たのは目的があったんだ。

「なあ、俺の頭をどうにかしてくれよ!」

「うーん、いっそ頭をぶつけてみたら? そうすれば頭がよくなる…」

「そう言う意味じゃねぇよ、俺の髪の毛!俺の髪の毛を元に戻してくれよ!!」

 彼女は少し戸惑ってから、言う。

「これから少し変なことを言うけど、笑わないで聴いてくれる?」

「ああ、おまえが変なことを言うのは今に始まったことじゃないだろう。」

 彼女はふっと息を吐いて、はっと息を吸った。

「あのね、あなたは長い長い夢を見ているの。決して覚めることのなかった長い夢を――――」

「なかった?」

 俺が聞き返すと、彼女はこくりと頷く。

「もう、私の『お願い』は終わり。だから」

 彼女はふわりと俺の目の前に降りた。そして、細い腕が俺に向かって伸びる

「めざめて」

 彼女の真っ黒な瞳が俺を捉える。が、その腕は俺を通り過ぎて宙を舞った。





 夏が来た。来てしまった。

 どこまでが夢だったのだろうか。
 どうやら俺はちゃんとした職につけていて、いい部屋を借りていて、妹は元気に暮らしていて、母ちゃんはもう帰っては来ない

 俺は布団から飛び降りると、そのまま洗面台に向き合った。

 そこに写っていたのは

「なんだぁ、夢だったのか」

 気持ち悪い笑顔を浮かべる俺。その頭に茂る髪の毛はちょっとばかし薄かった。


 それでもまだ、彼女は宙の中。

挿絵(By みてみん)

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