「情状酌量の余地があるの?」
部活が終わった後、大樹は直帰せずに女子部員たちと他愛ない話をして過ごした。彼女たちにせがまれる形で少しだけ喋ろうという流れになり、大樹は気を良くしてつい話し込んでしまった。
月夜との約束を思い出したのは、自分の家の玄関前でのことだった。
「……どうしよう」
なんだかんだで、一時間以上遅れての帰宅。
しかも何の連絡もしていない。月夜からは着信とメッセージが一件ずつ入っていた。
月夜と付き合い始めて半年以上が経つが、お互いにこういった失態を犯したことは一度もない。喧嘩もしたことがない。
だから月夜がどういう態度でくるのか、まったく見当もつかないのが不安だ。
一抹の気まずさを感じつつ、大樹は鍵を開けた。
「あ」
扉を開けてすぐのところに、月夜は体育座り俯いていた。物音で大樹が帰ってきたことに気付くと反射的に立ち上がり、安堵の表情が浮かぶ。
「帰りが遅いから心配してた。何かあったの?」
大樹の目線が泳ぐ。さまよった視線は、やがて月夜の機嫌を窺うような動きを見せる。
「えっと……」
振り絞ってようやく声が出てきたが、何の意味も成していない。
月夜は急かすことなく、静かに大樹の言葉を待っている。反射的に言い訳を探そうとしている自分が馬鹿に思えて、大樹は正直に告げた。
「部活が終わった後、つい後輩と話し込んじゃいました。月夜さんからのメッセージに気付いたのは家につく直前で……すみません」
自分で言いながら、中々ひどいなと思った。
一息置いて、月夜は口の中に空気を溜める。頬が思いっきり膨らんだ。けれどその仕草はどこか大袈裟というかわざとらしいというか……。
「本当に心配した」
「ご、ごめんなさい」
「でも無事に帰ってきてくれたから言うことがない。お腹すいてる? それとも先にシャワー?」
「す、すぐにシャワー浴びてくるので、そうしたら一緒にご飯食べたいです」
「うん、わかった」
自然な所作で大樹のラケットバッグを受け取り、奥へ歩いていってしまう月夜。
慌てて靴を脱ぎながら、彼女の背中を追いかける。
「怒ってない、ですか?」
「え。どうして」
「約束忘れて、おまけに連絡すらしなかったのに」
足を止めて振り返った彼女は、どこか困った面持ちだった。何をそんなに気にしているのかわからない、と言いたげだ。
「あなたは部長で、後輩の指導をするのも仕事の一つ。それを咎めるなんてこと、私にはできない。私にできるのは、疲れて帰ってきたあなたを癒してあげることくらい。変に遠慮せず、どんどん頼ってほしい」
大樹の不安を払拭しようと懸命に言葉を選んだのがよく分かる。
いつも過激なスキンシップで大樹を困らせるくせに、こういうところで年上らしい寛容さを見せつけてくる。
二の句が継げなくなってしまう。
大樹は自分の部屋で着替えを用意すると、おとなしく浴室に入った。軽く汗を流し、脱衣所に出たときには脱いだはずの制服は片付いていた。
「豚肉の消費期限が近かったから、ちょっとお肉多めになった。平気?」
「がっつり食べたかったから、嬉しいです」
ひとつはキュウリとミョウガが千切りにして作ったサラダ南蛮。もうひとつはレモンとめんつゆを混ぜた汁に豚肉とナスを浸したもの。後者はあまり見たことがないレシピだ。
「夏バテ対策で調べたら出てきた。口に合わなかったら残してもいい」
「そんなことしませんよ」
もし味に納得していなかったら、そもそも大樹の前に出すことすらしないのが月夜だ。
空腹と疲労が合わさって、箸が止まらない。夏バテ用レシピなだけあってさっぱりしているし、ご飯に合ってたまらない。
「月夜さん」
「なに」
「おいしいです」
「……ありがとう」
幸せそうに月夜が笑う。
見慣れた笑顔のはずなのに、いつもより可愛く見えてしまう。月夜が美人なのは百も承知だが、今はそれに輪をかけて、なんか、よろしい。
ものの数分で食べ終わってしまい、月夜は洗い物をするからとキッチンへ行ってしまった。手伝うと言ったのに断られるのはいつものことだ。
普段なら月夜に感謝しつつ自室に戻るところだが大樹は月夜から目が離せなくて、ソファで横になってくつろいでいるフリをした。カチャカチャと食器の音が響いていてそわそわする。
水音がやんだ。
大樹はうつ伏せに体勢を直した。キッチンの方は見ない。携帯を取り出す。たいして見るものもないくせに。
素知らぬフリを決め込む大樹の耳には足音がばっちりと聞こえている。
————きた。
背中に月夜が覆いかぶさってくる。ちょっとだけ息が詰まった。
「く、苦しいです」
「こんなところで隙を見せているのが悪い。観念しなさい」
よくわからない言い分をしながら、月夜は抱きしめる力を強める。女性らしい体の柔らかさが伝わってくる。それで、何故かひどく緊張した。自分でもなんでこんなに動揺しているのか分からなくて、頭の中が真っ白になった。
「は、離れてもらっていいですか」
「こうなることを期待していたくせに」
鋭い指摘に心臓が暴れた。
胸の鼓動とは対照的に、大樹は身じろぎひとつできなかった。
訝しんだ月夜の声が降ってくる。
「……え。大樹くん?」
「………」
「まさか本当に?」
「………」
しん、と部屋が静まり返った。時計の針の音がやけに大きい。
月夜の吐息が首筋に当たる。
「こ、こっち向いてくれる?」
「む、無理です」
「……お願い」
体が熱い。背中にじわりと汗がにじむ。夏だからか。
渋々ながら首を後ろへと向けると、間近に月夜の唇がせまっていた。
「!?」
逃げ場なんてなく、あっさりと唇を奪われる。
短くてぎこちないキスだった。初めてしたみたいな不器用さがくすぐったい。
これはもう駄目だな、なんて考えた。今日はもう流されるままになるだろう。
潤んだ月夜の瞳を見て、その予感は確信に変わった。
◇
二人してシャワーを浴び直して、ベッドで横になった。
薄い暗闇の中で、大樹はぼんやりと常夜灯を眺めていた。隣の月夜は大樹が動かないのをいいことにちょっかいをかけてくる。払いのける気力も残っていない。
「今日はどうしたの」
「……どうって?」
「いつもの大樹くんより、可愛かった。ご飯がおいしかったから?」
「月夜さんのご飯はいつもおいしいですよ」
彼女は言葉を詰まらせた。
「わ、私は真面目に聞いてる」
表情は真剣そのものだが、口元が少しだけ緩んでいる。手料理を褒められたことが嬉しいらしい。
「そういう気分になるときもあります」
「……えっちな気分?」
「や、やめてくださいよ。身も蓋もない」
しかもどうにも否定しづらい。
だが今夜の大樹が月夜に感じたのは、そういう邪な気持ちだけではないのだ。
「失敗しちゃったなって思ったんですよ」
「帰りが遅れたこと?」
「月夜さんを待たせちゃった」
「私は気にしていない」
彼女が言うなら、多分本当にそうなんだろう。
でも、玄関前で体育座りをしながら待っていたのを大樹は見逃していない。それは大樹が初めて見る月夜の新しい一面だった。
うまく言えないが、こんなつまらない失態は二度とするまいと思った。
「器が大きいね」
「大袈裟。年上ならこれくらい普通」
なんて殊勝なことを言うのだろう。大樹はもどかしくなった。
頭の中で分解できていない感情をそのまま伝えても、月夜には響かないだろう。だから伝えるのはこの言葉こそふさわしい。
「月夜さん、好きです」
「…………わたしも」
たったこれだけのことで顔を真っ赤にする月夜。お互いに我慢ができなくなって二人はキスをした。今度は少しだけ長めに。
月夜が体重をかけてくるのを感じて大樹は慌てた。なんとか意識を逸らさないと。
「そ、そういえば、月夜さんのアドバイス、ためになりましたよ」
「アドバイス?」
「よく見てあげてって言ってましたよね。今日、初心者の子たちの練習を見たんですけど、あれのおかげで上手く出来た気がします」
「……あ、部活の話」
「そうです、そうです」
いきなり話が変わり過ぎて困惑させてしまったか——そう反省する大樹だったが、どうやら月夜は全然別の点が気になるようだった。
「もしかして帰りが遅くなったのって、その子たち——彼女たちと話していたから?」
「はい。……ん、あれ?」
月夜がちょっと後ずさる。離れてくれたのは狙い通りだが、なんだか嫌な予感がする。
スッと彼女は目を細めた。
「後輩って、女の子のことだったのね」
「そりゃあ、月夜さんが面倒見てた初心者の子たちのことですから、女の子ですけど……?」
言葉を連ねるごとに、月夜の纏う空気が冷たくなっていく。
あ、と気付くには遅すぎた。墓穴を掘ってしまったようだ。
「やっぱり許しません」
「なんで急に!?」
「だって、彼女の私を放っておいて。他の女の人と過ごしていたわけでしょう。どこに情状酌量の余地があるの?」
「う、うつわぁ……」
「なに」
お手本のような手の平返しを茶化している場合じゃなかった。
月夜は感情表現を大袈裟にはしない。いつだって掛け値なしの本気だ。
彼女は今、本当に憤っている。大樹としては平謝りするしかない。
「ご、ごめんなさい。反省してます」
「口ではなんとでも言える」
取り付く島もない。いよいよ月夜は立ち上がってしまう。
繰り返すが、大樹と月夜は喧嘩をしたことがない。ゆえにこういうときの対処法が全く思い浮かばない。情けないことだった。
追い縋る大樹の手は月夜に届かない。
けれど彼女は部屋を出る直前、こんなことを告げていった。
「もういいです。今日はご両親のお部屋を使います。言い訳を思いついたらいらっしゃい。できるだけ早く。五分くらいで」
突き放すような口調で激甘なセリフを残し、月夜は静かに扉を閉めた。
彼女へと伸ばしていた腕をゆっくり下げて、ひとつ溜息がこぼれた。大樹は一度深呼吸をした。彼女の温情で生まれた猶予を活かし、しっかり五分悩んでから両親の寝室へと向かう。
遅すぎるわ、と月夜は怒った。でもやっぱり最後には許してもらえた。
あの日付き合い始めたときから、ずっと彼女は優しいままだ。