「寂しくても泣かないで」
「そろそろ手を離してくれませんか、センパイ」
「あなたから繋いできたのに」
電車に乗ってからも、月夜とは手を握ったままだった。
乗客である老若男女にまじまじと値踏みされるような視線を受ける。皆月夜に目を引かれて、そして隣にいる男を見て小首を傾げる。
そういう反応には慣れっこだ。彼らには悪意なんてこれっぽっちもない。ちょっと素直な態度が出てしまっているだけで。今となっては、不必要に萎縮するものじゃないと分かっている。
月夜は見られていること自体気付いていないのだろう。ときたま指に力をくわえてきて、こらえきれずにそちらに顔を向けてやるとニコニコと笑っている。こっちまで嬉しくなってしまうからやめてほしかった。
「相変わらず、朝からイチャついてんのな」
女子にしては低い声が上から降ってくる。
月夜と同じ学年の村上咲夜だ。先日まで彼女もバドミントン部に所属していて、副部長として尽力してくれた人だ。
指を絡めるようにして繋がれた手を見て、咲夜は嘆息する。
「よく人前でそんなことできるな?」
「だって、見ているのは他人だもの」
「今目の前に私がいるんだが?」
「だって、見ているには友人だもの」
「おいおい……」
月夜の発言に、咲夜は言葉をなくした。
大樹も、いたたまれない気持ちになった。その理屈だと、誰が見ていても気にしないということになる……。
「はあ。ホント、羨ましいよ」
もう一度溜息をつく咲夜。しかし、それはさっきよりもどこか深く重々しい。
その理由は、大樹たちの雰囲気に当てられたからではない。本当のワケを察している身としては何と声をかけようか迷う。
「咲夜も大神くんと一緒に来ればいいのに」
「自主練するってさ」
「咲夜も行けばいいのに」
「無理だよ。あいつの相手は務まらない。受験勉強もしなくちゃなんないのに」
引退した三年生はこれから受験勉強に専念することになる。
蒼斗や芝崎も今頃頑張っているはずだ。つい最近会ったときは二人とも目の下にクマを作っていたほどだ。
「大変ね」
約一名、同じ受験生のはずなのにけろっとしている者が隣にいるが。
「なんでお前はそんな余裕そうなんだよ」
「まだ慌てるような時期じゃないわ」
「あんまり調子乗ってると足元すくわれるぞ」
咲夜は脅してくるが、月夜は気にした様子がない。
「おい、こいつ大丈夫か」
咲夜が少し顔を近づけてくる。大樹は苦笑いに留めておいた。
何とも言い難い。月夜は秀才だ。並みより勉強は得意だし、そのための努力も惜しまない人だった。
だが、最近では見る影もない————と思っている。正直。
進級して以降、月夜は大樹の家にほとんど入り浸りになっている。その原因を作ってしまった大樹からは強く言えないが、勉強している姿が見えないことは確かに心配に思っていた。
「ちょっと咲夜。大樹くんに近いわ。ソーシャルディスタンスを保って」
「はいはい」
と、ようやく藍咲学園の最寄り駅に到着した。
「それじゃ、お邪魔虫は退散しますよ~っと」
咲夜は手をひらひらと振って、先に降りていってしまう。
大樹たちも遅れて電車を降りる。駅から出れば登校中の藍咲学園の生徒たちが多い。
月夜に気付いた彼らは、こちらを一瞥だけしてすぐに前へと視線を戻した。
大樹はほっとする。やっと、普通の光景として浸透してきたということか。
「なので、悪目立ちしないためにもくっつくのはやめてもらえませんか……!」
「無理な相談」
周囲に見せつけるがごとく、腕を組んでくる月夜。
一度逸らされた視線が再び一斉に戻ってきた。
◇
「お昼までの長いお別れになる。寂しくても泣かないで」
「四時間はそんなに長くないですよね?」
「どうしてもというなら休み時間に会いにきてもいいわ。優しく出迎えてあげる」
「ちょっと遠いんだよなあ……」
月夜は今年も特別進学クラスに所属している。通常のクラスから隔離するかのように、彼らは特別棟を根城にしている。……根城にしているってなんか妙な言い回しだな。
しかしそういう印象を持ってしまうのは、本年度から全学年に特進クラスが設けられたからだろう。人数は学内で約百名近く。去年までは閑散としていた特別棟も、今や出入りが激しい場所となった。
「でも、今日はやめとく。元々クラスで食べるつもりだったから」
「………………えっ」
悲しげな声を出す月夜。
所在なさげに立ち尽くす姿は、捨てられた子犬みたいだった。
「そ、そうよね。友人と過ごしたいときもある。当たり前のことよね。うん……」
「………」
「あ、えっと、気にしないで。私も、今日は翠たちと食べるから」
なんだろう。
普段グイグイこられる分、こういう反応をされると非常に困る。別に、大樹としても月夜を無意味に悲しませたいわけではないのだ。
「あの、月夜さん」
「……なに」
「夕ご飯は一緒に食べませんか。その、俺が部活終わった後で」
自分でも甘いなあ、と思った。
月夜は大きな瞳でこちらを見つめる。
「あなたの家でもいい?」
「え。ま、まあいいですけど」
どこか外で待ち合わせてから合流しようと思っていた……とは言いづらい。月夜は一瞬の隙を逃さず距離を詰めてくる。落ち込んでいても、したたかな性格なのはブレない。
「わかったわ」
表情筋の変化はほとんどないのに、喜んでいるのが丸分かりだ。子犬みたいと言ったが、今や大型犬が尻尾をぶんぶんと振り回している姿が重なる。
「またあとで」
スキップしそうな彼女を見送り、大樹も自分のクラスへと向かう。
教室に入ると、クラスメイトたちに声をかけられる。
「あっ、篠原くん! おはよー! 今日は朝練ないの?」
「うん、バレー部が使う日だから」
「よー、篠原。英語の予習やってる? 見せてくんない?」
「いいけど、そんなに自信ないよ」
男子生徒にノートを渡しつつ、大樹はラケットバッグを教室の後方へ運ぶ。
去年に比べて、圧倒的に友人が増えた。大樹自身の身の振舞い方は、以前から変わっていないのだが、こうして話しかけられることが多い。大樹は上手い具合にクラスに馴染めている。
「ところでさ、今日も朝日月夜と一緒に来たん?」
「うん、まあ」
「かぁー! 相変わらず羨ましいこって。俺もカノジョと待ち合わせして登校とかしてみてー!」
勝手にはしゃぐ男子生徒。
待ち合わせどころか、同じ場所で寝起きして登校してきた————などと口が裂けても言えない。
大樹が月夜と付き合っていることは、周知の事実だった。クラスどころか、学園中で知らない人間はまずいないだろう。それに関しては今でもたまに厄介事に巻き込まれるが、それ以上に交友関係が広がったのが喜ばしいことだった。
そのとき、背後から誰かが大樹に抱き着いてきた。
振り返らなくても分かる。こういうことをしてくるのは月夜を除けば一人しかいない。
「おはよ、ぶちょーさん♡」
甘ったるい声に耳をくすぐられる。あと良い香りもした。
ぞくりとする何かを感じながら、大樹は『彼』を引き剥がす。
「やめて。俺、彼女いるから。他のヒトにハグされるのはちょっと」
「月夜先輩が今関係あった? 別に男同士なんだから、これくらい普通じゃない?」
「普通の男だったらそうなんだけどね」
「ぶちょーが変なこと言ってる……」
お前が言えたことじゃねえよ。
内心でツッコミを入れつつ、大樹は向き直る。
「おはよう亜樹。なんだか、その呼び方はまだ慣れないや」
「またまたぁ。ぶちょーが藍咲バド部の顔ですから。今日から頼りにしてるからね?」
双葉亜樹がはにかむ。
顔も声も佇まいも、そのどれもが相変わらず女性らしい。
滅多なことを言うと災いだとも思うが、はっきり言って普通の女子よりも可愛い。念を押しておくが双葉亜樹は男だ。
本人にとってその振舞いは全部、素らしい。多様性が認められる昨今、男らしい恰好をしろなんて第三者が言うべきではない。
……だが、距離感だけは気を付けてほしいところだ。
「ところで、本当に髪切ったんだな」
「夏になったら切るよーって、前に教えたのに」
「それはそうだけどさ」
双葉は月夜以上の長髪だった。かなり手入れの行き届いた綺麗な黒髪だったから、男だと知った上で目を奪われる男子が後を絶たない。
かくいう大樹もそのクチだった。
つい、まじまじと見つめてしまう。
「な、なにかな」
「似合ってるな。可愛い」
肩口で揃えられるほど短くなってしまったが、その凄艶さは健在だ。
器用なことに、片側だけ編み込みを作られている。そのせいで余計に小顔が際立って、いよいよ女の子にしか見えない。
気付くと、双葉は顔を赤くして俯いていた。
「か、可愛いとか。すぐそういうことを言う。嬉しいけど、恥ずかしいです」
「ん、悪いな」
「本当に悪いと思ってる? 最近、ぶちょーはボクへの態度が雑な気が……」
「慣れもあるんだろうな」
親睦を深めて半年以上が経つ。部活のチームメイトとしても、友人としても距離感はこれくらいが適切だろう。
ぷくー、と不満そうにほっぺを膨らませる双葉。
なんで一々女の子っぽい仕草を……。
「月夜先輩に言いつけちゃいますから」
「や、やめろ。揉めるから。それは本当にやめてよ。マジで」
誤解が解けた今だから笑い話にできているが、一時期は大樹と双葉がただならぬ関係ではないかと疑われていた。トンチンカンな話だが、月夜は時々アホになってしまうのだ。
終わったことを蒸し返されても困る。
「もう変なこと言わない?」
「ああ、約束するよ」
大樹が胸を叩いてそう言うと、双葉は満面の笑みを浮かべて小指を突き付けてきた。
その小さな体から有無を言わせぬ迫力を感じて、大樹は渋々と自分の小指をそこにからめた。
「ゆーびきーりげんまん、うそついたらはりせんぼんのーますー」
ご機嫌な双葉の歌が教室中に響く。
なんだ、この羞恥プレイは。
しかもそれを、クラスメイトたちが「またやってる」くらいの感覚で眺めているのが納得いかない。いつもやってることだけど。
扉がガラッと引かれて一人の男子生徒が入ってくる。
双葉はそれを見て、そいつのところへパタパタとかけていった。
「あっ、オオカミちゃん、おはよー♡」
「…………」
「なんで無視するのー!?」
「あ? 誰だお前」
「ダレとは!? 双葉亜樹です!」
「冗談言うな。双葉はもっと髪が長い」
「オオカミちゃん、ボクのこと髪の長さでしか覚えてない!?」
コントみたいなやり取りをしてる二人を見て、思わず笑ってしまう。
篠原大樹。大神蓮。双葉亜樹。
二年生のバドミントン部は、偶然にも全員同じクラスに固まっていた。
◇
クラスによって雰囲気が違うだろうが、大樹たちのクラスメイトは昼の時間帯はほとんど教室からいなくなる。残っているのは十人もいない。皆食堂や中庭に行くか、体育館でバスケしているかのどっちかだ。
大樹の気力は底をついていた。学年が上がって勉強についていけなくなることが増えた。隣に座っていた双葉も同じだ。口から精気が抜けている。意外と、双葉は勉強が得意ではないらしい。
ちなみに大神は授業中ずっと寝ていた。学校に来るまで練習をしていたらしい。これで大樹や双葉より成績が良いというのだから、まったく世の中は不平等である。
すっきりとした様子で目覚めた大神が鞄からおにぎりを取り出す。男子の拳よりも一回り大きいサイズが三つ。
大樹と双葉はそれぞれの弁当箱を持って大神を囲う。
「なんで毎回俺の席に群がってくんだ」
「だってオオカミちゃん、一人で食べようとするから。一緒に食べましょ?」
「一人でいい」
大樹たちを無視して勝手に食べ始める大神。
そんな言葉は受け流して、弁当を広げる二人。ここ半年で図太くなったのは間違いない。
大神はこれ以上文句を言ってこない。
邪険な態度だが、なんだかんだこの状況を受け入れてくれているのだ。
「オオカミちゃん、今日も作り過ぎちゃったからあげますね。卵焼きと、アスパラのベーコン巻き♪」
「……おう。さんきゅ」
「いえいえ♪」
単に、双葉の餌付けが功を奏しただけかもしれない。
食事が進み、ある程度場があったまったところで大樹は箸を置いた。意味深に咳払いもしてみる。
「実はさ、今日は真面目な話がしたいと思ってたんだよね」
「なあに?」
指についたソースをちろりと舐めて、双葉が聞いてくる。
大神は無反応。こっちを見るくらいはしてほしい。
「今日はいよいよ、代替わりをしてから初めての部活だ。俺たちが主導になって部を引っ張っていくことになる」
今月の頭に、月夜を含めた三年生たちは引退してしまった。
頼もしい面々がいなくなってしまった上、大樹はなんと部長に任命されてしまった。中学時代の失敗の数々が蘇る。今から重圧で潰れてしまいそうだった。
「先輩たちがいなくなった今、これからの藍咲バド部はどうなっていくと思う? はい、そこの大神くん答えて」
「フットワーク、ノック練習の回転数が増える。今まで以上に体力を求められるだろうが、望むところだ。自由にコートが使えるのはいいな」
「…………まあ、お前はそう言うと思ってたよ」
自分のトレーニング方法にだけ目が行くのは大神らしい。それでは困るのだが。
双葉は苦笑いをしつつも、大樹の意図を察してくれる。
「一年生たちの練習をどうするか、だよね」
「そう、その通り!」
同じ問題意識を持ってくれると、それだけで頼もしい。
「月夜さんがいない現状、一年生———特に未経験者のケアは大事になってくる。その代わりが俺たちに務まるかは分からないけど。二人とも、そのあたりは肝に銘じておいて」
私生活に限らず、部活でも月夜は大樹にとっての支えだった。彼女の献身によって助けられてばかりだ。
それだけに危機感が募っているのだが、どうにも二人はその意識が薄い。
ニマニマと口元を緩めて双葉がからかってくる。
「ボクたちの前だと初めてじゃないですか? 月夜さんって呼ぶの」
「か、関係ないでしょ、その話。付き合って長いんだから今更だって」
「ねね、二人きりのときって何するの? やっぱりそれなりに進んでたり……!?」
黄色い声で騒ぐ双葉に、大神は不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「別に篠原が誰と付き合おうと口出す気はなかったが……それで腑抜けた試合をするようになったらタダじゃおかねえぞ」
「オオカミちゃんの場合は、もう少し咲夜先輩を気にかけてあげてよ……」
その後はどうにも話がそれてしまい、結局部活の方針についてはまたの機会に話し合うことになった。
このパターン、なんとなく分かる。どういう成り行きになるのかが。
大樹はひとつ溜息をこぼした。