「燃えてきたの」
◆
体育座りのまま、月夜が宙を見つめている。
意識が戻ってからというもの、ずっとこの調子だ。何度話しかけても上の空で大樹の声がちっとも届いていない。
そろそろ心配になってくる。
「その……大丈夫ですか?」
正面に回り込んで顔をのぞきこんでみた。
「っ!?」
大きく目を見開いた彼女は思い切りのけぞり、そのまま後ずさりをして背中から壁に激突していった。
バタバタと身悶えている月夜の姿はかなりそそっかしい。彼女を知っている人には想像もつかないような光景が目の前に広がっている。
大樹は呆れた顔で呟く。
「なにやってんすか……」
「だって、いきなり顔を近づけるから! ダメ! まだ!」
「だいぶ待ったつもりですけど」
「ソーシャルディスタンスを保って!」
「なんですかその変な言葉」
新型ウィルスが蔓延したら使われそうな用語だ。
冗談はさておき、尋常ではない月夜の慌てぶりを見ていると少しだけ後悔の念が押し寄せてきた。
「あの、やっぱり、こういうことはまだ早かったでしょうか」
勝手に盛り上がって雰囲気に流されたのは認める。
それに月夜なら嫌がらないだろうという卑しい打算もはたらいた。
まさか気絶させてしまうとは想定外だったが。
「ち、ちがうの」
咄嗟に否定してくる月夜だが、それ以上に言葉が続いてこない。
代わりに伸ばした腕が大樹の肩をつかんだ。
「笑わないで、きいてほしい」
そんな迫真に言われたら黙って頷く他ない。
「私はずっと、あなたのことが好きだった。中学生のときからよ」
「ふ、ふーん。そうですか」
ちょっと照れる。
「卒業してからもしばらく忘れられなくて、やっと気持ちに踏ん切りがついたと思ったのに。そうしたらあなたは急に藍咲に現れたわ」
「あのときのセンパイの取り乱しよう、今思い出しても面白かったですね」
「よ、余計なことは言わなくていい」
掴んでいた手の形がグーに変わって、ちょっと強めに叩かれた。痛い。
「すごくびっくりした。でもそれ以上に、嬉しかった。もしかしたら、知ってて来てくれたのかもって」
「完全に偶然なんですけどね」
月夜の進学先が藍咲だなんて、本当に知らなかったことだ。
月夜自身、そういった情報は担任にしか伝えていなかったはずだ。もし漏れていたら追いかけが起こって大変なことになる。
ふふっ、と月夜が口元に手を当てて笑みをこぼした。
「示し合わせたわけじゃないのに、また巡り合えた。運命で結ばれていたのかも」
「意外ですね。センパイでもそういうこと言うんだ」
「なんてこと言うの。私だって女よ」
「すみません」
「誕生日、血液型、星座、手相、姓名判断などなど、試せる限りの占いを全て試したことだってあるわ。知ってる? 私たちは相性抜群なんだから」
「アレ? なんだか急に怖くなってきた」
それだけ色々占ったら良い結果のやつも出てくるだろう。
「また、燃えてきたの」
「…………」
「彼女さんとは別れたって聞いた瞬間から。重い?」
「いいや。光栄なことだと思います」
「だったらもっと早い段階で篭絡されてほしかった」
鼻をつままれる。不満が溢れてくるのか、ぐにぐにといじられる。気が済むまで好きにさせておいた。
満足した月夜は手を離した。
「そんな風に好きだったあなたと、ようやく恋人になれたんだもの。それも、初めての恋人よ。……浮き足立ってしまう気持ちを理解してもらえないかしら」
「それは、もう、はい」
大樹も初めて彼女ができたときはそんな感じだった。今でも覚えている。
常に気持ちが上向きになって、小躍りしたくなる。なんだって出来る気がして、実際いつもより力があふれてくるのだ。
月夜がそう感じてくれているなら嬉しいし、ましてや笑うなんて絶対ない。
「それでちょっと変な感じになってたんですか?」
「……そうだけど、それだけじゃない」
ほの暗い雰囲気をまとって、月夜はひざを抱えた。
急な落差に大樹は戸惑った。
「私はあなたを振り向かせたかった。いつか両想いになる日を願っていたし、そのために全力だったつもり。でもこんなに全部うまくいってしまうのは、どうしてか信じられなくて全部夢みたいに感じることがある」
「…………」
「目が覚めたら、あなたは私の前から消えていなくなって、別の誰かと付き合っているかもしれない。そういう世界もあり得たはずだから」
その『誰か』について、具体的な名前と顔が思い浮かぶ。多分、月夜も。
月夜の言うことも一理ある。誰かの選択や思惑が、ほんの紙一重でもずれていたら大樹はその人と付き合っていたかもしれない。
だけど、それはもしもの話だ。
「……あの日のこと、忘れてしまいましたか」
沈んだ表情をしていたはずの月夜は、その一言で瞳に光を取り戻した。
「忘れられるわけがない。一生の中で一番嬉しかった日」
「それを言うのは俺の方ですよ。だって、あなたが————」
大樹はそこで言葉を噤んだ。これ以上は野暮かもしれない。
もしもの話をこれ以上論じても仕方ない。イフストーリーなんて、ここにはないのだから。
あるのは現実だけ。それも、かなり幸福な。
「あなたが————なに?」
「……あなたが俺のことを好きなのは、分かり切っていたことですから」
「む。ちがうわ」
「え?」
「私はあなたのことを大好きなの。間違えないで」
「……同じことでしょう」
「ふふっ」
「なんですか」
「顔が真っ赤よ」
指摘されて、自分の頬に触れてみる。熱を発している気がする。
気恥ずかしくてそっぽ向いてみると、月夜が回り込んでくる。さっきまでソーシャルディスタンスがどうこう言っていたくせに。その瞳が何かを期待するみたいに揺れるものだから流石の大樹で分かってしまう。
「俺も大好きですよ」
言った瞬間、月夜が飛び込んできた。
二回目のキスは、さっきよりも余裕を持って受け止めることができた。目を閉じて、月夜の体を抱き寄せる。唇を強く押し付けても、柔らかい感触だけがかえってきた。
いつまでもこうしていたくなる。どうにも離れがたく、三十秒ほどしてようやく二人は唇を離した。その際、糸のように細い線がきらめいて、二人して気まずげに顔を俯かせた。
「い、痛くなかった?」
「全然! 全然ですっ、むしろ、あの、良かったというか」
「そ、そう。それは嬉しい……」
頭の奥が痺れる。風邪を引いたときみたいにぼうっとしてしまう。
大樹が呆けている間に、月夜はじりじりと距離を詰めていた。
「あ、あの、篠原くん。ちょっときいてもらえないかしら」
「は、はい。なんですか」
「実は、あなたと付き合えたら、してもらいたいことがいくつかあって……それに付き合ってもらえないかしら」
心臓が強く脈打った。
大樹の脳内に様々なシチュエーションが浮かぶ。自分にとって都合の良い、妄想と呼ぶべきものだ。
期待感でいっぱいになった大樹はほぼ反射的に首を縦に振った。
「ほ、ほんと? 本当にいいの?」
大樹は目を見張った。
いつもの上品な笑い方ではない。月夜は本当に嬉しそうに、子供みたいな無邪気な笑みを浮かべていた。彼女は自分の頬が緩みきっているのに気付いて、表情筋を元に戻す。それでも口角が上がっているが。
「たとえば、どのようなことを……?」
今更になってちょっと怖くなってきた。
大樹が問いかけると月夜は恥ずかしそうにスマホを取り出した。
意図が分からず、その目を見つめ返す。
「ま、まずは写真を撮りましょう。二人で」
身構えていたのに、予想よりもかなり可愛らしい注文に拍子抜けした。
言ってはなんだが、もっと過激なことをされるのかと……。
「お安い御用で。でも一緒に写真を撮ったことくらいなかったですか?」
「ないわ」
きっぱりと月夜は言う。
「部活での集合写真ならあるけど、私が欲しいのはツーショット。長い付き合いのつもりだったけど、二人で並んだ写真がないの。由々しき事態よ」
随分と大袈裟な物言いだ。だが思い返してみれば、彼女の言う通り二人で写真を撮ったことはなかったかもしれない。近しいと感じているがゆえに、そういう発想にならなかったのだ。
「あなた個人を写したものならいっぱい持ってるんだけど。こっそり撮らせてもらっていたから」
「…………」
「あ、あれ、無反応? 『隠し撮りしないでくださいよ!』とか、そういうリアクションが欲しかったのだけど」
「あ、ああ、いえ。しょうがない人ですね、まったく」
月夜を責められないのは、若干の後ろめたさを感じたからだ。
大樹は何枚か月夜の写真を持っている。もちろん、大樹が撮ったものではない。月夜の級友である翠が勝手に送ってきたものだ。教室で自習する姿や食事をとる場面などの何気ない日常シーンばかりだが、ときたまクリティカルなものが混じっていたりする。
たとえば、調理実習でのエプロン姿や宿泊行事でパジャマ着の月夜の写したものだ。
多分、このことを月夜は知らない。知っていたなら怒るだろう。翠を。
大樹は何食わぬ顔で言ってのける。
「じゃあ、さっそく撮ってみます?」
「え、ええ……! 望むところ」
気合十分なセリフとは同時に、月夜はスマホをローテーブルの上に立てた。
大樹は困惑した。画面ではタイマーがその秒数を減らしている。慌てて月夜の横に並ぶと彼女も居住まいを正してそのときを待った。
シャッターが切られる。二人で写真を確認した。
「表情が硬いわね……」
「いきなりすぎます。もうちょっと余裕をください」
二人して正座しているせいで、ひな祭りのお殿様とお雛様を連想させる。
悪い言い方をすれば証明写真みたいだ。
「普通に好きなタイミングで撮りませんか。自分でカメラを持って」
「ああ……あの、イケてる感じの高校生がわちゃわちゃしながらやってる撮り方の?」
「どこからツッコミを入れたらいいのか……」
月夜の偏見はさておき、彼女のスマホを借りる。
頭上に掲げ、フレーム内に二人を収めようとする。が、腕を伸ばしても上手くいかない。単純に月夜との距離が開いているせいだ。
月夜が察して身を寄せてくれる。ほとんど密着のような状態だが、これで枠内に二人の顔がおさまった。あとは角度や光の加減を微調整していく。
「センパイ、笑顔を作って」
「は、はい」
敬語やめてほしい。
カシャっと良い音でシャッターが切られる。画像を一瞥した大樹は、むずかゆい顔でスマホを彼女に返した。
「……これでどうでしょう?」
写真の中の二人とも下手くそな笑顔だった。お互いを意識するあまりそうなってしまっているのが明白で、他の者がみれば実に初々しい限りの一枚だった。
大樹も、自分で見ていて恥ずかしかった。
月夜の反応を窺う。喜んでいるのかそれとも恥ずかしがっているのか、彼女も複雑な表情をしている。画像から目を逸らし、でもしばらくしてまた確認する。そんなことを何度も繰り返している。
「~~~~~っ!!」
羞恥心が限界に達したのか、月夜はソファにダイブした。
携帯を胸に握りしめながらばたばたと悶えている。若干、嬉しさの方が勝ったらしい。
「ホコリがたつからやめてくださいよ」
「これ、ロック画面に設定してもいい!?」
「それはちょっと……」
誰かに見られたらと思うと恥ずかしくて死ねる。
「では、ラインのアイコンで我慢してあげるわ」
「もっとよくない!」
「次! 次のリクエストいいかしら!?」
かつてない興奮状態の月夜が迫ってくる。
いよいよその勢いが怖くなってきた。
「こ、今度はなんですか」
「あなたのことを下の名前でも呼んでいいかしら。苗字で呼ぶのは他人行儀だと思うの」
先程と同様に、要望自体は可愛らしい。
それに今回は呼び方を変えるだけ。さっきみたいな気疲れはないだろう。
「わかりました。どうぞ好きに呼んでください」
「ありがとう、大樹さん」
「大樹さん!?」
ちょっと予想斜め上の呼び方に大樹は驚愕した。
月夜は意外そうにこちらを見てくる。
「どうしてそんなに驚くの? あらかじめ宣言したのに」
「やっぱりやめましょう。よくありません」
「なぜ」
「なぜって……」
母が父を呼ぶときと被るからだ。結婚しているような錯覚に陥る。
それに年上の先輩から『さん』付けで呼ばれるのは落ち着かない。
「いつか私の旦那様になる人だから。今からそういう呼び方で慣れておきたい」
「旦那様!? だ、駄目です、ならこの呼び方は禁止!!」
「双葉さんには許してるくせに」
「それは、亜樹がどうしてもって言うから」
「亜樹、ですって。ほんと仲良し」
「あの、念のためにもう一度言いますけど、亜樹は男ですよ……?」
この説明は数えきれないくらいやってきた。同性の同級生である双葉亜樹と仲良くしているだけなのに、月夜は刺々しい。亜樹が女性らしい見た目をしているのが問題のようだ。
「私、あなたを次期部長に推薦しておきます」
「いきなり何の話……?」
「あなたを部長にすれば、双葉さんはあなたのことを部長と呼ぶようになるかもしれない」
私的な理由を部活動に持ち込まないでほしい。
これで部長に任命されたら全然喜べない。
「それにあの子、彼女である私を差し置いてあなたとベタベタしすぎ。気に入らないのよ」
「ちょっと、ちょっと、センパイ。性格の悪さがにじみ出てます。抑えて」
「しかもこの期に及んで、私をセンパイ呼びする鈍感さ。はぁ~」
月夜は珍しく感情的になって八つ当たりをしてくる。
大樹は月夜の名を口にしようとした。だが、いざやってみようとすると中々言葉は出てこなかった。それでもなんとか気力を振り絞って、その名を紡ぐ。
「つ——月夜さん」
「やり直し」
「へっ?」
「呼び捨てにしてほしい」
「月夜さんと呼ばせてください! お願いします」
その後も、彼女の要望はまだまだ続いたのだった。
次回の更新はちょっと遅いかもしれません。