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「速く泳ぐ自信がある」

 ある日のことだった。


 月夜が大樹の家に入り浸っているのはいつものことだが、どこか物憂げな顔でテレビを眺めているのは珍しい。

 映っていたのはどこかの海水浴場だった。水着の若者たちが大勢ではしゃいでいる。カメラに気付くとピースサインを向けてくる者もいた。


 大樹にとっては少し縁遠い光景だ。仲間内でああいった場所に出向いたことはほとんどない。行ってみたい、とも思わなかった。ちょっと尻込みしてしまう。


 大樹はすぐにテレビから視線を外してリビングを通り過ぎようとした。が、いつもと違う目つきの月夜が気になってその場に留まる。


「海、気になるんですか?」


「え? いえ。そういうわけではないの」


 一瞬だけこちらを見てくれるが、すぐにまたテレビに向き直る月夜。

 これはもしかして……誘われ待ちか?


「月夜さん。一緒に海行きますか?」


「いえ、遠慮したいわ」


 ちょっとびっくりした。まったく迷うそぶりを見せなかった。

 大樹に誘われたなら、既に決まっていた予定をキャンセルしてでも都合をつけてくるのが月夜という女である。


 それもそれでどうかとは思うが。


 一拍置いて、とってつけたように月夜は言う。


「あ、あ、もちろん、あなたがどうしてもというなら付き合うわ」


「いえ。俺もああいった雰囲気のところは苦手なので、いいんです。言ってみただけで」


 それよりも他のことが気になり出してきた。


「月夜さん、泳げないんですか」


「聞き捨てならないわ。同年代より速く泳ぐ自信がある」


「……ほんとですか?」


 高校体育のカリキュラムとしては珍しく、藍咲では水泳の授業が実施されていない。プールの施設はあるが、それは水泳部のみ使用を許可されているのだ。

 だから、月夜が本当に泳げるかどうかはクラスメイトにも分からないはずだ。


「藍咲を進学先に選んだのは、そこも要因のひとつだった」


「どういうこと?」


「……肌を出さなければならない場所は少し困る」


「あっ、なるほど。理解しました」


 自分の察しの悪さを少し反省する。確かに月夜が水着姿になったらトラブルに巻き込まれかねない。海なんてもってのほかだろう。


「先に謝っておく。私は海やプールといった場所へあなたと一緒に行くことはできない」


「別にそんなこと。俺は気にしません」


「駄目な彼女でごめんなさい。ヨボヨボのおばあちゃんになるまで待ってくれるなら考えてもいいけど。……あ、今のプロポーズとして受け取ってくれていいから」


「おばあちゃんになったら水着の出番はないかもですね」


 もし見るのであれば早いうちがいい。

 プロポーズ云々のところを意図的に無視した。


 月夜は不自然に声をはずませる。


「でも、安心して。あなたにだけは肌をさらすから」


「そこを心配しているわけではないですけど」


「またまた。お好きなくせに」


「うるさいです」


 ムキになって大樹は自室に戻ったが、一人きりの状態になったところで思い至る。

 月夜はもしかしたら、人目を気にせず海を楽しみたいのかもしれない。



 その翌日のことだった。

 食材の買い出しから戻ってきた大樹は、出迎えてくれた月夜の姿を見て絶句した。


 彼女はエプロンをつけていた。それだけだった。それ以外何も身に着けていない。

 慌てて玄関の扉を閉めた。こんなところ誰かに見られたら大変だ。


「おかえりなさい。重くない?」


 あまりにも自然な所作で買い物袋を受け取ろうとするのでつい手渡してしまう。

 彼女は大樹の買い出しにはついてこなかった。「涼んでいたいから」と、月夜にしては不自然な言い分だったのを思い出す。


「いっぱい買ってきてくれたのね。今日はご馳走にするから」


「………」


 ツッコミ待ちだろうか。


「月夜さん」


「なに。大樹くん」


「……その恰好は、あの、どういう」


 直視することもできず、大樹はあらぬ方向をむいてしまう。


「これ?」


 月夜がターンの体勢を取った瞬間、大樹は彼女の肩を掴んだ。


「やめましょう。なんなんですか真昼間から。正気ですか」


「どう思った? 正直に白状してくれたら、良いことが起こるかも」


「ついに頭がおかしくなってしまったのかと」


 大樹の答えが不服だったらしく、口を尖らせる月夜。


「やり直し」


「いくら考え直しても答えは一緒です。まともな服装になってからお話をしましょう」


 なおも不満そうな顔のままだが、月夜はこちらを向いたままで少しずつ後ろへ下がる。物理的に距離が開くと大樹の気持ちに余裕が生まれる。それが油断になったのか。


 月夜が結び目をほどいた。止める間もない。重力に従いエプロンは彼女の足元に落下した。

 大樹はその光景をただ固まったまま見ていた。

 動揺のしすぎで上手く喋れない。それでもどうにか言葉が出てきた。


「み、水着?」


「いくら私でも裸で出迎えるほど危機感が欠如しているわけではないわ」


 ふふん、と一本取ってやったように自慢げに鼻を鳴らすが何一つ理屈がわからない。

 布面積の少ないビキニは、下着姿とほとんど違いがない。

 月夜は無駄に艶めかしい動きで様々なポーズをとってみせた。


「改めて聞くけれど。どう?」


 胸をそらした状態で月夜がそんなことを言う。

 わざわざそんなこと聞かないでほしい。エプロンを外してから、大樹は一瞬たりとも目を逸らしていなかった。白い肌に黒い生地がよく映える。

 月夜もそのあたりを見透かしているのだろう。挑発的に目を細めている。


「どう?」


「いつの間にそんな水着買ってたんですか」


「質問にちゃんと答えなさい。つい昨日よ」


「似合ってますよ」


「遅い。ありがとう」


 しかしどうしても違和感が拭えない。家の中でビキニ姿という、一部マニアックな人間には刺さるシチュエーションかもしれないが大樹のそういう趣味はなかった。


「今のうちに見せておかなければと思って」


 それが動機らしい。

 もっと何かやり方はなかっただろうか。心臓に悪い。


「もう充分ですから着替えてきてください」


「今日は一日このままで過ごすつもり。思う存分堪能してほしい」


「……バーカ」


 心の底から溢れた本音だった。


「せっかくプライベートプールを取ろうと思ったのに」


「なにそれ」


「このマンションの設備です。予約すれば貸し切りで二時間使えるんですよ。月夜さんみたいに人目を気にする女性や、そうじゃなくてもカップルで楽しみたい人もいるから結構人気で————」


「押さえて」


 大樹の言葉を遮り、彼女は力強く言い放つ。

 買い時を見極めた株トレーダーみたいだった。


 この反応は予想済みだ。実はもう既に押さえてある。日程は明日だ。

 そう伝えたのに、月夜は水着を着替えてはくれなかった。本当に一日その姿で過ごして、帰る頃にはくしゃみが止まらなくなっていた。



 翌日。体調に問題ない月夜を連れて大樹はプール施設にやってきていた。

 利用するのは初めてではない。小さいころは家族そろって何回か来たことがある。プール教室でも開けそうな広大なスペースは二人で使うには持て余してしまう。


「お待たせ」


 時間をかけて、更衣室から月夜が出てきた。

 大樹は自分の目を疑った。なんだか露出が少ない気がする。学校の授業で使われそうな紺色の競泳着を身に着け、月夜は準備運動を始めている。


「昨日とは違うんですね」


 てっきりビキニかと。


「激しく泳いだらズレたり取れたりして集中できないから」


「おお」


 そういうデリケートな部分に気を遣える羞恥心が芽生えたらしい。非常に喜ばしい。


「私はズレても取れても構いはしないけど、大樹君が落ち着かないと思って」


「…………。……いや、構えよ」


「わかりやすく動揺しなかった?」


 そんなことはない、と言い張るにはタイムラグが大きかった。

 柔軟まで終え、プールサイドに立った月夜は綺麗なフォームで水面に飛び込んでいった。

 水しぶきが思い切り顔にかかる。大樹も一緒になってプールに突っ込んだ。やられっぱなしではいられない。


 水中に潜りながら月夜に接近していくと、彼女が不自然に手足をバタつかせていた。水面から顔を出したりまた沈んだりを繰り返している。

 まさかと思い、大樹は急いで月夜の体を支える。


「手足のどこかつりました? 水飲み込んでませんか」


「ええ、どちらも平気。足がつかなくて焦っただけ」


「ちゃんと立てば届きますよ?」


 月夜は女子にしては身長が高い。170近いはずだ。

 大樹に肩を借りていた月夜が少し体を離す。


「……ほんとね」


 月夜の顔は少し赤かった。


「もう。そういう悪ふざけはやめてください。本気で心配になるんですから」


 ちょっと厳しい口調で大樹が注意すると、月夜は消え入りそうな声で返事をした。

 大樹は一度プールから上がって、改めてストレッチをした。ある程度体をほぐしたところで再び入水する。その間、月夜はずっとこちらに目を向けていた。


「泳がないんですか?」


「大樹くんが泳ぐところを見たくて」


 そんなに見つめられると困る。

 不得意ではないが、人様に見せる大層な泳ぎでもない。若干の落ち着かなさを感じつつ、身体を慣らすために平泳ぎを開始。反対側についたところでターンを決めつつクロールに切り替える。月夜がいる地点まで戻るのに50mくらいはあった。


「真面目に泳ぐと疲れますね。水中で筋トレすると効果的って話も頷けます。……月夜さん?」


 月夜は真剣な表情でフォームチェックをしている。腕で水をかき、片頬を水につけて息継ぎの仕方まで余念がない。だが、目つきが本気過ぎる。


「月夜さん、まさか……」


「よし。やるわ」


 確認するのが間に合わず、月夜はクロール……のようなフォームで泳ぎ始めた。

 上半身の動きは綺麗だが、足が完全に沈んでいる。バタ足もままならない。そのうち体全体が水中に消えていったところで、大樹は月夜の救助に向かう。


 息も絶え絶えの月夜に取り繕う余裕などない。


「泳げなくて何が悪いというの」


「まだ何も言ってないっす」


「子供の頃は普通に泳げたの。嘘じゃない」


 別に嘘だなんて思っていない。成長にしたがって手足が伸び、当時と体の感覚が変わったせいだろう。


「同年代より速いとか、どうしてすぐバレる嘘ついたんですか」


「自信があると言ったの。それを今から証明してみせる」


 無駄にかっこいいセリフで強がってみせ、宣言通りにトライ&エラーを繰り返す月夜。

 大樹は彼女のそばを離れられなかった。万が一のとき一早く駆けつけるためであるが、真剣に練習する月夜はシンプルにかっこよかった。出会った当初のような憧れの感情が蘇ってくる。


 付きっきりで大樹もサポートし続けた結果、二時間が経つころには月夜は普通に泳げるようになっていた。なんなら大樹より速くてちょっと悔しい。

 選手のように綺麗なフォームで泳ぐ月夜に目を奪われていると、ふと彼女は方向転換してこちらまでやってきた。ターンも見事だ。


「おまたせ。つい夢中になってしまった。さて、イチャイチャしましょうか。水のかけあいっこでもしてみる?」


「残念ですけど、そろそろレンタル終了のお時間です」


「ええ、もう!?」


 耳がキーンとする。月夜らしからぬ裏声だった。


「延長できないかしら! まだ全然遊んでないのだけど!」


「カラオケ感覚で伸ばせたら良かったんですけど、時間制です。簡単な清掃が入ったあと、次の予約者がくるはずです。僕らもそろそろ撤収しましょう」


 目に見えて月夜は落ち込んだ様子だった。前髪から水滴が落ちる。

 彼女の手を引いてやると渋々ながらもついてくる。プールを上がってからも名残惜しそうだった。更衣室に入る段階になってもそんな状態だった。


「いつまで引きずってるんですか。また来ればいいんですから」


「本当にごめんなさい。私だけ楽しんでしまって」


「……楽しかったんですよね?」


 ぱちぱちと目を瞬かせる月夜。


「え、ええ。それはもちろん」


 それだけ確かなら充分だ。


「部屋に戻ったら映画でも観ながらゴロゴロしましょう。今度はホラーじゃないやつで」



 大樹は既にウトウトしていた。

 モニターには先日借りた映画が流れているが、集中して観ていられたのは最初の方だけだ。プールで遊んだあとに異様に疲れるのはどうしてなのだろう。


 意識を保てないでいるのは月夜も一緒だ。何気なくもたれかかっている。


「中学生のとき、クラスメイトに誘われて海に行ったことがあった」


 薄目を開けて、大樹は身じろぎをした。

 うわごとのように話す月夜の言葉に耳を傾ける。


「あまり周囲とは友好的な関係ではなかったから、勇気をふりしぼって誘ってくれたことが嬉しかった。私も楽しみにしていたの。けど……」


 不穏な気配を感じて、大樹は咄嗟に身構えた。


「わざとぶつかってきたり遠くから写真を撮られたり普通にナンパされたり。あんまりにも嫌がらせが続くものだからクラスメイトたちとも険悪になっていった」


 言葉の端々からピリピリした感情がただよってくる。眠気が飛んだ。

 月夜をなだめるつもりで頭を撫でると、彼女はさらに体をあずけてきた。大樹が膝枕をするような体勢が出来上がる。


「二度と行かないと決めたわ」


 それがきっかけだったらしい。

 以降、月夜は過剰に人目を気にするようになった。服装に注意をして肌を出さない。可能なら顔も隠す。トラブルを避けるのに神経を張り巡らせた。


 聞いているだけで気が滅入る話だ。


「知らない人に見られるのはすごく嫌。でも泳ぐのは楽しかった。またそういう日がくればいいって、ずっと、思ってた。だから……ありがとう」


 月夜は穏やかな寝息をたてていた。毛布をかけてあげたいが大樹は動けない。代わりにエアコンの設定温度を少し上げる。ついでに映画も止めてしまう。


 さっきまであんなに眠たかったのが嘘みたいだ。ひざに感じる重みのせいで余計に。

 手持無沙汰になった大樹は、指先で月夜の髪に触れる。横顔があらわになるように分けてやる。


 ふいに、口づけたい衝動に駆られた。戒めるために唇を噛む。彼女とはいえ、眠っている女性に何かをするわけにはいかない。マナー違反だ。


 大樹も今日は楽しかった。

 でも今度はもう少しゆったりと過ごしたい。二人で乗っても大丈夫そうなマットをプールに浮かべて、取り留めない話をしてだらだらしたい。

 それに飽きたらビーチバレーがやりたい。ビーチではないが。いや、いっそのことバドミントンなんてどうだろう。さすがに危ないか。


 楽しい想像が膨らむのは月夜のおかげだ。本人の前で言うのは気恥ずかしいが、彼女と付き合ってから毎日が充実している。


「はやく起きてくれないかな」


 待っている間にどんどん日は傾いていった。西日に照らされているうち、次第にまぶたが重くなってくる。気付かぬまま、大樹は眠りについた。


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