第5話
ーーーーコトッ
机の上に、二つのコーヒーカップが置かれる。
高級そうなソファーに俺が座り机を挟んで、その向こうに会社のお偉いさんが使いそうな黒のオフィスチェアに腰を下ろしている女性がもう一人。過去に何度も通った部屋に、約4ヶ月の時を経て幸か不幸か俺はまたここに来てしまった。
「で、何の用っすか、一さん?」
「用、と言うよりは、ただ単に少年と話がしたかったのだよ。」
一 九十九 〈にのまえ つくも〉。
年齢不明。職業不明。こうなると、名前さえも偽名かもしれない。
まぁあ、唯一分かる事があればこの人が若くて美人であることだ。
過去にせめて年齢だけでも教えて下さい、とプライドのへったくれもない俺の土下座で聞いてみたが、笑顔で拒否されてしまった。彼女曰く、秘密は暴いてこそ『意味』があるらしい。
俺と会えて嬉しいのか、それとも俺と言うオモチャを見つけた事が嬉しいのか、見る限り一さんにしてはえらく上機嫌だ。
笑顔が似合うその顔であんまり見ないでくれますかね、まったく。俺はため息を一つ吐くと、机に置いてあるシュガーポットから、二つほど角砂糖を取り出し、コーヒーの中に落とす。
「…変わってないねぇ、少年」
「何がですか?」
俺はコーヒーをティースプーンでかき回し、その光景を目で追いながら、一さんの話に質問をする。彼女と話すときはあまり目を合わせない事が得策だ。感が鋭い、と言うか彼女の前では嘘が直ぐバレる。彼女は持っていたコーヒーカップを机に置き、手を組みながら俺の質問に答える。
「コーヒーに砂糖だけを入れるのは、珍しい事だから印象に残っていてね」
「そんなに珍しい事じゃないと俺は思いますけどね。」
「そうかな?私の周りではあまり見たこと無かったからね。気にさわったのなら申し訳ない。」
「いえいえ、そんな事で一々気にさわってたら俺の人生、ヤバすぎでしょ。」
「それは、良かった。少年の寛大な心に感謝だね。…それはそうと少年、私と別れてから新しい出会いは見つかったのかい?」
「何ですか、その言い方?意味深過ぎでしょ…」
俺が彼女を苦手とする部分がこういう所だ。
これまで女子とのお付き合いが無かった俺にこの手のからかいは少しずるい。それに、彼女が容姿が整っているためか、何だが罪悪感と言うかそんな感情出てきてしまう。…すいません、今、僕嘘つきました。女子とのお付き合い、と言うか男子との関わりさえないよ。はっ!、まさか俺がこういう所まで考えると予想して、あんな質問したのかっ!?
「…特に出会いなんてないですよ。」
「少年は色恋沙汰には興味がないのかい?」
「ない、と言ったら嘘になりますが、今はそれよりもやらなきゃいけないことがあるんです。」
「…そうか、まぁ頑張りたまえよ、少年」
「随分と他人事ですね。一さんが言った事ですよ。」
中学三年生の俺に彼女は言った、『探せ』と。
俺は目を細め彼女を睨み付ける。過去の恩義なんてお構い無しに、まるで親の仇であるように。それでも、彼女は崩さない。こんな思いを抱いている俺でさえも面白いのか、そのニヤケ面を崩さない。
「あぁ、そうだね。私が言った。私が与えた。何もかも私がやった事だよ。」
「…結果がこれかよ…」
彼女の言葉に呆れる。この世の中、自分の思い通りにならない事なんて重々承知だ。もしかしたら、一さんのやった事が一番良かったのかもしれない。だが、それでも、それでもっ…!
「…納得いかねぇ。」
「・・・・・・・・」
沈黙がこの部屋を覆う。いつの間にか、膝の上に置いていた拳から血が出ていた。強く握りしめていたことにより、爪が皮膚を破ったのだろう。一さんは、無言で立ち上がり救急箱を持って、俺の隣へと席についた。そして、慣れているかのようにテキパキとした動きで、俺の手を治療していく。
「じ、自分で出来ますよっ!」
いきなり手を握られた事に驚く。こんな美人に治療されるのは役得かもしれないが、俺については心臓がもたない。ぱっ!と離れた手を一さんは再び捕まえ、じっとしろ、と言う意味を含めていそうな目で俺を睨む。いや、これは絶対含んでいますね、はい。
「…納得しなくてもいい。」
「……!」
「ただ理解はしてほしい。彼が考え抜いた最も冴えたやり方を。…少年、もう一度言おう。…探せ、少年が少年である意味を。そうでなければあまりにも彼が報われない。」
「…はい。」
キュッ、と右手の甲に蝶々結びで包帯巻かれている。一さんにしては随分と可愛らしい。…いや、意外でもない。目の前の微笑みを見てそう思う。一さんと目が合い、気恥ずかしくなったので部屋のテレビに目を向ける。そして…そして、俺にとって、約4ヶ月振りの大きな問題となる事がテレビのニュースで知らされることになった。
『えー、歌手のRenaが引退することが発表されました。』