「本当はもっと一緒にいたかっただけで」
長いので分割で。
「夏祭りに行きましょう」
「わかりました」
「む。あっさり。潔いね」
「明後日から学校だから」
夏休み最終日に何もしないなんてあり得ない。月夜が何かしらの提案をしてくるのは分かり切っていたから予定は空けてあったのだ。
今年は宿題が終わって本当に良かった……。
「どこの夏祭りに行きます?」
月夜が手渡してきた冊子を受け取る。地元の広報誌だ。
見覚えのある場所の写真が並んでいる。それもそのはずで去年もその花火大会に行ったのだ。そのときも月夜と二人きりだった。
「………」
一瞬の黙考のすえ、大樹は躊躇いがちに口を開いた。
「もしあれだったら遠出します? ここは去年も行ったし」
「えっ、旅行!?」
「そうとも言います……」
言い出しっぺのくせに、大樹の歯切れは悪かった。
どうしよう。調子に乗って県をまたぐくらいの移動になったら。せめて神奈川か千葉近辺にしてくれると助かるが……。
「でも、今回はここでいい」
数秒前まではしゃいでいたくせに、急に冷静になる。
その落差にちょっとだけ戸惑った。
「本当にいい?」
「うん。浴衣を着たいし、着てもらいたいから。あんまり遠いと大変」
去年もお互い浴衣を着ていったから、そうしたいだろうとは思っていた。
でも地元の夏祭りにこだわる理由はなんだろう。大樹は一年前のことを思い出していた。あのときは知人たちの闖入により途中で月夜の相手にしてあげられなくて、彼女と仲違いのような形で別れてしまったのだ。
今回はそういう失敗をしたくない。
でもその訳を話すほど野暮なことはないし……。
「それに、やってみたいこともあるの」
勝手に苦悩していると月夜が何かを言っていた。
楽しそうにこちらの反応を窺っている。
「……それは?」
「二人で並んで花火を見ながら『綺麗ね』『月夜さんの方が綺麗だよ』みたいなことをささやき合うの」
バカみたいに欲望丸出しの願望だ。絶対やらない。
「履き慣れない草履に足を痛めて、あなたに背負ってもらったりとか」
「スニーカーでも履けば」
「射的や金魚すくいで鮮やかな腕前を見せるあなたにドギマギしてみたり」
「圧倒的に月夜さんの方が得意なんだよ」
打ちのめされた屈辱は忘れていない。いい恰好をしようと奮起した時期が大樹にもあったが、ちょっと敵わないと思っている。
「かき氷を食べてから舌を見せつけたり。べーって」
「———」
「なんで黙るの」
そういうお茶目なところは見たいからだよ。
というか、話をうまく誘導されていないか。夏祭りのプランが着々と練られていく……地元を避けようとする大樹の思惑を見抜いているのか。
「旅行はいつか必ず行こう。また誘ってくれる?」
「……りょうかい、です」
どちらにしろ、今回は諦めるしかない。本人が気にしていないなら、いいか。
「それで、当日は現地集合とします」
「……なんで?」
「そうした方がデートっぽいから」
「そう?」
待ち合わせは醍醐味だと力説してくる月夜だったが、いまいちピンとこなかった。
それに、これに関しては猛反対だ。
「いえ。家まで迎えに行くので、そこから向かいましょう」
「なぜ」
「途中でナンパされると面倒でしょ」
「………」
「え、なに。真顔で黙らないでよ」
至極当然の指摘をしたつもりだ。
無言で、月夜がすり寄ってくる。肩が触れるくらいの距離感。見間違えでなければ、照れているように見える。
「なんか。大樹くんもそういうのを平然と言うようになってきた」
「そういうの?」
「さらっと褒める感じ。ちょっと遠回りだけど」
「…………え。別に褒めたつもりないけど」
「褒めたつもりがない!?」
赤い顔してデレてきたところ申し訳ないが、大樹にそんな意図は全くなかった。
「自分で分かってるでしょう。あなたが浴衣を着て歩いたら声をかけてくるのは一人や二人じゃないよ。合流するのが大変になる。して当然の対策はしておかないと」
体育祭の盆踊りでもそんな有様だった。
人に視線に敏感なくせに、ときたま無頓着で無警戒になるのが困る。
「なんとかなる。いままでもこれからも」
「運が良かっただけ。マジで駄目」
「頑固」
「それだけ月夜さんが大切で心配ってこと。みなまで言わせないで恥ずかしい」
「そ、そう。そういうことなら」
「————。月夜さんってちょっと簡単すぎない?」
「あ、か、からかったの!?」
別の理由で顔を真っ赤にして月夜が憤慨する。
いけない。最近ちょっと口が軽い気がする。思ったことをそのまま言ってしまうようになった。
「もう知らない。帰る」
「あ、待ってください」
早足で玄関に向かう月夜のあとに追い縋る。止まる気配はない。
「いまさら引き止めても遅いから」
「そんなことしませんけど」
むっとした月夜が、もの凄い形相で睨んでくる。
「じゃあ、なに」
「家まで送ります。夜なので」
「まだ六時だけど」
窓を指差され、大樹はそちらに向き直った。空は橙色に照らされている。夏はこの時間帯でも比較的明るい。
夜がどうとかは方便だ。本当は一人で歩かせたくないだけである。
月夜に続いて大樹も靴を履き終えると、彼女は諦めたみたいに溜息をついた。
「勝手についてくれば」
「そうします」
素っ気ない口調も意に介さず、何食わぬ顔で三歩後ろをついて家を出た。
道中、会話は全くなかった。エレベーターに乗ったり信号に立ち止まったりして一時的に隣に並んでも、歩き始めたら一定の距離感を保った。月夜の足取りはいつもより早い。
だがそうしているうち、月夜は何度もこちらを振り返ってくるようになった。
「どうしたの」
「……べつに」
最初は肩をいからせて大股だったのに段々と歩調が合ってくる。気付けば隣に並んでいた。
申し訳なさそうに月夜は言う。
「送ってくれてありがとう」
「いえ」
「本当はちっとも怒ってないの」
「わかってます」
「ただ、本当はもっと一緒にいたかっただけで」
「さっき、引き止めても遅いって言ったくせに」
「そ、そうだけど。そこでもうちょっと粘ってほしかった」
「ふーん……」
可愛いこと言うじゃん?
「もっと私の期待通りのリアクションをしてほしい」
すごい勝手なこと言うじゃん?
空白の二週間が過ぎてから、月夜が大樹宅に泊ることはほとんどない。今までが近すぎた分お互いに距離感を測りかねているのが現状だ。
一応、受験が終わるまでは極力抑えようというのが二人で出した結論だが、あってないような約束だ。時間の問題だろう。
物思いに耽っていたら、手の平が柔らかい感触に包まれた。月夜の手は冷たくて気持ちよかった。こんなに暑いのに汗がにじんだ様子もない。
彼女の方を見やると、平然とした面持ちで前を向いていた。何も言ってこないので、お構いなしに大樹は凝視を続けた。月夜の頬を、うっすらと汗が伝う。
「……なにか問題でも」
「ありません」
そこからは今度こそ、本当に一言も喋らなかった。その代わり、ときたま手に力を加えて相手の反応を窺う。そんなやり取りを彼女の家の前まで繰り返した。
月夜を送り届け、通ってきた道を戻る。さっきまで鮮やかな彩りがあったはずなのに、今は物悲しい道に思えた。日が沈んでしまったせいだろうか。
以前ならこんなことは気にも留めなかった。物足りなさを埋めようとした結果、見えていなかったことに気付いてしまったのだ。
「なに考えてるんだろ」
夏の終わりを感じてセンチメンタルになっているらしい。
心地よい涼風に身を任せ、大樹は願う。明日が早くやってきますように、と。
◇
願いが届いたおかげかどうか、無事に朝がやってきた。
夏休み最終日。いつもの家事をこなす。月夜と離れている間は自分でやっていたのでルーティンが戻ってきたというのが正しい。だが、男一人分の洗濯物は少ないし食事も簡単に済ませてしまう。
「なに、してようかな」
独り言がついて出た。壁にかけた時計を見る。夜どころか昼ですら遠い。
ソファに寝転がり、特に観たいわけでもない映画を再生する。いつぞやのシャイニングだった。続編の方に切り替えてみたが途中で飽きて停止してしまう。
お腹もすいてないのに昼飯のうどんを用意し、あっさりと平らげる。
またソファで横になる。眠たくは、ならない。
「暇、だな」
こうしていると母と紗季が家を出た頃を思い出す。
あの二人には手を焼いてばかりだった。三人分の家事をこなして、母に紅茶を用意して、紗季が何か失敗してその尻ぬぐいをする。そういう毎日を過ごしてきた大樹にとって、一人暮らしは魅力的に感じた。
実際、初めはそうだった。自分のために使える時間が増えれば、精神的なゆとりも増える。
新しいクラスメイトに囲まれながら授業を受けて、部活に励む。より厳しく忙しい生活だったがそれに見合う満足感や達成感も得られていた。
それが崩れかけたのはいつからだったか。いや、初めからか。
見送る者も迎えてくれる者もおらず、毎夜を一人で越えてゆくうち募り出したのは虚無感だった。この家はこんなに広かったか。こんなに静かだったか。
電話一本で、両親とも紗季とも話ができる。けれど、出来なかった。高校生にもなって家族が恋しいなんて白状するのは、なんだか恥ずかしくて。
「……向こうは、ちょうど零時くらいか」
大樹はスマートフォンを取り出した。国際電話を使うのは初めてだ。やり方を調べてみると意外と入力が多い。これで本当に合っているのか不安になりながら操作を終えるとコールが始まった。
ほっとしたのも束の間、今度は相手が出てくれない。真夜中だから眠っているのかもしれない。
臆病風に吹かれて、もう切ろうとした瞬間だった。
『大樹?』
懐かしさのある、低い声。間違いなく父のものだった。
「あ、えっと」
自分でかけたくせに、本当に繋がるとは思ってなかったせいで心の準備が整っていなかった。そもそも何故かけたのか。
『何かあったのか』
父は——篠原直樹は気遣わし気に問いかけてきた。
基本的に物静かで感情の起伏が薄い人だったが、時折垣間見える優しさに触れるときが一番安心する。
だから、素直な気持ちを伝えた。
「違う。ただ、なんとなく。話したくなっただけなんだ」
息をのむ音が耳に届いた。滅多なことを言ってのけた大樹に驚いているのだろう。
親子揃って、次の言葉が出てこない。なんとも間抜けなことだ。
『やっぱり、何かあったんじゃないのか』
「ないよ。どうしてそう思うの」
『大樹がそんな理由で電話をしてくるのは初めてだよ。何か困ってることでもあるんじゃないのか』
なるほど理屈は正しい。父親だけあって大樹の性格も理解している。
ただ、心境の変化があったのを知らないだけだ。
「そうだね。もし本当にそうだったら、かけないつもりだった」
『……? 逆じゃないのか』
「いや、合ってるよ」
見栄の問題だ。あれだけ余裕ぶって大口叩いておいて、いざ一人で暮らし始めたら不安になったなんて口が裂けても言えない。父が心配していたのはそういう面だったんだと、今更に気付く。
自分が家族を支えているつもりになって、実際に助けられていたのは自分の方なのに。
「俺はもう、大丈夫なんだ。月夜さんがいてくれるなら」
『……そうか』
思わずといった具合に、父は笑った。
『そっちは夏休みか』
「うん。今日で終わるけど」
『月夜さんとは仲良くやってるのか?』
「あー、うん。そうだね。というかほとんどずっと一緒だった」
辟易した口調で大樹がそう言うと、父は『あー……』と全てを察したみたいだった。
『月夜さんは、なんだ、その、押しが強いというか……母さんに似てるところがあるからな。気持ちはわかるぞ』
「父さんならそう言うと思ってた」
あのダメダメな母と完璧超人の月夜を捕まえて、似ていると評するのは篠原親子だけだろう。性格も能力も全く似ていないが、ある一点だけその限りではない。
見える。いずれ父の二の舞になる未来が。
『母さんは? もう寝てる?』
何気なく聞いたつもりだったが、父の反応はしどろもどろだった。
『あ、いや、母さんは……たったいま寝かしつけてきたところだ』
「寝かしつけてきた?」
『ああ』
「そ、そっか」
深くは聞くまい。
「母さんと一緒で楽しい?」
『どうした急に』
「俺はさ、月夜さんがいないと落ち着かないよ。父さんもそうだったんじゃないかって」
すぐに返事はこなかった。やや考え込むような息遣いがあって、続いてベッドがきしむ音が聞こえてきた。露骨に動揺しているのが分かる……。
『お前が生まれるまで、父さんと母さんは二人で暮らしてた。それなりに長い期間。翌年には紗季も生まれて————だから転勤が決まったとき、泣きじゃくる母さんを宥めながら……本当は俺の方がどうにかなりそうだった』
父の声がささやくような小さなものになった。奥から誰かの————きっと母さんだ。母さんの寝息が聞こえる。電話が寝息を拾うくらい、二人が近い距離にいるということで……。
『お前の言う通りだ。うん。そばに母さんがいてくれてほっとしてる』
父とは共に暮らさなくなって久しい。だから距離感に戸惑ったり言葉が出てこなかったり、どういう人だったか分からなくなったりする。母さんや紗季のように分かりやすい性格ではないから尚更だ。
そんな父の心中を知れて、嬉しさを覚える自分がいる。
「そろそろ切る」
『もういいのか』
「そっちは夜でしょ。もう寝ておきなよ」
『……じゃあ、そうさせてもらおうか。もうクタクタだよ』
苦笑し、大樹は電話を切ろうとした。しかしその寸前で父の声が響いた。
『大樹』
「うん?」
『電話をもらえたこと、嬉しかったよ。そばにいてやれないのが申し訳ないけど、必要ならいつでも駆けつける』
「……ありがとう。おやすみなさい」
今度こそ通話を切る。一気に緊張感が解けた。そんな感覚があった。
けれど、父と話せて良かった。このそわそわした気持ちがどういうものか、受け入れることができる。
約束していた時間はまだまだ遠い。しかしそんなことはお構いなしに大樹はメッセージを打ち込んだ。
———今から会いに行ってもいい?
返信を待たず、大樹は家を飛び出していた。