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1 伯爵令嬢ゲルダ・ヴィオレット・ビュシュケンス

 鐘の音が朝の清浄な空気を震わせた。ゲルダは硬く閉じていた瞼を静かに持ち上げた。そして部屋の天井の紋章を見て、心底ホッとした。

 三日月の紋章はビュシュケンス家の紋章だ。つまり、ここは、ゲルダ・ヴィオレット・ビュシュケンスの屋敷であった。

 はぁああと大きなため息が漏れる。


「よかった……夢で」


 夢の内容はところどころが曖昧で、何をどうしてあのような状況に追い込まれたのかまで思い出せない。ただ、ゲルダはこれがただの夢でないことをよく知っていた。

 これはゲルダの前世の記憶――だと彼女は認識している。というのも、夢にしてはリアルすぎるし、そのうえ同じ夢を何度も見る。何度も見る夢について本で調べてみた結果、前世の記憶が頭に刻み込まれているという結論に達した。


 ゲルダの前世は《魔女》だった。悪しき魔女として魔女裁判にかけられ、処刑される。それも何度もだ。今が何度目の転生なのか、自分でも覚えていられないくらい多くの転生を繰り返してきた、らしい。

 らしい・・・というのは、夢に見るのは一つ前の人生だけだからだ。ただその夢の中で、ゲルダは前にも死んだという記憶を持っているのだから恐ろしい。

 その不可思議な夢を、ここのところ頻繁に見る。週に一度は夢にうなされて、汗びっしょりになって目が醒めるのだ。

 だからだろうか、結婚式が近づいているというのに、心のどこかで不安が渦巻いている。これがやめろという警告なのではと訴えるのだ。


「いえ、大丈夫、今度こそ大丈夫……! だって、わたし、お妃様・・・になるんだもの……!」


 だからこそ、恐怖をぐっと堪えてこの家を出ることを決意したのだから。

 魔女として処刑されたくない。その一心でゲルダは屋敷に引きこもった。

 魔女と言えば森にいる。そうして薬などを作って静かに暮らしている。そして今世で、ゲルダは貴族の娘だ。家出したり、外出して攫われたりしない限り、魔女の生活には関わりがないはずだ。

 危うきには近寄らなければいい。つまりは家からでなければいいと、天気の良し悪しに始まり、病気、怪我、親戚の不幸、はたまた予言まで。ありとあらゆる理由をつけてひたすら引きこもった。


 だが、貴族の令嬢としての務めを果たすことを両親は強要した。すなわち社交界デビューだ。

 家を出たくなくて、ものすごく渋ったけれども、避けることができないのはわかっていた。

 だから王都へ行くだけ行って、王への謁見(デビュー)を済ませたらすぐさま退散しようと思った矢先、その王との対面で見初められるという、国の女性の誰もが憧れるような幸運・・をゲルダは引き当てた。


「そう、幸運、幸運なのよ、わたし……!」


 不安を打ち消すようにつぶやいて呼び鈴を鳴らす。主人が起きたと執事に知らせたのだ。

 鬱屈した気分が消えぬままに窓を見る。だが、カーテンの隙間から覗く明るい色を見て、憂鬱が一瞬ではじけ飛んだ。ゲルダはぱっと顔を輝かせた。


「晴れだわ!」


 そして跳ねるように冷たい床を駆けると、カーテンを思い切り開く。メイドたちは仕事を取られたといい顔をしないけれども、こうすると清浄な朝の光が身を清め、そして温めてくれる気がするのだ。


(あぁ、久々のお天気。あったかい……しあわせ)


 目を閉じて眼裏にまで染み込む光にうっとりしていると、心が大分凪いでくる。思わず鼻歌が出たところで、


「おはようございます」


 侍女のアンナが今にも吹き出しそうな顔を出した。


「ごきげんですわねぇ、ゲルダさま」


 最後は我慢ができなかったのか、アンナは声をつまらせ咳払いをしてごまかした。真っ赤になってゲルダは口をつぐむ。歌声には自信が全くない――というより言ってしまえば音痴なのだ。

 両親は「何というぶざまな歌だ」と眉をひそめるし、使用人たちも「聞いたことが無い歌ですね」と言い、こっそり笑っていることを(アンナはもはや隠してもいないが)知っている。が、歌うのが好きなので、やめられない。


「まあまあ! 足が氷のようですよ。ゲルダ様」


 そう言って、アンナはまずは室内履きを履かせてくれる。羊毛をふんだんに使った、ゲルダのための特注品だ。


「だってお日様の光が見たくって」


 アンナは苦笑いだ。


「お嬢様は本当に太陽がお好きですね。日の出とともに起きられる貴族など、この国にはほとんどいらっしゃいませんよ」

「だって、お日様は明るくて、暖かいから。特に冬はすぐに顔を隠してしまうから、一緒に起きたいの!」


 引きこもったゲルダの世界は薄暗い。そして、寒い。だからこそ彼女は太陽が大好きで。曇りの日は憂鬱でふて寝して。雨や雪となると、日光が恋しすぎて――アンナ曰く、死んだ魚の目をしているらしい。

 寝間着を身体から剥がすアンナの冷たい手に、ゲルダはビクリと震える。部屋は氷のような空気に包まれているけれど、ゲルダの部屋には火が持ち込まれることはない。前世の記憶のせいで、火が怖いのだ。

 しかもビシュケンス家が治める領地、ルーナス伯爵領は国の北端の盆地に位置していて、冬の寒さが厳しい。下手すると室内で氷が張るくらいなのだ。ゲルダは幼い頃から慣れているけれども、仕える方はたまらないだろう。赤くなった手を見ると気の毒だった。

 温めてあげたい。手を差し伸べかけて、ゲルダは慌てて引っ込める。今の世では、この力・・・は、異端のもの。人前で絶対に使ってはいけないものだった。


「いつも悪いわね。寒いでしょ……もうすぐ、結婚式だし、辛い役目も終わるからね?」


 仕事に集中しているのか、聞こえなかったのか。アンナは難しい顔をしたままコルセットをぎゅう、と締める。そして、素早くビロードで出来た艶やかな紫のドレスを着せる。こちらも寒さを感じないようにと特別に誂えてもらったものだ。

 ゲルダの顔は平静を保っているものの、胸がどくどくと音を立てている。実のところ、アンナの返答が怖くて仕方がなかったのだ。

 王宮からは、実家から侍女を連れてきても良いと言われていたけれど、アンナの意志を尊重すると両親には伝えていた。

 色々と理由はあるけれども、とにかく暗さと寒さに滅入って辞めた侍女を数えると、片手で足りない。ゲルダの世話をしていると精神を病みますとはっきり口に出して出て行った者さえいる。

 そんな中一人残ってくれたのがアンナだった。

 だからこそ、アンナの幸せを思うと、解放してあげたい。だけど……本当のところを言えば、心細い。姉のように心を許せるアンナには傍に居てほしかった。だけどその思いは一方通行かもしれない。拒絶が怖いのだ。


(一緒に来てくれる? 無理かな……)


 だが、毛織の肩掛けまでを纏わせ、仕事を終えると、アンナはにっこりと笑った。


「そうですね。もうすぐ、ゲルダ様のあこがれの、暖かく明るいところへ行きますものね。あちらならば冬でも過ごしやすいと聞きますわ、私も・・楽しみです」


 ゲルダは目を瞠る。

 アンナは暇乞いをせずに、どうやら一緒に行ってくれるらしい。それが嬉しくて、ゲルダは飛び上がりたい気分で笑みを噛みしめる。鏡の中の娘が同時に笑顔を浮かべた。

 鏡の中のゲルダは、アメジストのような紫色の瞳と流水のように透明感のある銀髪を持つ美しい娘だ。

 外にあまり出ず、日にあたっていないせいで限りなく肌が白く、まるで陶器のようだった。

 瞬く間に王に見初められ求婚されたのは、引きこもり生活が功を奏したのかもしれない。

 ゲルダは婚約者である王を思い浮かべる。

 太陽の降り注ぐ国、ルークス・ソーリスの王。クライヴ王。

 彼は三十という歳になるまで妃を娶らなかった。女嫌いと有名な彼がようやく結婚するということで、国中が沸き立っている。

 これは誰もが羨むような《結婚》だ。何の心配もいらないと思った。

 十三という年の差に母は大反対したが、もとより断れる縁談ではない。そして火が怖いというゲルダの抱える特殊な事情まで汲んでくれると父は乗り気だった。

 ならば覚悟を決めて受諾しようと思った。ゲルダは魔女になりたくないだけなのだ。王妃であればその運命は避けられそうだし、暖かい日の当たる場所へ出て行ける。そしてきっと家の繁栄にも役に立つ。今まで引きこもって迷惑をかけてきたのだ。こんな自分でも恩返しができるのならば、何より嬉しいと思った。

 快諾すると、父は満足げに微笑み、母は涙を流しながら喜んだのだった。


「本当に、楽しみだわ」


 口に出して小さな不安を踏み潰す。鏡の中の自分に力強く問いかけてみると、鏡の中のアンナが気まずげにうつむいた。

 ゲルダは後に後悔する。アンナの曇り顔を見て、引き返せばよかったのだと。初心を貫き、この薄暗く寒い土地で一生を終えるべきだったと。

 なぜなら、この幸せなはずの結婚が、ゲルダの運命の始まりだったからだ。


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