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「栄転? 左遷?」


「篠原くん、ちょっと」


 翠が小声で手招きしてくる。

 月夜を保健室に預け、翠には熱中症だと言い張って誤魔化した後のことだった。

 大樹は嫌な予感がしていた。


 彼女の背丈に合わせて、少し屈んでみる。翠はあたりを気にしながら大樹の耳元でささやいてきた。


「お節介かもしれないけどさ。そういうのはもっと周りに気を付けながらしたほうがいいよ」


「————」


 言葉を失うという表現はこういうときに使うのだろう。


「……なんのことでしょう?」


「いやいや、そういうのはいいから」


 とぼけても無意味らしい。翠に耳を引っ張られる。


「あのね、私もそこまで間抜けじゃないよ? 二人が学校内でそういうことしてるの全部気付いてる。というか、見た」


「えー……?」


 それは聞き捨てならない。月夜がちょっかいをかけてくるのは人がいないタイミングに限ってのことだ。生徒会室で騙し討ちされたときも、翠の視界に入らないように気を付けていた。


「月夜さん以外見ている暇がないよ————とか言っていたね」


「……。…………いや。それはおかしいです! だってあのとき部屋にすらいなかったじゃないですか! まさか覗いていたんですか!?」


「めちゃくちゃ入りづらかったよ! いつまでも終わりそうになかったから、わざと足音立てて気付かせてあげたのっ!」


 そうだったのか。確かにやけに大きな音だった気がする。

 遅れて頬が熱くなってきた。これは相当に恥ずかしい。


「そんなんじゃ、いずれ周りの人たちに気付かれちゃうよ。それでいいの?」


「……もうそれでいいかな、とも思います」


「はえっ!?」


 自分の口からこんな言葉が、しかもすんなりと出たことに大樹は驚いた。

 月夜と付き合い始めて半年以上が経つ。彼女に流されるまま、影響された部分は多々ある。これもそのうちの一つだ。


「翠先輩。俺はもうそういう感じでいいのかもしれません」


「戻ってきてよ!? 君は人として大事な感覚をなくそうとしているよ!?」


 以前なら真摯に受け入れるだろうアドバイスも、右から左だ。かなり毒されてきている。

 ぼーっとした大樹の態度を見かねたのか、翠は、らしくもなく髪をぐしゃぐしゃにしていた。


「友達が、彼氏とどういう付き合い方をしていても口出しするべきじゃないって分かってる。でも、同じ受験生としてちょっと心配していることがある。君には知っておいてほしい」


「受験生として……」


「月夜、期末テストの点数が学年で中位くらいだった」


「っ!」


 多少は身構えていたが、予想よりも悪い知らせに顔が引きつる。

 月夜と翠が所属する特別進学クラスは、学年で屈指の学力を持つ生徒しか入れない。有名大学への合格が期待され、授業カリキュラムも通常のクラスとは異なる。


 学年で真ん中のくらいの成績を取ってしまう人間は、誰一人いないはずだ。


「先生からもちょっと厳しい説教を受けたみたい。本人にどれくらい響いているか分からないけど……篠原くんからも気にかけておいて?」


「……はい」


「ま、なんだかんだ大丈夫だって思っているけどね! だって月夜だし。夏休みに入ったら、流石に毎日君と会うわけにはいかなくなるでしょ?」


「そ、そうですね」


 上手く笑えなかったかもしれない。

 目敏く大樹の異変に勘付いた翠は、しかしそれ以上に言うことが思いつかなかったらしい。


「まあ、その。ほどほどにね」


 最後に、そう釘を刺された。





「父さん、海外転勤になった」


 学年が変わる、ほんの少し前のことだった。


 キスマークをベタベタにつけて、父————篠原直樹は言った。

 こうした父の姿を目にするのはよくあることだが、あまりにも間抜けな絵面で話が頭に入ってこない。


「栄転? 左遷?」


「そういうことはあまり聞かれたくないんだが……一応栄転だ」


「じゃあ、おめでとう。良かったじゃん」


「良くはない」


 直樹は頭を押さえている。次の言葉は想像に難くない。


「母さんのことをどうしようか悩んでいる」


 直樹は現在、大阪に単身赴任をしている。長期休暇の際に必ずこちらに帰ってくるのは大樹の母を気にかけてのことだった。


 母は、父のことを好き過ぎるのだ。一般的な基準で夫婦仲が良いなんてレベルはとうに越しており、リビングでもベランダでも玄関でも唐突にイチャイチャし始め、四六時中キスして夜は寝室で愛を育んでいる。


 休暇で帰ってきたはずの父が毎回、精根尽き果ててゲッソリした顔で大阪に戻っていくのは何回見ても同情を禁じ得ない。将来、そういう女性を伴侶に選ばないようにしたいと大樹は誓った。


 ……誓っていたのだが、このままでは父の二の舞になる気がする。


「日本を出てしまうと、今まで通り休みの度に帰ってくるのが難しくなる」


 本来であれば母は父についていきたかったはずだが、学生である大樹と紗季を置いていくわけにいかないから苦肉の策として現状に甘んじているのだ。

 今でさえ我慢を強いているのに、これ以上会えない日が増えると知ったら母は寝込んでしまうだろう。


「ところで紗季のことなんだが……秀光女学院に受かったのは本当なのか」


「本当だね」


「どうしてそんなことに」


 秀光女学院というのは、都内にあるお嬢様学校でかなりの歴史と伝統のあることで有名だ。当然、その門をくぐるには相応の学力を求められる。少なくとも、紗季の実力では到底受かるはずもなかったのだが……。


「特別講師のストイックな授業の成果だよ」


 月夜のことである。紗季は我ら藍咲学園が誇る天才に救いの手を求めた。それで余計に苦しむことになるとは気付かずに。


「お兄ちゃん……これからはちゃんと勉強頑張るから……もう月夜さんは勘弁して」


 月夜が特別レッスンをつけた後、紗季は虚ろな目でそう言った。

 日々感情を失くしていく紗季を見るのは辛かったが、大樹も心を鬼にして妹を見守った。結果、あの秀光女学院に合格したのを聞いたときは妹のことを素直に尊敬した。本人は喜ぶ気力も残っていなかったというのが笑えないところだが。


「正直、そんな名門に受かるとは思っていなかった。素直に喜ぶところなのか?」


「父さん、全然信じてくれなかったもんね……」


 学校にまでの合格の事実を確認しに行く始末だった。


「その秀光なんだが……全寮制なのは知っているか?」


「もちろん。本人も通う気満々だよ」


 残念な生活能力のまま妹を送り出すことが兄の唯一の心残りだ。


 直樹は、じっと大樹を見据えた。大樹は肩をすくめてみせる。父がこの場を設けた時点で結論など出たも同然だった。そして、それを受け入れる気持ちも既に作ってある。


「母さんを連れていきなよ。そうすれば万事解決だから」


 甘えたがりな母にしては頑張った方だと思う。でも、時折直樹の写真を眺めて寂しそうにしているのは結構つらい。もう一緒に暮らしてしまえばいいと思う。


「紗季のことも心配ないよ。秀光はこの家から近いんだし、いざとなったら俺がなんとかするよ」


 話はそれで終わったとばかりに、大樹は席を立った。

 だが、直樹はそのつもりではなかったようだ。


「お前はそれで大丈夫なのか?」


「大丈夫も何も……。二人がいなくなってくれると俺の負担が減る。むしろ助かっちゃうくらいなんだけど」


 強がりではなく事実を言ったつもりだ。

 家事はほぼ全て大樹がこなしている。困ることは何もない。

 時には保護者がいないと面倒な場面も出てくるかもしれないが、それはそのときに考えればいい。


「……そうか」


 父は、それ以上何も言わなかった。

 歯切れの悪さに引っかかりを覚えたが、そこを蒸し返そうとは思わなかった。



 ひさしぶりに家族のことを思い出したのは、月夜との距離感が劇的に変わったきっかけだからだろう。


 現在、あの家には母も妹も、ましてや父も住んでいない。

 いくら常識破りな月夜でも、家族がいたなら連日泊まりにくる真似はしなかったはずだ。

 何も起こらないと思っていた。だが四六時中一緒にいるうちに、月夜との関係性は目まぐるしく変化していった。恋人としてやるべきことは全てやったような気がする。


 その結果、月夜の受験が危ぶまれているのだから笑えない事態だ。


 夏休みの間は少し会うのは控えよう。今までが異常だった。それとなく伝えて……いや、匂わせた瞬間に暴れ回るだろう。比喩でも誇張でもなく。説得しようとしても逆に言いくるめられてしまう……か?


 インターホンが鳴る。

 せめて、今日は泊らせずに帰ってもらおう。まずはそこからだ。

 決意を固めて、月夜を迎え入れる。彼女は上機嫌にステップを踏み、跳ねるようにして大樹に飛びついてきた。


「うおっ」


「うりうり」


 甘えてくる彼女が可愛い。さっきの決意が容易く揺らいだ。

 月夜の好きにさせておく。一分くらいして、ご満悦な表情を見せてくれた。


「さっきはよくもやってくれたわね。けどサービス精神旺盛嬉しかった。今夜は期待してほしい」


「な、なにを」


「言わせないで恥ずかしい」


 白々しく照れてみせる月夜。

 それよりも、視界にある物が入って落ち着かない。見たことないくらい大きいキャリーケースがある。何が入っているかなんて聞くまでもない。


「これ? とりあえず一週間くらいはお邪魔するつもり。あ、心配しないで。両親にはしっかり言い訳してきた」


 そんな心配はしていない。

 言わなければ。どんどん言いづらくなる前に。


「つ、月夜さん」


「すごく楽しみにしてた。これでずっと一緒にいられる。あ、せっかくなら休み中に旅行なんてどうかしら。おうちで過ごすのも好きだけど、久しぶりにデートもしたい……どうしよう。やりたいことがいっぱいあるわ」


 大樹を置き去りにしてはしゃぐ月夜。



 遊んでいる場合じゃないですよ、月夜さん! 今日、翠先輩から聞きました。勉強全然進んでないみたいですね。なにやってるんですか! あなた特進クラスでしょ!? っていうかそれ以前に受験生でしょう!? 月夜さんが浪人するところなんて絶対見たくないんですし、ほらっ、今日は勉強しますよ! 俺も付き合いますから!



 ……って言えたらなあ。


「大樹くん? どうかしたの?」


 大樹の腹の内など知る由もなく、月夜はきょとんとしている。

 エアコンのきいた空間で、大樹は脂汗を流しながらついに口にした。


「……とりあえず上がってください」


「うん。お邪魔します」


 一日くらい甘やかしてもいいよね?




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