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4 記憶に残らない顔

 その晩、ゲルダはまた夢を見た。オレンジ色の炎がゲルダの周りを取り囲む夢だ。

 件の異端審問官が涙を流している。

 彼は息絶えようとするゲルダに向かって言う。


「おれも、すぐに追いかける。そして今度こそ――」


 相変わらず美しい男だとゲルダは思った。だけどよく考えると整いすぎて特徴がない。というより、なぜか顔を覚えていられない。記憶が砂の城のようにホロホロと崩れていくのだ。

 覚えるよりも早く顔の印象がどんどん溶けていく。最期に残ったのは黒という色と、眼差しの鋭さ。だがその眼差しに酷い既視感を覚えたところで、ゲルダは何かとても大事なことを忘れているような気がして、焦る。


(これは、一体誰?)


 そして思い出せないままに、命は絶えて――

 いつものようにベッドで目が覚めた。



 *



 それは、伝統に則った厳かな結婚式だった。

 寺院の窓は小さく、光はあまり差し込まない。そして室内に火は無く、薄暗く冷え込んでいる。

 父親とともに、幾重にも連なる重厚なアーチをくぐり抜け、夫となる人のもとへと歩いていく。白と黒のタイルが均等に並んだ床の上には、輝くように白く長いトレーンが流れているはず。

 両脇には招待客がずらりと並び、見守っている。宗教関係者、国内の要人など。普通の式であれば国外の要人までもを招く千人以上の規模だろうけれど、火が使えないという特殊な事情があるため、小規模の式になったのだった。

 それでも客の視線は、ベール越しにゲルダに突き刺さる。まるであら捜しをしているかのように思えた。王宮にやってきてから毎日のように練習したというのに、祭壇にたどり着いた頃には頭が真っ白になっていた。


(次は、次は、何?)


 気が遠くなりそうになったゲルダは、隣に立った男に救いを求める。父は後ろに下がったため、もう彼しか頼れる人間がいないのだ。

 だが、男はまるでゲルダに頓着しない。自分の役割だけを淡々とこなしていくだけだと主張するように、祭壇を見上げるだけ。ゲルダの方を見もしない。


(もう、ほんと、この人なんなの……!? なんのためにわたしと結婚しようと思っているの?)


 こんな時に浮かぶ疑問ではないと考えると、息が詰まる。限界だった。だが、泣き崩れそうなゲルダに向かって、目の前の老人がこほん、と咳払いをした。司祭だ。さすがに聖職者だけあって慈しみのオーラにあふれている。大丈夫だと優しい目で微笑まれて一人ではないと感じる。救われる。

 司祭が密やかに指差した先には、白いクッションに乗せられたリングが二つ。

 ゲルダは思い出す。これから宣誓に続き、指輪の交換と誓いのキスが行われるのだと。

 司祭が厳かに誓いの言葉を口にして、宣誓を求めた。男は誓うと言う。形式的な、熱のこもらない口調に聞こえたのは被害妄想だろうか。そう思いながらもゲルダも倣う。


「それでは、誓いのキスを」


 司祭が言い、男に向かい合うと、ゲルダは頭一つ上にある美しい顔を見上げ、問いかけるように見つめた。


(どうして、なのですか)


 彼は結局、結婚式までゲルダに顔を見せなかった。

 未来の夫の人となりを知りたかった。愛されていると実感したかったし、そうして自分の幸せを信じたかった。

 だから挨拶をしたいと謁見を求めたが、断られ、せめて食事でも一緒にと望んだけれども、それさえ断られた。

 まるで自分に興味が無いのではないかと思えるくらいにそっけない態度に、ゲルダの不安は膨れ上がっていたが、「多忙なのだ」と彼は手紙をよこした。結婚を楽しみにしているとも書いてあった。それを心の支えにして、ゲルダは一人、予行演習を繰り返した。


 こうして現れた夫に、ゲルダは安心し、しかし、言いようのない戸惑いを感じていた。

 少し癖のある、柔らかそうで華やかな金の髪が額にかかっている。柳眉の下には切れ長の青い瞳。通った鼻筋。甘い笑みを浮かべた薄い唇。地位と権力と財産を兼ね備えた上に、美貌まで手にしている。完璧な男だと思った。幸せになるのだ、幸せになってみせると思った。


(そうよ、わたしは、今度こそ、幸せになるんだもの――)


 ベールが上げられて、彼の妻になるという実感がじわじわと湧き上がる。

 何も知らない相手だけれど、これから知っていくのだ。その始まりのキスが来る、とゲルダは目をつぶる。


(え?)


 だが、やってきたのは、かするくらいのささやかなキスだった。しかも唇を避けて、頬に。あっけなさに思わず目を見開くと、今夫となったばかりの王、クレイグはまるで侮蔑するような、冷ややかな目をしていた。



 *



 その晩のこと。

 ゲルダは身ぎれいにして、真新しい寝間着を身に着けて王の待つ寝室へと向かう。

 結婚前に母親から渡された《妻の心得》という本は、ずっと前に勝手に読んでしまっていた。それどころか、前世の影響もあるのか、もっと俗な知識もいつの間にか持っていた。


(出産が鼻からスイカとか何かで聞いたけれど……そっちはなんだったかしら……)


 想像してゾッとし、足が止まる。


「大丈夫ですよ、こういうのは殿方に任せておけば速やかに終わるものです」


 女官長が言うけれど、そうではないことをゲルダは知っている。無駄に豊富な知識がゲルダを追い詰めてくる。知らないほうが幸せだったかもしれない。

 逃げたくなるけれど、女官たちが周囲を取り囲んでいる上に、廊下には等間隔に騎士が配置されていた。

 結婚したからには、当然の務め。逃げ場など無い。

 背中をそっと押されて促される。ゲルダは覚悟を決めて粛々と廊下を歩いた。


「それでは翌朝にお迎えにまいりますので」


 女官長に促され、ゲルダは大きく深呼吸をすると寝室に入る。

 冷え切った部屋だ。明かりもない。だが今宵は満月。月明かりが足元を照らしてくれる。


「陛下」


 声をかける。結婚式で見たあの眼差しが、未だ心に小骨のように刺さったままだった。それを抜きたい。切実だった。

 返事はない。震えながら、一歩寝台へと足を踏み出す。刹那、目を瞠った。

 寝台はもぬけの殻。カーテンだけが揺れていた。

 まさか、と思う。

 ゲルダはバルコニーに飛び出す。だがそこにも人影はない。


(どういう、こと……?)


 ふつふつと湧き上がる感情の色はまるで炎のような赤だった。

 さすがに、理解した。

 ここに、愛など無いのだということを。

 理由はわからない。けれどこれほどないがしろにされても、まだ幸せを信じて楚々としていいのだろうか。

 魔女となって死ぬよりましだと思っていたけれど、この結果が本当にましだといえるのだろうか。


 足に力が入らない。今にも崩れ落ちそうで、手すりと掴んでぎりと歯を食いしばりうつむいた。とそのとき、耳に子供の声が聞こえた気がした。

 あとは楽しげな大人の男の声。

 怒りからしばし解放される。


(? あれは――)


 どこかで聞いたようなと気になって見ると二つ隣の部屋に明かりがついている。興味を惹かれ、バルコニーの手すりに体を預けたときだった。


「バカが!」

「は――!??」


 横から何かに突き飛ばされる。ゲルダは腰をしたたかに打ち、あまりの痛みにうずくまった。


「あぶないだろうが! まだ始まってもないのに飛び降りるなよ! やっと見つけたのに、おれの苦労をどうしてくれる!」


 肩を打ち付けたのだろうか。その男は左肩を押さえ顔を上げた。

 黒い髪、黒い瞳の美貌。カイ・ヘンドリック・トレンメルだった。

 出会いが出会いだけに気にしていたけれど、あれ以来顔を見せなかったし、結婚式でそれどころではなくて存在を忘れかけていた。

 それが、不発だったけれども、新婚の初夜の寝室に現れるなど思いもしない。


「どうしてあなたがここにいるの? まさか……覗き?」


 だとしたらかなり引く。ゲルダが顔をひきつらせると、


「!? んなわけない、警備の担当がたまたまそこだっただけだ!」


 カイは明かりがついている部屋とは反対側のバルコニーを指差す。たしかにあちら側から突き飛ばされたと思い当たる。だが、ここは三階で、バルコニーとバルコニーの間は結構な距離がある。飛び移るのは難しいくらいの。


「……タイミングが良すぎない?」


 ゲルダがバルコニーに飛び出して、手すりから身体を乗り出すまで僅かの間だった。覗き疑惑は晴れない。


「たまたまこちらを見ていただけで」

「あ、ごまかしたわね、図星?」

「ちがう!」


 ゲルダの疑いの眼にカイは少し怯み、すぐに説教に戻る。


「とにかく……死ぬのはまだ早い」

「早いって、どういう意味?」


 まるで死ぬことが運命づけられているようで不快だった。その運命から必死で逃げているというのに、無駄だと言われた気がして、ゲルダが眉を寄せるとカイは目を泳がせた。


「人間、いつか死ぬだろ」

「でも、さっきも始まってないとかなんとか」

「いいから。変に理屈っぽいのは変わらないな」

「誤解を招くから昔から知ってるみたいに言わないで。わたし、あなたのことなんか知らないわ」

「………」


 むっつりと黙り込む表情は妙に幼く見えた。二十は過ぎているように思っていたけれど、実は若いのではないだろうか。


「あなた何歳なの」

「この世界では、歳なんか関係ない」

「はぁ?」

「おれは仕事があるからもう行く」

「仕事? なにをしているの? 警備ってことは兵士? それとも騎士?」

「……おまえ、今度は首を突っ込むなよ?」

「ねえ、質問には答えて。会話になってないでしょ」


 話を聞かない男だ。さすがにうんざりしたところで、


「いいか。大人しくしていれば、死なずに済む」

「……え?」


 突如混じった不吉な言葉にゲルダは固まる。聞き間違いだろうかと目で訴えるけれど、彼は小さくため息を吐いたあと、聞き間違いではないと言い聞かせるかのようにつぶやいた。



「おれにおまえを殺させるな」



 悲壮感の漂う声が記憶を弄った。黒い髪と黒い瞳は、闇そのもの。整いすぎるほどに整った顔。それは、もしかしたら個性がないのと同意なのかもしれない……と思ったところで、はっとする。


「あなた……何者なの」


 まさかと思ってまじまじとカイの顔を見る。だが、記憶の中の男の顔がはっきりしないせいで面影は重ならない。悩んでいるうちに、カイはゲルダの前から消えていた。


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