「本気にするけど」
「なにも追い返さなくたって」
「浴衣を着る約束をしてた。あたりまえ」
私服で朝日家を訪れたら容赦なくNGをくらい、浴衣に着替え直して再び合流。
ドタバタしていたら結局約束通りの時間になってしまった。一年前にしまった浴衣の行方を探し、さらに自分で着付けていたらかなり苦労することになった。
「去年も同じやつ見せたじゃないですか」
「でも大樹くん。前よりも背が伸びた」
「そりゃあ、まあ……」
急成長というほどでもないが、去年より数センチほど高くなった。部活でのトレーニング効果も徐々に出てきたのか、筋肉もついてきた。
月夜の熱っぽい眼差しが大樹をとらえる。
「かっこいい」
「ん、ん……」
顔を直視できなくなった。ちょっと嬉しいと感じるし、そういう褒められ方の耐性はついていない。けれど舌なめずりする彼女を見て、やっぱり月夜は月夜だと冷静になった。
「それで、大樹くん」
「はい」
「なにか感想は」
「————」
今のは当然、月夜が着た浴衣のことである。前に散々褒めちぎったから、今回はどういう言い回しをしようか、ちょっと頭を悩ませていた。
結論から言えば、その懸念は杞憂で済んだ。その代わり別の問題が起きた。
前とは別物だったのである。赤を基調とした、ほとんど模様のないシンプルなデザイン。だがそれゆえに月夜本来の美しさを際立たせている。寒色系を好む月夜にしては少し派手とも言える。
あまりにも綺麗だったからしばらく言葉が出なかったほどだ。これ、なんて言えばいいんだ……?
「…………ふふ。だいたいわかった」
言葉なんかより、大樹の態度の方が雄弁だ。月夜もそれを感じ取っているから満足げな様子だった。
勝手に理解されると何も言えなくなって悔しい。
「あれ、やりたくならない?」
「あれ?」
月夜は器用にその場でくるくる回る。
「あーれー、お戯れを~」
「ほーんと、センパイってバカですよね……」
「ちなみに私、自分で着付けができないの。いまのうちに申告しておくから」
「やったら大惨事じゃないですか」
そもそもやるつもりもない。
「なんだか楽しそうね。私もまざりたい」
客間のふすまが開けられ、入ってきたのは月夜の母だ。
大樹は軽く会釈するが、月夜は不満げに唇を尖らせる。
「二人きりの時間だから。もっと気を遣って」
「あら生意気。誰が着付けてあげたと?」
「それはそれ」
「浴衣が中々決められなくて『お母さん、どうしよう。どれが可愛い?』って何度も私に尋ねたのは誰だった?」
「お母さんっ!!」
「そう。正解ね…………あ、こら。押さないで。痛いわ」
月夜母は一瞬で退場していった。もう少し喋らせてあげても良かったのに。
不機嫌そうに足を踏み鳴らして、月夜は告げてくる。
「大樹くん。もう出ましょう。ここにいたらまた邪魔される」
言い終えた途端、月夜は玄関に向かってしまった。
すぐに追いかけたかったが、挨拶もなしに出ていくのはあり得ない。隣の部屋をのぞくと体育座りで拗ねている月夜母を発見した。
「月夜さんをお借りします。遅くならないように戻ってきますので」
「そう」
大樹が声をかけた途端、何食わぬ顔で月夜母は立ち上がった。
落ち込んでいたのはフリか。
「本当に戻ってこれる?」
「ど、努力はします」
「果たしてそう上手くいくかしら。うちの月夜は手強いわよ」
「なんで挑発的なんですか」
雰囲気次第ではどうなるか分からないから、本当に怖いところだ。
「気を付けて。いってらっしゃい」
月夜母に見送られ、朝日家を出る。
待たせていた月夜に詫びを入れると、彼女は大樹の腕をとった。履き慣れない草履とこの体勢のせいで二人の歩みは遅々としている。でも、これくらいでいい。
「そういえば」
ふと思いついたように月夜が言う。
「なんで早くきたの」
「あー。まだ怒ってる?」
「全然。だけど、あなたらしくない。まるで衝動的にとった行動みたい」
「分析するのやめてもらっていい?」
一度冷静になってしまうと恥ずかしいから掘り下げないでほしい。
「なんとなく。そういう気分になるときもあるでしょ」
そんなつもりはないのに、言い訳がましくなってしまう。
「そう」
大樹の心境を推し量ったのかどうか。月夜はそれ以上聞いてはこなかった。
ただ、彼女はおもむろに歩みを止めた。予期せぬ動きに大樹の腕が引っ張られ、前につんのめる。
「どうしたの——————はっ?」
前傾姿勢になったところに、月夜が背伸びをしてきた。
大樹の頬に、月夜の唇が軽く触れる。だけどそれも一瞬のことで、月夜はもう前を向いていた。
そして、何事もなかったかのように大樹の腕をとって歩き始めた。
……。
………………。いやいやいやいや。
「なんで?」
「なんとなく。そういう気分になるときもある」
「そ、そうですか」
「……なんだか物足りない。もう一回。今度はそっちから」
「あ、月夜さん! 着いたみたいですよ。早く行きましょう!」
「デレているのだから露骨に話を逸らさないでくれるかしら」
◇
一年ぶりの夏祭りの光景は記憶と寸分違わない。
色とりどりの屋台が所狭しと並び、ぶら下がった提灯が宵闇を照らす。人は多すぎず少なすぎず。見かけるのは小さい子供と、その両親の姿ばかりだ。夏休み最終日、最後の時間を楽しみたいのは皆一緒だ。
行く前はそうでもなかったのに、空気にあてられて大樹の気分は高揚した。
早く色々と見て回りたいのだが、さっきからずっと腕が重い。
「あの、月夜さん。そろそろ離れませんか」
「断るわ」
「強く言い切るじゃん……」
「理由がないもの」
「動きづらい」
「ではそんなあなたを説得してみせましょう」
「なんだって?」
また妙なことを言い出した。
だけど困ったことに月夜は大真面目だった。
「この場で腕を組むことの重要性を説くわ。納得したのなら四の五の言わず私の言う通りにして」
「とりあえず、聞くだけ聞いてみましょうか」
「夏祭りにはハプニングがつきものよ」
空いている片腕を上げ、指を立てる。
「その一。人波に飲まれて離れ離れになる」
「うん」
「その二。ガラの悪い人たちに目を付けられてしまう」
「うん」
「その三。花火の音で告白が掻き消される」
「もはやただのあるあるになってない?」
「これらの問題は全て、私たちが密着することで解決できる。一は言わずもがな。二の場合もわざわざこんなカップルに声をかけない。三も然り」
「ガバガバな理論武装やめましょうか。一と二はまだいいとして……三は、ほら。もう俺たちは付き合っているわけだし必要ないよ」
聞いているのか聞いていないのか。月夜は大樹の反論など意に介さない。
楽しそうにあたりを見回しながら放たれた彼女の言葉に、大樹は耳を疑った。
「懐かしい。去年、この夏祭りであなたに告白するつもりだった」
「……。ええっ!? そうだったの!?」
びっくりし過ぎて大きな声が出た。
「やっぱり。気付いてなかった」
「え、ごめん。今更になるけど……気付いてあげられなくて」
頭が混乱してくる。月夜はそんな素振りを見せていただろうか。思い出せない。あのときは自分が楽しむので夢中になっていたから。
確か、月夜は中学時代からの片想いだと教えてくれていた。つまり、当時もそういうつもりで誘ってくれていたということで……。
「本当にごめん」
「もういいの。今こうして付き合えているから。私は大満足」
そう言って笑う彼女は、どこか儚げだった。
心なしか腕の力が弱まる。
「でも。あの時もあなたの腕をとって歩きたいって、そう思っていた。もし許してくれるなら今年はそれを叶えさせてくれると嬉しい」
「そんな言い方ずるくない!? いいよ! 腕くらい好きなだけ使って!?」
「ではお言葉に甘えて」
さっきまでのしおらしさはどこへやら、しれっと大樹の腕を捕まえてくる。
月夜は勝ち誇った笑みで告げてきた。
「あなたも簡単すぎない?」
昨日の意趣返しだ。まだ根に持っていたらしい。
「大樹くんはなんだかんだで甘い。本当にそんなつもりだったかなんて私以外わからないのに」
甘いつもりはない。さっきの流れで拒否する男がいるなら教えてほしい。
「おーい、そこのお二人さん。声かけてもいい?」
やや前方から声が飛んできた。大樹の顔が引きつる。また見られてしまった。
女子四人組のうち、知り合いは一人だけ。月夜の友人である天野翠だった。
「途中から見てたし聞いてたけど、君ら羞恥心ないの?」
翠はうちわをパタパタと扇ぐ。
反射的に体を離そうとするが、月夜にぐっと引き寄せられる。
「このまま」
嘘だろ……。好きに使っていいと言ったが、知り合いに見られていると思うと腰が引けてくる。
百歩譲って翠は良しとする。もっと気まずい場面を目撃されたこともあるし今更だ。
問題は残りの女子三人だ。当然、面識などない。しかし向こうは大樹を知っているようだ。月夜と付き合って以降、一方的に知られるのはよくあることだった。
「あの、他の人たちって」
「全員、私のクラスメイト」
耳打ちすれば、月夜も耳打ちで返す。迫った距離感に彼女たちは黄色い声をあげた。
「ねえねえ朝日さんの彼氏くんだよね!?」
「その浴衣かっこいー!」
「一緒に住んでるって噂があるんだけどマジ!?」
一気に囲まれてしまった。矢継ぎ早に質問攻めしてくる彼女たちに圧倒されて、大樹は何も答えられなくなる。困り果てている大樹を見かねて助け船を出したのは翠だ。
「はいはい! そんな一気に聞かないの! 後輩くんが困ってるって」
翠のおかげで彼女たちの攻撃は弱まった。が、沈黙もそれはそれで怖い。期待に満ちた眼差しを向けられている。
「改めて皆に紹介するわ」
月夜が皆の前に歩み出る。もちろん大樹と密着したままで。
「こちら私の彼氏の篠原大樹くんよ。素敵でしょう」
なんだこの公開処刑。
月夜が言い放った瞬間、また騒がしいことになった。根掘り葉掘り色々なことを聞かれて、それに全て月夜が馬鹿正直に答えていく。
翠たちが去っていく頃には大樹の体力がごっそりと削られていた。
「疲れてない?」
「つ……月夜さんが楽しそうなので、全然オーケーです」
「そこでラムネ瓶でも買って休みましょう。まだどこの露店にも寄ってない」
そういえばそうだった。
月夜が買いに行っている間、大樹は人の流れを避けた石垣に背中を預けていた。
「ごめんなさい。語っているうちに熱が入って。はしゃいでしまったわ」
手渡されたラムネ瓶を受け取り、半分ほど飲み干した。思ったより喉が渇いていたらしい。
「結構盛り上がってましたね」
「そう? いつもこんな感じ」
「ほんとう?」
「なんで疑うのかしら」
「翠先輩以外の友達がいるの、なんか実感わかなくて」
「すごく不服な言い草だけど……原因は大樹くんよ」
「俺なにかしました?」
心当たりはまるでない。
「私が特定の誰かと付き合い始めたから。明らかに皆の態度が変わった。特に同性の友人が増えた」
ああ、と納得する。
月夜を狙っていた男子生徒が他に流れたから、女子たちが月夜を敵視しなくなった——みたいなことを言いたいのだろう。
「実は俺も。友達いっぱい増えました」
「あんなに不安がってたくせに」
「みんな良い人たちでした」
てっきり嫌がらせを受けると思っていた自分が恥ずかしい。
月夜をきっかけにして話しかけてくるのがほとんどだったが、それで仲良くなれたクラスメイトも多い。
入学したての頃、教室の隅っこで昼休みを一人で過ごしていた身としては信じられない躍進だ。
「ちなみに大樹くん。私が進学したら、大学でもさっきみたいなことはしてもらうつもりよ」
「なんでっ!?」
「彼氏持ちだってアピールしておかないと大変だもの」
説得力が凄まじいが、出来れば行きたくない。
大樹が言い訳に頭を悩ませていたときだった。頭上で閃光が走った。ついで胸に響く轟音が鼓膜を打つ。
「あ」
歓声が上がる。
大樹も月夜も呆然として空を見上げた。もう花火が打ちあがる時間だったのか。二人してまったく気付いていなかったのが少し間抜けで、顔を見合わせて笑った。
「ここでゆっくり見ていこう」
「そうですね」
視界の全てを埋め尽くすように、夜空に大輪が次々と咲き誇る。
花火は好きだ。けど、いつもは遠い場所から眺めてばかりだった。近くだとこんなに迫力があるのを知ったのは、去年月夜が誘ってくれたからだ。
「今の花火っ、見ました!?」
横にいる月夜の肩を叩こうとして、大樹はその手を止めた。
振り向かせようとする前から、月夜の顔はこちらに向けられている。大きくて黒い瞳が大樹を見つめていた。
「……もしかしてずっと?」
「ええ」
「なにやってるんですか勿体ない!」
「正直なところ、花火よりもそれを見ている大樹くんの方が興味深い」
「月夜さんも一緒に見てください! ほら!」
「ええ……」
「なんで嫌がってるの!?」
頑なに、まったく上を見ない月夜に嘆息する。
なら、こういう話でもしてみるか。
「実は今日、久しぶりに父さんと話したんです」
「っ! お義父様と?」
月夜の声が緊張気味に上擦った。
「な、なにか言っていたかしら」
「一緒に花火を見てくれないような人とは付き合うなよって」
「そんなピンポイントな要望ある?」
「月夜さんと仲良くしてるかって」
「そ、それで」
「それで?」
「あなたは何と答えたのかしら」
普通にそのまま答えようとして言葉を引っ込める。
「月夜さん。花火が綺麗ですね」
「わかったから。一緒に見るから後で教えて。絶対」
◇
「俺、父さんと母さんに憧れてたんですよね。すごい良い夫婦だなって」
全ての花火が打ちあがり、人の姿もまばらになった。閑散としている、というほどではないが露店も次第に片付けを始めている。
祭りの終わりを感じ、昨日のような寂しさがよぎった。
まだこの一日を終わらせたくなくて、二人でベンチに座った。
「私も、同じことを思ってた」
月夜にそう言われ、嬉しくなった。
身内贔屓ではなかったようだ。
「ありがとね、月夜さん」
「いえ。お義母さまに何十回も馴れ初めを聞かされたから。どうしてもドラマチックに思えてしまって」
「ごめんね、月夜さん……」
悲しい被害者が一人増えていた。
「月夜さんは自分の親からそういう話は聞かないの」
「あまり。母からずっと言われていたのは、付き合う相手を冷静に見極めろってこと」
「冷静に?」
「母は、父と出会うまで付き合ったり別れたりを繰り返して、それなりに失敗を経験してきたみたい。だから、私はそうなるなってずっと言われてきた」
ファミレスでの月夜母との会話が蘇る。
あの人は不器用くさかったけど、本気で月夜を案じていた。
「だから、って言いたくないけど。異性には警戒心強めに接するしかなくて。こんな風に生きていたら、誰のことも好きになれないんじゃないかって。でも、それでも困らないって思ってた————あなたに出逢うまでは、だけど」
「それは……光栄なことだね」
照れ隠しでなんとか言葉を振り絞ったが、声は掠れてしまった。
「じゃあ月夜さんは、意外と冷静に俺のことを見ていたのかな」
「そう思う?」
「…………あんまり」
「見極めろなんて言われても分からないもの。だからあなたに抱いたこの特別な感情を、直感的に信じることにしたの」
月夜が自分の胸に手を当てる。まるでそこに大切な宝物がしまっているみたいに。
「だからあのときも、あなたを絶対に捕まえておきたくて。追いかけてしまったの」
月夜と付き合うことになったあの日。
本来なら大樹は、誰とも付き合わないという選択をするつもりだった。二択を絞り切れず、かといって選び抜くことも出来ず。
二人の女の子の気持ちを拒絶しようとした。
一人は悲しそうな顔をしながらも、最初から覚悟していたみたいに大樹の前を去った。
もう一人の女の子にも同じ結論を伝えた。反応を見るのが怖くて大樹はその場を逃げ出した。なのに……。
「あのときは、心底驚いた」
「私を本気にさせたのが悪い」
つくづく、幸運なことだ。
ここまで熱烈な想いを向けてくれる人なんて、一人しかいない。
「あの、月夜さん」
「うん」
今から言おうとしていることを頭の中で再確認する。
途轍もないくらい、汗が噴き出してきた。
「お、俺、まだ結婚とか考えられないって言ったじゃん?」
「え。う、うん。そうね」
「けど、もし将来的に家庭を持つなら、その相手は絶対に、月夜さんがいいって……そう思っているから」
言い切ってしまった瞬間、激しい羞恥心が込み上げてきた。
顔を見られたくないし、見たくない。何を言っているんだ。こんなのプロポーズじゃないか。
「大樹くん」
「は、はい」
「それ。本気にするけど。そういうつもりで受け取るけど。いい?」
月夜は、可哀そうなくらい顔を真っ赤にしていた。
大樹は何も言葉を紡げず、それでも何度も首を縦にふった。
「そう。……帰りましょう」
「あ、待って。月夜さん!」
早足になる月夜を追いかけてその手を握ると、びくっと大きくその身体が震えた。
「大樹くん。今日はもう解散です。これ以上あなたと一緒にいると正気じゃいられない」
「え」
「早く帰って、ベッドに入って……さっきのあなたの言葉を大事に思い出すの。そうしたらぐっすり眠れそう」
「そ、そう」
「また明日。学校で」
浴衣を翻し、颯爽と駆けていく月夜。かんかん、と甲高い足音が響いていった。
あっという間に彼女の姿が小さくなっていく。
道を曲がっていく寸前、かすかに手を振っていたような気がした。だがそれを確かめる間もなく月夜は闇夜に消えていった。
大樹はその場に立ち尽くした。
明日、どんな顔で会えばいいんだ……?
全ての読者に感謝を。