「ギブアップです」
「んんっ、うう……」
頭が重い。体の節々もズキズキと痛む。ここ二週間ほど生活スタイルが乱れていたせいだ。
月夜は窓から射し込む西陽に目を細めた。まだ眠っていてもいいだろう。とにかく今は睡眠欲を満たすべきだ。
全国模試を終えたらその足で大樹の家に行こうと思っていたが、こんな状態では駄目だ。髪や肌に手入れが行き届いておらず、顔は病人のように青白い。隈だってある。幻滅されたくない。
「目が覚めましたか、月夜さん。何か飲みますか」
「いらない……」
食欲は一切ない。食べたら吐きそうだ。せっかく大樹に気遣ってもらったのに申し訳ない……。
「えっ?」
ベッド横に誰かいる。顔が見えない。今はコンタクトをしていないんだった。
慌ててメガネを手にする。レンズ越しの世界を見れば、ずっと会いたかった人が目の前にいた。
「お久しぶりです。月夜さん」
◇
「なっ、なんでいるの!?」
「お母様から鍵を預かって……それでお邪魔しています」
「い、意味がわからない。いつどこで母と会ったというの」
「部活帰りに。ファミレスで」
「偶然!?」
「いえ、呼び出されて」
「私からの連絡はガン無視したくせにぃ……!」
跳ね起きた月夜の恰好は、ある意味新鮮だった。ゆるっとしたスウェットに普段かけないメガネ。一緒の部屋で寝ることも多くなってきたが、こういう姿は初めてだ。
はっとした顔になって、月夜はしゃがみこんでしまう。恥ずかしがる必要なんてないのに。
「……出て」
「え」
「一回出て!」
強制的に退場させられた後、叩きつけるように扉が閉まった。ドタドタと慌ただしい音が部屋から漏れ聞こえた。
五分くらい待ってから、月夜が顔をのぞかせる。
「もう入っていいから」
「あ……改めてお邪魔しますね」
中の様相がガラリと変化していた。別に散らかっているというほどではなかったが、周囲に積みあがっていた参考書や筆跡の濃いノートが全て消えている。ほのかに消臭剤の香りがする。
「張り紙まで剥がしちゃったんですか」
「思い出さないで! 忘れて! 恥ずかしい!」
コテコテの受験生みたいなことが書かれていた。受験が終わるまでそのままでもいいんじゃないか。『寝たら殺す』はちょっと引いたが……。
ラフな部屋着をした月夜が椅子を指し示した。
「座って」
大樹は無言で頷いてみせた。月夜から有無を許さない迫力が出ているせいだった。
対面のベッドに足を組んだ月夜は、その姿勢のままずっと大樹を睨みつけている。
「なんで来たの」
物凄く固い声音だった。
「月夜さんのお母さんから、模試が終わったと聞いたので。それで……」
「おかしくない?? どうして私とは会ってくれないのに母とは会っているの?? なんで母とやり取りしてるの?? 私は君に会いたい想いを必死に押し殺して自粛期間を過ごしているのになんで???」
相当の鬱憤が溜まっていたらしい。矢継ぎ早に言葉を繰り出してくる。
「で、そっちは予告もなしに会いに来たの? 勝手に部屋に上がり込んで? それって都合が良すぎるし、なんなら失礼じゃないかしら」
「……おっしゃる通りです」
返す言葉が見つかるわけもなく、甘んじて月夜の言葉に耳を傾ける。ちなみに大樹は途中から正座をしていた。考えるまでもなく、身体が勝手にそうしていた。
「ほんとに、もう」
濡れた声に、反射で顔を上げた。月夜は怒った顔のまま涙を流している。
さすがにこれには焦った。
「な、なにも泣かなくたって」
「私がどれだけ不安だったと思っているの。いきなりわけのわからない理由で会ってくれなくなるし。マジで連絡つかないし。本当に模試の結果次第では別れることになるかもって、それで……」
しゃくり上げながらも、月夜は止まらない。
「毎日必死に勉強したのに、当の君はけろっとした顔でやってくるし。どうしたらいいの。怒りたいのに、それでも嬉しくなってる……」
ベッドからおりた月夜は、大樹の前にひざまずいた。泣き続ける彼女を見て、込み上げてくるものがあった。いや、思い出という方が正しい。月夜と付き合い始めた日のことを、ありありと思い出せる。
「逢いたかった」
夏場だというのに月夜の体温は低かった。指先まで冷たい。
あの日もそうだった。降りしきる雨のせいで二人して濡れネズミになった。さっさと屋内に戻ればよかったのに、そうしようと言うこともなく。
「大樹くんは寂しくならなかったの?」
現実の月夜の声に、大樹の意識が戻る。
「なりましたよ。すごく」
「なんだかまだ余裕そう」
「そう見せてるだけ」
「どうだか」
刺々しい言い草とは裏腹に、月夜は体重のほとんどを預けてきた。咄嗟のことでバランスが取れず、倒れ込んでしまった。
「ちゃんと練習出てる? 体がなまっているんじゃない?」
「月夜さんが重くなったんじゃ……」
「んなっ」
ぽつりと呟いただけだったのに耳ざとく拾い上げたらしい。
手加減のない拳骨に襲われた。
「そんなはずない。むしろ体重は落ちてる。どこかの誰かさんが無茶な要求をしてくるせいであまり食べてない」
「じゃあ、今日は一緒にご飯食べましょうね」
「………」
突然黙り込んでしまった月夜に、大樹は不安を駆られた。
「どうしました?」
「まだ模試の結果は出ていないのだけど」
「……はい?」
「順位が出るまで会ってくれない約束だった」
拗ねるみたいな言い草に思わず苦笑してしまう。
「じゃあ、やっぱりまた今度にします?」
「なんでそっちが主導権を握っているみたいになっているの。おかしいでしょう。あなたが必死に懇願して、私がそれを渋々了承するのが自然の流れです」
「そうですね……」
そっと吐息を漏らし、大樹は月夜を抱き寄せた。
「すみませんでした。本当は途中から会いたくなってました。ギブアップです。ゆるしてくれませんか」
気が重かったが、いざ口にしてみるとすんなりと言葉は出てきた。
自分から月夜を遠ざけておいて虫の良い話だ。こちらから会おうと言えば、いつだって会えたはずなのに。
どんな罵詈雑言でも覚悟していたのに、月夜は優しく頭を撫でてくれるだけだった。
「これに懲りたら勝手に一人で決めたりしないでね」
子守唄をうたう母親のようにあたたかい声だった。
心地よいまどろみの中に落ちていく感覚があった。自分の全てを預けてしまいそうな危うい。
大樹は身体を起こした。いつまでも押し倒された状態は、なんか、こう、よろしくない。
「どうしたの」
「いや……。メガネ、珍しいなと思って」
内心の動揺を悟られまいとして、変なことを言ってしまった。
ただ、まるっきりデタラメでもない。
去年はよく見かけた姿だったのに、いつからだったかコンタクトばかりになった気がする。
「え。も、もしかしてこっちの方が好みだったかしら。ごめんなさい、気付かなくて。明日からコンタクトやめる」
「余計な気を回さなくていいですから。自分の好きなようにしてください」
「あなたの好きなほうがいい」
「強情だなぁ。俺がそうしてくれって言った方を選ぶの?」
「当然よ」
「なんで」
「なんでって……か、可愛いと思われたいから」
まじまじと月夜を見つめてしまう。恥ずかしそうに俯いている。そんなことを考えていたなんて、露ほども知らなかった。
「段々メガネかけなくなったのもそのせいなの?」
「どっ、どうして答えづらいことばかり聞いてくるのよ」
質問に答える代わりに乱暴にメガネが外された。
極端に視力が落ちたせいか、月夜は険しい目つきだ。こちらを睨んでくる。いや、睨んでいる理由は他にもあるようだ……。
「ら、裸眼だと視力どれくらいですか」
「どうだろう。最近じゃ矯正後でしか測らないから分からないわ」
「これくらいの距離は?」
少し離れてみる。一メートルもない距離だ。
「ちょっとぼやける」
「マジ? 思ったより悪いね」
近くの教科書を手に取ったので月夜に読み上げてもらおうとするが、彼女はゆっくりと首を横に振った。
「あなたの顔も見づらくて……あ」
「どうしたの?」
「そのままこちらに近づいてみて」
言われた通り教科書を構えたまま近づくと「それは置いていい」と言われた。
妙に思いつつ、少しずつ距離を詰めていく。ほとんど面と向かった状態になってもまだストップがかからない。
「あの、ぶつかりそうなんですけど」
「まだぼやけてる」
「…………あ、そ」
途中で月夜の企みに勘付いた大樹は思い切り溜息をついた。
相変わらずくだらないと思った。だけど、そういうところが月夜らしいところでもある。
「大樹くん。もう少し、もう少しだけ————」
月夜がまだ何か喋っている途中だったが、躊躇うことなく口づけた。
数秒たってから唇を離す。予想とは違うことが起こったせいで、月夜は固まっていた。
「ちょっと勢い余っちゃいました」
などと余裕ぶってみせるが、本当は死ぬほど恥ずかしい。考えてみれば、自分からこういうのを仕掛けたことはほぼ皆無だった。月夜は毎回これを平然とやってのけている。
もう少し月夜がリアクションをとってくれたら恥ずかしさも紛れるのに、月夜は微動だにしない。熱っぽい眼差しを向けてくるだけだ。
……熱っぽい?
「大樹くん」
服を引っ張られる。踏ん張ることもできず、ベッドに倒れ込む。すかさず月夜が覆いかぶさってきた。荒い息遣いが鼓膜を震わせる。
「いや。いやいやいやいやいやいや! 駄目でしょ!」
「大樹くんが悪い」
「どこが!?」
「自分で墓穴を掘った」
「確かに……!」
大樹が絶望したその瞬間、階下からインターホンの音が聞こえてきた。
これ幸いとベッドから抜け出し、玄関までダッシュした。宅配便でもなんでもいい。あなたは救世主だ。
扉を開け放つと、月夜がいた。
「わあっ!?」
「え。びっくりしたわ。どうしたの篠原さん」
間違えた。月夜母だった。先回りされたのかと思った。そんなことは物理的にありえないのに。
「月夜さんのお母さん……! いいところで帰ってきてくれました。でもどうして自分の家なのにインターホン鳴らしたんですか」
「お楽しみ中だったらまずいかと思って」
「どこに配慮してるんですか!?」
肩に手を置かれる。当然、腕は後方から伸びてきている。
「お母さん……」
地の底から響くようなくぐもった声。恨みがましい気持ちが見事に表現されている。
前髪の分け目からのぞく瞳は完全に獣のそれだ。
「え、嘘。本当にそうだったの。ごめんなさい。もう一度出掛けてくるわ」
「いや行かないで! 待って! 月夜さんと二人きりにしないで!」
「面白いことを言うのね、篠原さん。二人きりにしないでって……コントみたい」
「コントじゃねえし!」
月夜母は何故か知らんがツボにハマったらしい。口元を押さえて笑いを堪えている。
月夜に捕獲され、大樹はずるずると引きずられていく。
「お母さん。大樹くんの家でご飯食べてくる。今日はもう帰ってこないから」
「いってらっしゃーい」
「大樹くん。出る準備をして。我慢できそうにないから」
「お腹が空いているって意味ですよね!? ね!?」
何度も確認したが月夜からの応答はなかったし、その答えは夜の篠原宅で判明した。
ちなみに次回の更新で最終回です。