「大樹くんは現実を受け入れるべき」
おひさしぶりです。
校内に人の気配はほとんどない。終業式を済ませて明日から夏休みだというのに、居残る人間のほうがおかしいだろう。
大樹は自分以外誰もいなくなった教室でプリントを睨んでいた。夏合宿の予定を組むのは、当然ながら部長の仕事だった。去年のしおりを参考に作成してみたが自信はない。あとで蒼斗に聞いてみよう。
これとは別に、夏休み期間中の練習メニューも作らなくてはならない。
頭を悩ませる大樹は、コツコツコツ————と指先で机を叩く音を聞いた。
待ち人がやってきたことを確認した大樹は書類を鞄にしまう。
「帰りましょうか」
月夜と落ち合うのは、人が少なくなってからが常だった。公認の仲とはいえ、不必要に注目を浴びるのを避けるための措置だった。
だがどういうわけか、月夜は申し訳なさそうに視線を下げている。
「ごめんなさい。実は翠に仕事を手伝ってほしいとお願いされて」
「翠先輩に?」
先々月に行われた生徒会選挙で、翠はめでたく生徒会長に就任していた。
ときたま顔を合わせることがあったが、いつも忙しそうにしていたのを覚えている。
「大樹くんは先に帰ってていいから」
「そんな風に言われて帰れるわけないでしょう。俺も行きますから連れていってください」
「……そう言うかもとは思ってた」
月夜がしれっと腕を組んでくる。一瞬周りを気にして、誰もいないことを思い出す。なら、好きにさせてもいいか。
生徒会室に向かうまで、月夜はいやにご機嫌だった。鼻歌なんて初めてきいた。
「楽しそうですね」
「どうしてだと思う?」
理由なんて分かり切っている。だが、大樹はとぼけてみせた。
「さあ。見当もつかない」
じっとりとした視線が突き刺さるが、努めて無視する。話をおかしな方向に持ってかれかねないからだ。
階段を上がり、廊下を曲がる。その先にある生徒会室からはドタバタと騒がしい音が響いている。思わず、月夜と顔を見合わせてしまった。
中を覗くと小さな体が部屋中をせっせと動き回っていた。
翠は大樹たちに気付くとパタパタと駆け寄ってくる。
「あー! 二人とも待ってたよ!」
おかしなことを言う。大樹がここに来たことは翠にとって予想外だったはず。
「月夜を引っ張れば、もれなく君もやってくると思ってたよ」
「いい性格してますよね」
「男手があると助かるや。前生徒会長からの引継ぎは完了したんだけど、見ての通り単純に片付けが進んでなくってさ。今日中になんとかしなきゃなんだよ」
確かに彼女の言う通り、まるで引っ越し直前の家みたいに段ボールだらけだ。
「それで俺たちは何を?」
「月夜は私と一緒に事務作業。篠原くんは出来上がった書類に不備がないか見てくれる? 誤字脱字とか計算間違いとか。整理がついたら一気に運んでもらうから」
「了解です」
難しそうではなくてホッとした。
「他の役員の方々は?」
「帰ってもらったよ」
「……なぜ?」
人手が足りないと言いながら何故正規メンバーたちを帰してしまうのか。
視線で問い詰めると翠はしどろもどろになって答える。
「いやあ、ほら。新規役員たちをいきなり残業に付き合わせるのは悪いじゃん? ブラックなんて言われたらこのご時世やばいよ。だからちゃんと定時で帰らせました!」
「……その考えは立派ですけど、そのシワ寄せが俺たちにかかってることをどう思います?」
「私と君の仲じゃん☆ 固いこと言うなよ♡」
グリグリとひじで突いてくる。翠の言う通りだ。今更こんなことでとやかく言うつもりなんてない。ただ、彼女の目の前で他の女の子と仲良くしたのはまずかった。
「ねえ翠……私の大樹くんから離れてくれないかしら」
地の底から響く声で月夜が唸る。
本気でびっくりしたらしい翠は飛び跳ねて、その場から動けなくなってしまった。大樹から離れるどころか、腕にしがみつく形になる。
それが月夜には癇に障るらしい。
「みどりぃぃいいいいいいい…………!!」
「怖い怖い怖い!! わかった! わかったから! 貞子か!? 迫ってくるな!」
ただでさえ狭い空間で鬼ごっこが始まる。捕まったら殺されそうだ。
大樹は二人の仲裁にかかった。
◇
黙々と作業を進める。書類にペンを走らせたり、電卓を叩いたりする音しかしない。
先輩女子の空気にあてられて、大樹は普段以上の集中力を発揮した。書類に穴を開けファイルを整理していく。
ほとんど無言のまま小一時間たったころ、不意に翠がのびをした。
「ちょっと飲み物でも買ってくるよ。待ってて」
「え、翠先輩。それなら俺が行ってきますよ」
「いいの、いいの、手伝ってもらってるんだし。これくらいさせてよ」
反動をつけて椅子から飛び降りると、颯爽と駆けていく翠。
月夜もペンの動きを止めて、身体をのばす。少し緊張感が緩み、大樹も小休憩をはさむことにして椅子に腰かけた。
背もたれに体を預けて楽にしていると、真隣のパイプ椅子が音を立てた。案の定、近すぎる距離に月夜が迫っていた。しかし話しかけてくるわけでも、意味深なアイコンタクトをするわけでもない。
一旦無視しようとした瞬間、月夜が太ももに指を這わせてきた。
「くふっ」
女の子みたいな悲鳴を上げなかった自分を褒めたい。
「……翠先輩が戻ってきちゃいますよ」
「出ていったばかり。まだ戻らない」
細くて白い指が、足踏みをする。
大樹は抵抗する素振りも見せなかった。初めてじゃない。人がいなくなった瞬間を見計らって、月夜が仕掛けてくるのはいつものことだ。一々動じてなどいられない。
見つかるか見つからないかのギリギリのスリルがたまらないと彼女は語った。
わずかばかりも理解できないと拒絶したはずが、最近ではこの状況を違和感なく受け入れている自分がいる。手遅れかもしれない。
調子に乗った月夜が正面から抱き着いてくる。体勢的にはかなり際どい。
キスかと身構えたが、額同士を重ねるだけにとどめている。互いの鼻先まで当たっているのに、もどかしい。
「どうしたの、大樹くん。キスしてもいいよ」
「したいのはそっちでしょ」
軽口を叩くと両頬を引っ張られた。全然痛くない……と言いたいところだったが爪を立てられてしまう。
「私がいるのに、翠にデレデレしないで」
「まったくしてないです」
「してた。くっついてた」
月夜は、なにも本気で怒っているわけではない。暗に機嫌を取れと言っている。そういう機微が、大樹にもわかるようになってきた。
「月夜さん以外を見ている暇がないよ」
「………。だったらすべきことがあるはず」
腕を回され、さらに体が密着した。
理性的な抵抗感が芽生える……が、そうしているうちに翠が戻ってくるかもしれない。悩む時間はあまりなかった。
触れる程度のキスをすると、月夜の抱きしめる力が強くなった。大樹も自分の腕を回そうとしたときだった。
足音が響いてくる。
「まだ、足りないのに」
心底名残惜しそうに離れると、月夜は隣に座り直した。何事もなかったかのように仕事を再開する。
直後、生徒会室の扉が開け放たれる。放心していた大樹も背筋を伸ばす。
「お、おまたせ! お茶と紅茶買ってきたんだけど、これでいいよね?」
「ええ、ありがとう」
「わ、わざわざすみません」
ペットボトルを受け取り、一口飲む。別の要因で汗をかいたせいか、そのまま半分くらい飲んでしまった。
「……お二人さん。なにやらキョリが近くない? 私がいない間に何をしてたの?」
「ごふっ」
お茶が気管に入りそうになった。
さっきまで離れた位置に座っていたはずなのに、二人並んでいれば不審がられて当然か。
大樹の動揺とは反対に、月夜は涼しい顔をしている。
「別に。私は大樹くんが大好きだから。ベタベタしても問題ないでしょ」
「お、オウ……そこまで開き直られるとこっちが恥ずかしいぜ」
翠は照れくさそうに頬をかく。
「イチャイチャしてもいいけど、しっかり手伝ってね!」
「そうね」
月夜が頷いたところで、翠は自分の作業に戻っていった。うまく会話を誘導し、追及をかわした。やっぱり咄嗟の頭の回転は速い。というより、その図太さが羨ましい。
「大樹くん。私が書類をここまで運ぶから、あなたはその整理をしてくれる?」
「えっ。持ち運びなら俺がやりますけど」
「いいから」
すげなく断られてしまう。翠のときもそうだったが、どうにも先輩方は大樹をパシらせてはくれない。
テキパキとした動きで、目の前に書類が積み重なっていく。大樹は慌ただしく手を動かし続けた。そのせいで、月夜の企みに気付けなかった。
あまりにも唐突で脈絡がなかったせいで、大樹は変な声を出してしまう。
「えっ、どうしたの。篠原くん」
「な、なんでもないです。ただのしゃっくりです」
「急に?」
「はい、なのでどうかお気になさらず」
「そ、そう?」
隣の月夜が微笑んでくる。
「しゃっくりなら、驚かせてあげましょうか。治るらしいから」
「結構です。今本気でびっくりしているので」
掛け値なしの言葉だった。翠がすぐ近くにいるのにキスしてくるなんて。どういう神経をしているんだ、この女。
視線で不服を訴えるが、月夜は涼しい顔で無視している。
「手、止まっているわよ」
どの口が言う。
だがここで言い争うことはできない。翠に聞かれてしまう。結局、言われた通りに仕事を進めるしかない。問い詰めるのはその後だ。
しかし月夜の動向は警戒しておく。注意深く観察していると目が合った。
挑発的に、彼女は唇を尖らせている。大樹は反対を向いた。次の瞬間、首筋のあたりがぞわっとした。慌てて振り返る。
嗜虐的に目を細め、月夜は熱い吐息を漏らしていた。ここがどこか忘れているのか、ほとんど身を乗り出すような体勢になって大樹の肩に手をかける。長く艶のある毛先が顔に当たった。
これはやばい。
体重をかけられているせいで立ち上がることもままならない。
「……あー、えー、その。篠原くん」
翠がこっちを見ないまま言う。
「もう書類の仕分けはいいや。梱包済みの段ボール箱を順々に運び出していってくれるかな。普段使ってない準備室までなんだけど」
「りょ、了解です」
これ幸いと、大樹は月夜を押し返して部屋を抜け出した。
一人きりになって冷静になったところで、大樹は嫌な想像にたどりついた。
「絶対、翠先輩にバレてたよな……」
◇
そこからは月夜もちょっかいをかけるタイミングを逃していたのか、滞りなく仕事は進んでいった。
最後の段ボール箱を取りに戻ろうとする道中で、月夜がいた。台車には乗っている二箱は今大樹が運ぼうとしていたものに違いない。
「わざわざ出してもらってすみません」
「いいえ。運ぶ資料はこれで全部だそうよ」
「はい。階段の前までお願いします」
そこからは大樹が階上に運ぶつもりだったが、ひとつを月夜に取られてしまった。
「これくらい手伝わせて」
「……ではお言葉に甘えて」
大樹を先頭にして階段を上り始めて少しすると、翠が駆け足で追いかけてきた。
封入しそこなった書類だろう。そこそこ多い量を抱えている。
「ごめん月夜―! これも持ってくれない? もうちょっといける?」
「上に乗せて」
え、そんな不安定な位置で受け取って大丈夫?
念のため、自分の段ボール箱を段差の狭いスペースに置いた。大樹の心配は、残念なことに的中してしまった。翠が書類を重ねた瞬間、月夜はバランスを崩しかけた。
「あ、まって。意外と重い————」
「うわっ、と」
反射的に体が動いていた。彼女の脇の下から腕を通すようにして、月夜の荷物を支える。意図したわけではないが、月夜に抱き着く恰好になった。
「センパイ大丈夫でしたか?」
「——————」
どうしてか、月夜は返事もせずに固まっている。
翠が妙に上手い口笛を吹く。
「お~♪ さすが月夜の彼氏。やるぅ」
「翠先輩、からかってないで助けてください」
段差のせいでかなり無理のある体勢なのだ。
そんな感じのアクシデントはあったが、幸い大事には至らず全ての荷物を運び終えて作業は終了した。
「あとはこのゴミを捨ててくればいいんですよね?」
「うん! ありがとう! 結局最後まで手伝ってもらっちゃったね」
「お安い御用ですよ。さ、月夜先輩、いきますか」
「……ええ」
ゴミ捨て場は一階の部室棟のすぐ近くにある。ここからはちょっと遠い。
すっかりオレンジになった空を眺め、大樹は呟いた。
「遅くなっちゃいましたね。翠先輩も人使いが荒いな」
「うん」
「明日から夏休みですね。月夜さん、そろそろ本腰入れて勉強してくださいね。俺が言うのもなんですけど、最近の月夜さんは身が入ってないから」
「うん」
「……。でも勉強の合間を縫って、ちゃんとどこか遊びにもいきましょう? なんなら、ウチに来てくれてもいいですよ」
「うん」
おかしい。
さっきから口数がめっきり減っている。
大樹が話しかけても上の空で何かを考えているみたいだった。
「月夜先輩? どうしたんですか。疲れちゃいましたか」
ゴミ袋に青ネットをかけ、生徒会室に戻ろうとしたところで、ようやく月夜は返事らしい反応を示してくれた。
「……大樹くん。ちょっとこっちへ」
指差した先には駐輪場がある。言われるまま月夜についていった。当たり前だが、自転車はほとんど残っていない。皆帰ってしまったのだ。誰か来るとしたら、部活終わりの人間だろう。
月夜は、意を決した面持ちで告げた。
「さっきのあれ、もう一回やってくれない?」
どういう意味か測りかねて、首を傾げた。
「さっきの? あれ?」
「ほら、こう……」
月夜が少しだけ恥ずかしそうに、両腕で輪を作る。そこでようやく思い至る。階段で月夜を支えたときのことを言っているのだ。
ただ————。
「なんで?」
意図を理解した上でも、なお理解不能だった。
もう一度やる意味がわからない。荷物もないし。
「だって」
「はい」
「なんかすごい興奮したから」
「???」
大樹は月夜の額に手を当てる。特に熱っぽさは感じない。
「大丈夫ですか月夜先輩。頭でも打ちました?」
「いいえ、どこも。いいかげん、大樹くんは現実を受け入れるべき。あなたの彼女はこういう人間なのよ」
「…………」
ついに開き直った。
絶句している間に、月夜は早口で喋り出す。
「よくよく考えてみたら、いつも正面ばかりだから、後ろから抱き着かれたことなんて一度だってなかったの。盲点だった。これは世紀の大発見だと思う。早速実践してみましょう。誰かが来ないうちに。はい、どうぞ」
「い、嫌ですけど」
「やるまであなたを帰さない」
「…………せ、せめて家に帰ってからにしませんか。そこなら、まあ、うん」
「やるまで帰さないと言っているでしょう。往生際が悪い。翠が探しにくるかもしれない。悩んでいる時間はない」
なぜか叱られている気分になってきた。
こんな茶番に付き合う義理などないのだが、いつまでも延々付き合わされるのも問題だ。
腹をくくり、さっきのシチュエーションの再現に努めることにした。
「そう、そう。顔の位置を近づけて。頬ずりできそうなくらい」
「さっきはそんなに近くなかった」
「脇の下から腕を回して…………あっ。胸に触るのはいいけど、お腹はNGね。変な気は起こさないように」
「変な気を起こしているのは月夜さんの方なんだよ」
「真面目にやって!」
「無理ですよ!?」
季節は真夏だ。
いくら好きな人が相手でも、無意味にくっついていたくはない。重労働の後で汗もかいているのに。
要望通り忠実に体を密着させると、途端に月夜はフリーズした。と思いきや、今度は携帯みたいに小刻みに震え出した。
「わるくない。むしろ、とてもイイ」
感動に打ち震えているようだ。幸せそうでなによりだ。
「耳元で何かささやいてみて。低い感じの声で!」
そしてこんなバカな注文をしてくる彼女に心底呆れる。
大樹だって、月夜と恋人らしい振舞いをするのは好きだ。こんなに可愛らしい人が彼女になってくれて、嬉しくないはずない。
ただ正直なところ、相手をするのが面倒になってきた。
ひらめく言葉があった。
「月夜。愛してる」
「————」
せっかくなので、いつもリクエストされていた呼び捨てを実行。
こういうセリフに躊躇いを覚えなくなってきた。もう末期だ。
月夜は何も言わない。羞恥心を押し殺して攻めたのだから、どういう反応をするのか気になる。
顔色を窺おうとしたその時、ふっと月夜の体から力が抜けた。咄嗟に対処できず、月夜と共に倒れ込んでしまった。
月夜は真っ赤な顔で気絶していた。
またかよ。