「あ、駄目か」
「彼が、小さいのには興味がないって言うから」
「大樹……あんた最低」
変質者を蔑む目だった。ちょっと泣きそうになる。
楓は滑り込むようにして月夜母の隣に座り、彼女を守る。
「つっきー先輩。いくらこいつを好きだからって何でもかんでもやってあげちゃ駄目っすよ。またひどいこと言うようなら教えてください。ぶっ飛ばしてあげますから」
「ありがとう。月夜に優しいのね」
「……? いえ、まあ。っていうか、もしかして以前私が言ったこと気にしてました?」
「何の話?」
「や、だから。前につっきー先輩の胸をわしづかみにしながら『ちっさw』とか言っちゃったじゃないすか。でも思い切り良すぎですよ。普通手術前に一言ないの?」
「……。そんなことがあったの?」
「何すっとぼけてんすか。あのあと大喧嘩になってお互い大変だったでしょ。怪我だってしたし、そう簡単に忘れる、わけ……」
楓の言葉が尻すぼみになって消えた。目の前の人間が朝日月夜じゃないことにようやく気付いてくれたようだ。ぎこちない表情を大樹に向ける。
「ねえ。この人だれ」
「朝日月夜の母です。娘と仲が良いみたいね。今後ともよろしくお願いするわ」
大樹が答える前に本人が答えてしまった。
楓は無言で立ち上がると、今度は大樹の隣に座ってきた。か細い声で謝ってくる。
「ごめんね。大樹。早とちりした」
「いいよ。楓。俺も初めて会ったときはそんな感じだったから」
「なんで間違えちゃったんだろう……あの人ほんと小さいのに」
「あんまり言わないであげてくれるかな?」
身体の一部以外はほとんど瓜二つの親子だ。初見ならほとんどの人がひっかかるだろう。
月夜母は突然現れた楓に興味を持っている様子だった。じっと、曇りないまなざしで楓を捉える。
「え、え。なんすか」
「あなた、篠原さんとは同級生かしら。お名前は?」
「いや、名乗るほどの者じゃないんで」
「楓さんも制服姿だけど、学校帰りかしら」
「ばっちり聞いてんじゃねえか。耳ざといお母様だな。森崎楓です。学校行く前の腹ごしらえで寄りました」
「じゃあ相席はいかが? ご馳走するから月夜のこと色々聞かせて」
楓は眉間に皺を寄せて、真横の大樹を睨みつける。どうすれば逃げられるのか、と訴えてきている。大樹は少しだけ考えてみた。思いつかない。
「せっかくだから一緒に食べれば————痛ッ」
机の下で太ももを抓られた。何か間違えたらしい。
楓は渋々といった口調で了承してみせた。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
切り替えが早い。楓はメニュー表を眺めて、すぐにオーダーを通した。
「あっつい」
顔を手で煽いで、何故か大樹のドリンクに手を伸ばす。苦言を呈する前に全部飲み干されてしまった。
「ちょ、ちょっと」
「おかわり」
空のコップを突き付けられる。大樹はそれを反射的に受け取り、視線をスライドさせた。
今の出来事が、月夜母の目にどう映ったのか気が気でない。しかし当の彼女は不思議そうに大樹を見つめ返すだけだ。
「いかないの?」
「い、いってまいります……」
なんでだろう、納得いかない。
ドリンクバーに追い出された大樹は預かったコップを流しに片付け、新しいものを二人分用意した。わざわざそんなことをした理由はきかないでほしい。ジュースは同じものでいいだろうか。
二人分の飲み物を携えて戻ってきたところで、話の矛先は大樹に向いた。
「つっきー先輩はいないの?」
おや、と思う。月夜と楓の交友について話す場面ではなかったか。
「今日のところはいないよ」
「ふーん。なんか変な感じ。こういうとき意地でもついてきそうなのに」
「そ、そう?」
「そうでしょ。っていうか、知り合いが自分の親と会うってなったら私は嫌。付き合っている相手なら尚更じゃない? あの人よく許したね」
「………」
気まずそうに黙り込む大樹を見て、楓は何かを察したらしい。
「喧嘩でもした? イメージないけど」
「いや、喧嘩というか、その……」
「受験勉強の妨げになるからって最近会ってないのよ」
言いあぐねている大樹の代わりに月夜の母が喋ってしまう。ちょっと言い方に含みがある。
「なんか、らしくないね。受験か大樹だったら大樹を選びそうなのに」
「だって娘の考えではないもの。言い出したのは彼。おかげで月夜は昨日まで血眼になって勉強していたわ。ちなみに二週間ずっと既読無視」
含みどころか棘が剥き出しになってきた。
隣の楓まで引きつった顔をしている。
「……まずかった?」
「シンプルに可哀そう。鬼の所業」
グサグサと言葉のナイフが刺さる。大樹は拗ねるように言う。
「明日には会いにいくし……」
「なんで明日?」
「模試が終わったら会うつもりだった。今日は疲れているだろうから、明日行くことで話がまとまったところ」
「いや、今行けよ」
「え」
思いがけない、投げやりとも受け取れる提案に大樹は固まった。
どうして思いつかなかったんだろう。付き合っているなら、そういう発想や強引さがあってもおかしくないはずなのに。
「別に問題ないっすよね」
楓が月夜母に問いかければ、彼女は大きく何度も頷いた。
キラリと光る鍵が眼前に突き付けられた。
「はい、家の鍵」
「え、いいんですかそれ!?」
とんでもないものを預かってしまった。なくさないように鞄の奥底にしまう。
「いってらっしゃい。私の相手は楓さんがしてくれるから」
「なんで勝手に決めるんですか。そこまで言ってないでしょ。これから学校行くつもりなのに」
「そういえば何しに行くつもりだったの。部活とか入ってなかったよね」
「別に。これでも特進クラスだし、図書室で勉強しようかと。あと相談室の掃除もしておきたくて」
相談室。
懐かしくも意外な単語を飛び出してきて、大樹は一瞬だけ頬を緩ませた。
しかし……。
「あそこって今は閉鎖中じゃ?」
管理人だった結城かなたは三月に離任してしまい、元々利用者が少なかったこともあって存続を認められなかった。今は空き教室として鍵がかけられていたはずだ。
実は大樹も一度部屋の前まで足を運んだことがある。誰の話し声も聞こえない相談室は、少し物悲しかった。
楓はスクールバッグからキーケースを取り出した。
「あの部屋の鍵なら持ってる」
「なんで!?」
「神谷先輩が卒業するときに受け継いだ」
受け継いでいいのか、それは。
「なら話は簡単ね。篠原さんは相談室の掃除をしてからウチへ向かう。楓さんは私と一日遊ぶ。これでいいかしら」
「よくねーわ。私は全然納得してないっすよ」
「楓さん」
「な、なんすか」
「篠原さんがウチにいる間、私はどこで何をしていたらいいの」
「普通に帰ればいいじゃないですか……」
「本当にそれでいいと思う? ファイナルアンサー?」
「……。…………あ、駄目か」
え。
なんで納得した?
「だったら適当にどこかで時間潰してくださいよ」
「そんなこと言わずに。あなたといっぱい話したい」
「いや、結構なんで……」
「お願い」
「だ、だから……」
何度もお願いされていくうち、楓は一言も返せなくなっていた。
挙句、恥ずかしそうに顔を伏せてしまう。大樹が様子を窺った。
「だ、大丈夫?」
「あのさ」
「う、うん」
「この人、顔よくね?」
わかる。
「なんでだ……全然タイプは違うのに大樹のお母さんと重なる」
それはわからない。
意外な発見だが、楓は押しに弱いらしい。もう篭絡しかけている。
「わ、わかりました。今日はつっきー先輩のお母さんとご一緒します」
「ありがとう。嬉しい」
楓の横顔は赤くなっていた。同性でも照れるらしい。
器用なことに、月夜母に顔を隠しながら、楓は大樹に相談室の鍵を手渡してきた。
「はい、大樹。あとでちゃんと返してね」
一日で二人の人間から鍵を預かった。一体今日はどういう日なんだ。