「人間に歴史あり」
「あ……えっと、もう大丈夫です。なんとか立ち直りました」
「……そうですか」
きまずさから目を合わせることができない。なんとも居心地が悪かった。だがそれはかなたも同様だった。先ほどから何度もスカートの裾の部分を気にしている。
「それじゃあ、俺はこれで……」
「あ、はい。どうもすみませんでした……」
ぺこぺこと両者とも頭を下げ、やがて大樹は踵を返しその場をあとにしようとした。
しかし、ここで大樹は思い出す。何故自分はこんなところにいるのか、そしてその経緯は何だったのかを。
「………」
楓がいなくなってしまった今、自分はどこに行けばいいというのだろう。また孤独と戦いながら苦しい時間を過ごさなくてはならないのか。
それは御免だ。
気まずい、言いづらい……などと言っている場合ではない。今ここで決断し行動に移すことが出来なければ後悔することになるのは目に見えている。
「あ、あの、結城さん!」
微妙に上擦っている自分の声を大樹は聞いた。振り向いたかなたは、困惑気味な視線を大樹に向けていた。
「あの……しばらく一緒にいてくれませんか!?」
「ええっ!?」
大袈裟なくらいに後ずさりをするかなた。
しかしそれは当然のことだった。かなたからしてみれば、自分の下着を見た相手が自分と一緒にいたい……そう言っているのだ。
もしかしたら、多分、きっと……妙な気持ちを起こしているのではないかと疑ってしまうのは、かなたの性格なら仕方のないことだった。
「い、嫌です」
「ええっ!? ちょっ、なんで駄目なんですか!?」
「き、君はまだ子供でしょう!? そういうのは早いと思います!! しかもよりによって私にそんな気を起こすなんて……」
かなたが、ぐしゃぐしゃと髪を掻く。だが、大樹には何のことだかさっぱり分からない。
「こ、子供? 早い……? え、えっと! それじゃあせめて昼休みが終わるまで! それまでそこの部屋に置いてもらえないですか!? もう独りは嫌なんですよ!!」
大樹の悲痛な叫びが、響き渡った。
かなたが楓を連れていこうとしていた部屋。それは相談室だった。
この部屋の存在の有無は学校によるが、悩み多き学生の多さが社会問題になっている現代ではないほうが珍しいかもしれない。
「とは言っても、実際に相談室を利用してくる生徒さんはあまりいないですけど……」
そしてその相談室で生徒のカウンセリングを行うのが、この結城かなたの仕事である。
「確かに、俺も使おうと思ったことはないですね」
「それだけ、みなさんが特に悩みもなく過ごせているのなら、いいんですけど……」
「もしかして、楓も何か相談とかしました?」
会話を繋げるために、なんとなく聞いてみたつもりだったが予想外な反応が返ってきた。
「あれ? 篠原くんは聞いてないの?」
「えっ?」
大樹は少し驚き、言葉に詰まった。そして楓のことがすごく気になった。
「あ、あの、あいつの悩みって……?」
「駄目です」
かなたが人差し指を自分の口元にあてて『静かに』のジェスチャーをした。可愛らしい仕草だが、その目はとても真剣なものだった。
「別に楓ちゃんに口止めされているわけではありませんが、人の悩みを言い触らすようなことはできません。ごめんなさい」
「……いいえ。すみません」
しかし頭の中は楓のことでいっぱいになった。あの楓に悩み? 正直想像がつかない。
昨日の試合での揉め事……は、あり得ないか。昨日の今日でかなたに相談したとは考えにくい。
そういえば何で楓は昨日、勝ちにいくような素振りを見せたのだろう。賭けでは楓が負けた方が得をするし……委員長たちと何かあったのだろうか。
考え込む間に相談室に着いた。かなたが鍵を取り出して扉を開けた――その瞬間、とんでもない光景が二人に飛び込んできた。
なんか、男女が抱き合っている。
『………』
重苦しい沈黙が舞い降りた。時間が経過して大樹はようやく状況を正しく把握できた。
訂正。抱き合っているのではなく、抱き合っている『ように見えた』のだった。
だがそれでも、女子生徒が男子生徒のお腹に乗っている状況……そういうことをするつもりだったのではないかと疑われても仕方ない。
男子生徒を除く三名が顔を真っ赤にし……一番に硬直が解けたのはかなただった。
「な、何してるんですか!?」
かなたが二人のもとに駆け寄る。大樹はまだ頭の処理能力が追いつかず動けずにいる。
「え、うあ、その……これは……」
女子生徒が縋るような視線を男子生徒に向けるが、当の彼はなんのことか分からないとばかりに首を傾げる。
次にかなたに目を向け――最後に大樹へ。
「っ!!」
女子生徒と大樹は初対面であり――そんな相手にこんな姿を見られたらどんな行動をとるか。
「ち、違うんだよぉぉぉぉおおお!!」
逃げ出してしまっても文句は言えないだろう。女子生徒は男子生徒から咄嗟に離れ、窓の方から飛び出してしまった。
「ちょっと!? ここは二階なんだけど!?」
かなたは窓から下の景色を見る。特に何の怪我もなく女子生徒が駆けていくのが確認できた。
「……ふぁ~」
そして、言い訳をするわけでもなく逃げるわけでもなく今更のように男子生徒は起き上がった。かなたの感情の矛先はそちらに移る。
「神谷くん! 一体、紅葉ちゃんと何をしていたのですか!?」
問い詰めるような口調でかなたは言った。だが神谷と呼ばれた生徒は意地の悪い笑みを浮かべた。
「そんなに聞きたいの?」
「えっ」
「紅葉と何をするつもりだったのか、知りたいの? 結城さん?」
「え、う、その……」
ニヤニヤとする神谷に真っ赤な顔のかなた。本来不利なのは彼のはずなのに、立場が逆転しているような。楓の件といい、かなたは少し生徒たちに弱過ぎではないだろうか。
何も言えなくなってしまったかなたに、神谷自身が助け舟を出す。
「別に何もしてないよ。俺がサボってるところに紅葉がやってきて、それで怒られただけ。ちょっとふざけてたらあの体勢になっちゃった」
「そ、そうですか……」
かなたが胸を撫で下ろしたのも束の間、かなたは再び神谷に食ってかかる。
「というか、どうして中にいたんですか!? 私、今鍵持ってるんですけど!!」
「騒がしい人だなあ、結城さん」
ケラケラと腹を抱える神谷はポケットから何かを取り出した。
「そんなの、合鍵に決まっているだろう」
「ああっ!? なくしたと思ってたのに!! 寄越しなさい!!」
かなたが鍵を取り上げようとしたのを神谷がさせまいと回避する。かなたが追撃するが神谷は立ち上がり腕を頭上に伸ばして鍵を揺らした。
「とれるものなら、どうぞ~」
「うぅ~!! 馬鹿にしないでください!」
と、そこで大樹は神谷とかなたの間にはかなりの身長差があることに気付く。大樹が173くらいで、神谷はさらに高い。185だろうか?
女性であるかなたにはなかなか届かない。神谷が少し鍵の位置を下げる。するとかなたが飛びつく……が、それに合わせて再び鍵は神谷の頭上へ。
「完全に遊ばれてますね、結城さん」
見ていられなくなり、鍵が下がったところで大樹はそれを素早く奪取した。
「……お前、誰?」
途端に不機嫌になった神谷の迫力に圧されて大樹はわずかに身を引く。さっきまであんなに楽しそうにしていたのに、その落差に大樹は神谷を怖いと思った。顔立ちが整っているので余計にそう思う。
だが、今更退くつもりもない。
「結城さんが嫌がっています、やめてください」
「………」
無言となった二人が睨み合う。険悪なムードを察したかなたは二人の間に割って入る。
「大丈夫ですよ、篠原くん! いつも神谷くんとはこんな感じでふざけているだけなので! 神谷くんも、そんなに怖い顔をして後輩を睨んじゃ駄目ですよ」
かなたが場を和ませようとしたその姿勢に二人は渋々といった感じに臨戦態勢を解いた。神谷はくるりと身を翻らせると、そのままソファに横になった。
「って、いやいやいや」
かなたが神谷の首根っこを掴み、ソファから引きはがそうとするも神谷はそれにしがみついて反抗する意思を示す。
「神谷くん! 今学校で何が行われているか分かっていますか!?」
「己の信念を貫くため、立ちふさがる敵を打倒し頂点を目指す。頂きに立つことが出来た一人だけが全てを手に入れる……、その名も球技大会」
「言い回しが無駄にかっこいいのが気になりますが……そうです、球技大会です。神谷くんは出なくていいんですか、いやよくない!」
「何反語使ってんの。いいんだよ、俺は。つまらないし」
頑として動こうとしない神谷に、いよいよかなたも呆れ返った。その手を離すと彼女は近くの椅子に腰かける。立ち尽くしたまま手持ち無沙汰になっている大樹に気が付くと、慌てて大樹にも座るように促した。
「まあ……神谷くんは、こういうこと興味ないかもしれませんが。でもこんな風に仲間と団結してスポーツに熱中できる機会なんて、大人になったら滅多に巡ってきませんよ?」
「なに、急に。羨ましいの?」
「そうですね。もう昔の友人に会うことも少ないですし。そう考えると高校生のときの思い出って大切だと思えてくるんですよ」
「俺には分からない感覚だなあ」
「紅葉ちゃんと会えなくなるのは嫌でしょう?」
「嫌だ」
「即答ですね」
かなたが苦笑すると、神谷は顔を逸らした。大樹にはその神谷の表情がとても儚く見えた。それだけで、大樹は紅葉という女子生徒の存在が神谷にとってどれだけ大切であるかを察した。
そして、意外なことにあれだけ強情だった神谷がいきなり立ち上がった。そのまま部屋を出て行こうとする神谷に、かなたが慌てて声をかけた。
「えっ、あの、神谷くん、もしかして……?」
「いや。別に。ちょっと居心地が悪くなったから出て行こうと思っただけ」
だが、振り返った神谷の笑顔は柔らかかった。
「でも、それなら紅葉を見ておかないと勿体ないと思ったよ。……まあ、そのついで俺も出てやらないこともないわ」
背中を見せたまま手を振り、神谷は部屋をあとにした。
「まったく、もう……」
呆れた感じのセリフではあったが、本心からのものではないだろう。頬が緩んでいる。
「あの、さっきの人たち、一体何だったんですか? 相談しにきたわけじゃないですよね……?」
「ああ、えっとですね。男の子の方が神谷隼人くん。女の子の方が桜庭紅葉ちゃんです。二人とも今年から三年生で、一年生の頃からここに遊びにきている人たちです」
「遊びに? ここってそんな風に利用してもいいんですか?」
「私は全然構いませんよ。一般開放している時間帯は出入り自由ですし、神谷くんたちが来てくれると私も楽しいので……。あっ! も、もちろんちゃんとお仕事もしてますからね!?」
そうか。あの二人は三年生だったのか。しかし、あの桜庭という女子生徒まで自分の先輩だというのは……少々納得がいかない。あんなに小さいのに。
「神谷……先輩は、なんだか楓に似ているところがありますね。面倒くさがりなところとか」
「ふふ、確かにそうですね。でも神谷くんとの付き合いが長いので、彼の扱い方は慣れたものです」
紅葉ちゃんをネタにすればよいのです、とかなたはニヤニヤと笑みを浮かべる。まるで高校生同士でからかい合う時のような無邪気な笑顔だった。
「でもそれまでは、なかなか大変だったんですよ。全然言うことを聞いてくれなくて手を焼いた時期もありました」
「へえ。なんか納得です」
「でしょう? あの頃の神谷くんは――」
と、そこではっとしたように、かなたは口元を押さえた。大樹は人差し指を立てて唇に当てた。
「これですか?」
「まあ、そうですね」
誤魔化すような笑みだ。この人は人の過去について敏感すぎるのではないだろうか。これでは生きづらそうな気がする。
「人間に歴史あり、ってところです」
その言葉は、妙に大樹の心に馴染んだ。
人は様々な苦難を乗り越えて今を生きている。
月夜や楓、神谷と紅葉も、目の前のかなただってそれぞれの過去を生きている。その歴史の積み重ねを知ろうとすることは無粋なのだろうか。
「………」
一考してみて思うことがあるとすれば、大樹だってあまり自分の過去を話したくないということだった。
それからしばらくは、かなたと他愛ない話をして過ごした。
今夜は出血大サービス!