「なんでいるの?」
「それ、合宿用の荷物?」
「もう明日ですからね」
あっという間に八月を迎えてしまい、いよいよ夏合宿だ。
この日のために色々と下準備を済ませておいた。参加してくれる先輩たちへの根回し、引率顧問への挨拶、後輩たちへの注意事項連絡等やることは多かった。
自分のことは後回しになった結果、前日になって荷造りをする羽目になった。
「出張に出る夫を見送る妻の気分」
「誰が妻ですか」
ツッコミがいまいち乗らない。それは、ひとつ気がかりなことがあるからだ。
大樹は無駄だと思いながら、月夜に探りを入れる。
「あの……俺が合宿でいない間、月夜さんはどこにいるつもりなんですか」
「何を言っているの? もちろんここであなたの帰りを待つわ」
「ですよね……」
月夜は合宿に参加させない。前部長の蒼斗からの助言に従った結果だ。言い方はひどいが、彼女が参加してしまうと合宿の効果が薄まる。特に男子の。
「忘れないうちに合鍵をもらっていい?」
それが自分の役割だと言わんばかりの豪胆さを発揮し、鍵をせがむ月夜。
一点の曇りもない目を向けられると、何故か罪悪感が芽生えた。
「あの」
「はい」
「月夜さんに合鍵を預けるつもりはありませんよ?」
「ええっ!?」
思った通りのリアクションだ。
現実を受け入れていないのか、一瞬で青白い顔になっている。
身体をふらつかせながら月夜がにじり寄ってくる。
「な、なぜかしら……私では留守を任せられないと?」
「月夜さんだからどうこうの話じゃなく、さすがに五日間も任せるのは悪いっすよ」
冗談や誇張抜きで、月夜は夏休みになってから一度も帰宅していない。そろそろ純粋な危機感を覚える。早く親御さんに顔を見せてあげないと問題になりかねない。
「せっかく合宿断ったのに」
「物分かりが異常に良かったのはそのせいですか……」
五日間も大樹に会えなくなるというのに、月夜は二つ返事で合宿不参加を了承してくれた。ここでの留守はその代償行為だったらしい。
「どうしてダメなの。去年は楓に来てもらってたくせに」
「それはそれ。これはこれ。去年とは状況が違い過ぎます」
「私に会えなくなってもいいというの」
「そろそろ受験勉強しません?」
「またそういうこと言う」
「当たり前です」
話が進まない、まとまらない。最終的にはほとんど怒鳴り合いになる。
この日、大樹は珍しく月夜と喧嘩をしてしまった。結局平行線のまま、翌日の朝に無理やり月夜を追い出しながら合宿に向かう。
仲直りせずに別れてしまうのは初めてのことだった。
◇
良くない幕開けとなった合宿初日だが、いつまでも引きずる大樹ではなかった。
単純に、膨大な練習メニューに忙殺されるからだ。自分で作っておいてなんだが、後悔してももう遅い。
昼頃に合宿所に到着し、世話になる宿舎の人々に簡単な挨拶をしたあとすぐに練習を開始した。普段おろそかになりがちなフットワーク練習やランニング・ダッシュを重点的にこなして、散々酷使した体のままノック練習に入る。
この時点で、一年女子が全員ダウンした。
女子の手前だからか、男子は情けない姿を見せないよう意地を見せている。が、今にも死にそうな顔をしている。ほとんどラケットを立てられていない。
「ねえ、ぶちょー、なんでこんなに厳しいの……なんでこんなに暑いのにクーラーも扇風機もダメなの……」
双葉亜樹は玉のような汗を拭って、ぶーたれている。
「シャトルを扱うのに気温を下げたり風を吹かせちゃまずいでしょ」
「でもこれじゃサウナだよ……なんでぶちょーとオオカミちゃんは平気そうなの?」
確かに、大樹と大神だけはまだ余力を残している。
そうか、考えてみればこんなサウナみたいな場所での練習は経験がないのか。
ちょっと盲点だった。人がぶっ倒れる前に休憩を入れようとしたタイミングだった。
「たるんでいるわね」
厳しい一言と共に現れたのは姫川真琴だ。今年の春に藍咲を卒業して以来久しぶりに会う。懐かしい感傷に浸ることはできない。間が悪い。一旦出直してきてほしい。
「お久しぶりです、元部長。今年もご足労いただいて。ささ、お疲れになったでしょう。お部屋まで案内しますよ」
「元部長って呼ぶな。今はあなたが部長でしょう。さあ、ビシバシいくわ。そこのうずくまっている一年生を起こして」
「いや駄目です。これ以上やらせたら彼は吐きます」
「問答無用」
練習を続行した結果、男子が数名胃の中身をぶちまけた。掃除をしながら練習をするというのは初めての経験だった。二度とやりたくない。
へとへとになりながら体育館を出て、大浴場に向かう。さっさと汗を流したい。
脱衣所に入る直前、ふと気になって大樹は携帯電話を取り出した。
昼から変わりなく、月夜からの連絡はなし。会えない日でも月夜は欠かさずメッセージを送ってくれていた。やはり今朝の喧嘩が尾を引いているのか。
電話をかけてみるが、何度コールしても出てくれない。ラインで謝罪の言葉を打ち込み送信する。あとでもう一度かけてみよう。
既にやってきていた一年生たちを尻目にして体を洗う。さっきまでは青白い顔で横になっていた彼らは、水を得た魚のように活力が戻っている。少し騒がしいほどに。注意した方がいいだろうか。
だが、大樹が声をかける前に彼らは急に静かになった。大樹の挙動を察して自ら動いたわけではないのは、浴室の入り口を見れば明らかだ。
「おぉ~! けっこう広いんだね。ゆっくりできそう」
双葉は少し長めのタオルで、胸も下腹部も隠している。遠目ではほとんど……いや、今こっちに歩いてきても女の子にしか見えない。
耐性がなければ、ちょっとまずい醜態をさらしていたかもしれない。
浴槽に浸かっていた一年男子は全員、一斉に立ち上がって脱衣場に走っていく。
「わわっ!? え、なになに!? 危ないよキミたち!」
「すいません、俺ら、もうあがるっす!!」
「全員そろって? 先輩だから気を遣ってくれてるの? そんなのボクら気にしないよ」
「お構いなく! これ以上いたらむしろ俺らの方がやばそうなんで!」
最後の方は股間を抑えながら必死に叫んでいた。
一年生たちと入れ違いになって大神がやってきた。
「なんだ、あいつら? 双葉、なんかしたのか」
「ううん……でもボクが入った途端出ていっちゃった。もしかして嫌われてる?」
「さあ」
察しの悪い二人は、一年生の心のうちなど想像もできない。
双葉は大樹の近くまで歩み寄ると、
「となり、いーい?」
「うん。どうぞ」
大樹は頭を洗うフリをして視線を下げた。しばらくこの姿勢でいると決めた。
「なんかアレだね。修学旅行みたい。今年はみんな同じクラスだから、またこういうこともあるかもね。楽しみ♪」
「そうだね。……心臓に悪いな」
「ぶちょー、なにか言った?」
「気のせいだよ」
さて、どのタイミングでここから離れようかと考えていたところ、双葉が過剰なくらい泡を使って体を洗い始めた。体全体がモコモコになって輪郭が不明瞭になる。だが好機に違いない。
そそくさと湯船に浸かりに行く。既に大神がいた。
「ん」
「おう」
十人くらい余裕で入れそうだが、あんまり離れる理由もない。
それに、こういうときでないとできない話題もある。
「最近、咲夜先輩とはどう?」
「咲夜?」
「そう」
大神の態度は素っ気ない。だが、大樹は聞き逃さなかった。先輩である彼女を『咲夜』と呼び捨てにしたことを。
「特になんもねえな」
だが、それ以外の態度は去年と何ら変わりない。大樹の前だからといって照れ隠しをするようなガラでもない。完全に素だ。
咲夜が可哀そうになってきた。せっかく二人は付き合い始めたのに。
「それより、今日の練習はイマイチだった。明日からは改善してくれ」
「言われなくてもそうするよ」
夕食を済ませる頃には三年生たちが到着する手筈になっている。引退しても部活を手伝ってくれるのは有難い。質の高いトレーニングが期待できる。
「咲夜先輩も来るから出迎えたら?」
「いや、いい。面倒」
「でも……」
「くどい」
これ以上突くと本気で怒り出すかもしれない。大樹はおとなしく引き下がった。
そこに能天気に双葉がやってきた。ちょっと気まずかったから歓迎する。だが、どうやら内容は聞こえていたらしい。
「なになにー? 二人して咲夜先輩の話してなかったー?」
言って、双葉はそのまま湯船に入ろうとする。
直前、大神の鋭い声が飛んだ。
「タオルをつけるな。外せ」
「えっ」
マナーとして当然の指摘。しかし、双葉は固まった。困惑した顔でこちらを見ている。
大樹は、何気なく横を向く。大神だって、双葉を注視するわけじゃない。
視界の端で、双葉が背中を向けるのが見えた。白磁と見間違えるほどに、透き通る綺麗な白肌だった。体つきも華奢で……こいつ本当に男か?
双葉は身体の前半分を隠しながら、しかし素早く湯の中に入った。
「……ふぅ」
人心地ついて、ほっとする双葉。入浴剤を使っているのか、お湯は透明ではない。これで双葉が身体を隠す必要はもうない。……なんだかちょっと残念だな。
ここで、予想外の行動に出たのは大神だった。
難しい顔をしながら双葉を凝視している。
「な、なに? オオカミちゃん……恥ずかしいんだけど」
「お前、ちょっと身体見せてみろ」
「え? ……えええ!?」
顔を真っ赤にして、首をぶんぶん振る双葉。
大樹も止めにかかる。
「おい、大神……何考えてるんだ。確かに女の子みたいに綺麗な肌だったけど。だからって見せろなんて言うものじゃないよ。親しき中にも礼儀あり」
「き、綺麗……!? ぶちょーのばか! 変態!」
「あ、あれ!? なんで俺が怒られているの!? 何か言った!?」
納得がいかずに言い返すが、確かに余計な失言が混じったかもしれない。
大神は呆れた顔で言う。
「肌なんかどうでもいいんだよ。それより筋肉の方だろ」
「大神って筋肉フェチだっけ」
「こいつは強い。それなのに身体が細い。どこにあれだけの力を秘めているのか、俺には分からない」
大神の言葉を受け、大樹は妙な説得力を感じた。
大樹も大神も運動部らしい体つきが出来上がっているのだが、双葉の場合はその限りではない。
手足が女性のように細くしなやかで男性特有のゴツゴツさを感じさせない。肩幅も大樹たちに比べてかなり狭いから、少なくとも運動をしている人間には見えない。それなのに、大樹と大神が二人がかりでもおさえられない運動量を発揮するのだから、人体は不思議だ。
「今でもこうなんだ。もっと力をつけたら……化けるぞ」
大神の瞳は、らしくもなく爛々と輝いていた。注釈を入れておくが、おそらく彼に邪な考えなど一切ない。純粋な好奇心だ。
身の危険を感じた双葉は、湯の中だというのに俊敏な動きで大神から距離をとった。
そして何故か大樹の真後ろに。
「え」
「こ、こないで! それ以上近づいたら怒るよ!」
双葉が大樹を盾にするものだから、色々と当たる。細腕とか薄い胸板とか。だがやけに肌の柔らかさだけが際立つ。
ついに限界を迎え、大樹はうずくまった。
「えっ、どうしたの、ぶちょー!?」
◇
のぼせたな。くらくらする頭で豆電球を見上げながらそう思った。
布団に寝かされ、氷枕まで用意されている。ここまで運んでくれたのは大神と双葉の二人か。後で感謝と謝罪をしておこう。ご丁寧に服が着せてある。パンツも含めて。
ついさっき目が覚めて、徐々に復調しつつあるのが分かる。というか空腹感が拭えない。残念ながら夕食の時間は過ぎてしまっている。近くにコンビニはあっただろうか。
そのとき、ふすまが開いて誰かが入ってきた。
「大樹くん、起きたの。もう平気そう?」
月夜がいつになく気遣わしげな顔をしている。
大樹の口元が緩んだ。彼女がそばにいてくれると安心する。
「はい。なんとか」
「お腹すいていない?」
「丁度何か食べたいと思ってました」
「宿の人に言って、軽食は用意してもらってる。取ってくるわ」
「ありがとうございます、月夜さ————」
そこで大樹は、この状況の違和感に気付いた。
「いや、なんでいるの?」