「誰かと話すのが、大好き」
「で、俺らを呼んだってわけ?」
「どうせ暇してると思って」
「うっせえわ」
神谷は生意気な後輩女子の頭をぐしゃぐしゃにしてやろうと腕を伸ばした。
が、楓は機敏な動きで飛び退くと、身を低くして頭を守る。
「さーせん。そういうのはちょっと」
「ああ。今は篠原の彼女だもんな?」
「……うっす」
神谷は喉の奥で堪えるように笑う。
ここで楓をからかえば面白い反応を見れると思うが、今日のところはこれくらいで勘弁しておこう。
神谷は目の前のマンションを見上げた。
「すげえところだな。マンションっていうよりホテルみてえだ」
楓が送ってきた住所を頼りにここまでやってきたが、まさかこれが目的地だとは露ほども思わなかった。篠原大樹という男が、それなりの家柄の出身であると勘付いていたが、まさかこれほどとは。
「イイトコ住んでるんだな、篠原の奴」
「でしょー? 羨ましいですよね」
「これは最高のおもてなしを期待していいんだよな?」
「もち~」
期待と興奮が高まってくる。
神谷は後ろで縮こまっている二人を呼ぶ。
「そんなところで固まってないで、早くこっち来いよ」
「いやいや!! やばいってこれは!? 適当な服で来ちゃったのが恥ずかしいんだけど! 場違いじゃない!?」
「わ、私、一応クリスマスケーキを用意してきたけど、受け取ってもらえる……のかな?」
紅葉とかなたの二人はすっかり腰が引けている。
楓や、あの朝日月夜でさえ初見では動揺を隠せなかった。それくらい、この家は庶民的な感覚からはずれている。
物怖じしない神谷の方が異常なのだ。
「いいじゃん、ここは赤の他人の家じゃないんだ。こういう場所に出入りできんのは最初で最後かもしれないし、楽しんでおけばいいんだよ」
「私、神谷くんみたいに図太くなれない」
「中に入ったら外国に売り飛ばされたりしない……?」
二人はいつまでもウジウジとしている。これ以上は時間が勿体ない。
神谷は強引に二人の腕を引っ張って中に入っていく。
「すっげえ。噴水あんじゃん。これもう遊園地じゃね?」
「なんか端っこの方に黒服いるよ!! SPかな!?」
「すごい高そうな絵画やら壺やらがあるんだけど……!」
数々の調度品を眺めながら、大理石張りのエントランスを通り抜けてエレベーターに乗り込む。
この時代にエレベーターガールがいたことに神谷は少なからず驚いた。
「っていうか、肝心の篠原はどうした? なんでお前が案内してる?」
「なんか準備があるからって。多分色々やっててくれるんじゃないですか」
「あの、楓ちゃん。これから篠原くんのお家にお邪魔するわけだよね。ご両親はいるのかな。挨拶しておいた方がいいよね……?」
「大丈夫っすよ。今から行くのはゲストルームなので挨拶は必要なし。……それに大樹のご両親は今頃お楽しみ中だろうからどっちにしろ挨拶なんてできないし」
「げすと……えっ?」
神谷と紅葉はピンときていない様子だったが、かなたは財布を取り出した。
中から万札を何枚か抜き取る。
「こ、これで足りますか。クレジット使えますか。流行りの電子決済でも大丈夫でしょうか……!?」
「あー、私が言うのもなんだけど、多分受け取らないっすよ。だから、かなたさんはそれをしまっておいて」
ゲストルームを借りるのにはお金がかかる、らしい。
そのへんの詳しい事情を神谷は知らない。というか、請求されたとしても困る。今日は無一文でここに来ているのだ。
「さて、ここか?」
エレベーターガールに見送られ、最上階の一室にたどり着いた。
神谷が扉に手をかけると、女性陣三人に肩と腰を掴まれた。
「おい、なんだいきなり。モテ期か?」
「神谷くん、もう少し時間をください。心の準備がまだなので」
「私も」
「私はノリで」
この期に及んで、二人はまだ何か言っている。楓はいい度胸している。
いつぞやの如く、三人の抑えを振り切って神谷は正面突破。
優雅な歓迎を期待していたのだが————
「え、もう来たの!? よ、ようこそ皆さん!」
汗まみれの篠原大樹に出迎えられた。
……気分台無しだ。
◇
「ちょっと、準備というか、セッティングに時間がかかってしまって! あ、全然気にしなくていいですからね。お見苦しいところを見せてます。どうぞ。おくつろぎください」
「おう。そうさせてもらうわ」
「部屋からフロントに電話すれば食事とかも運んでくれるので、好きなものをどうぞ。あ、あとゲームとかカラオケとか用意してくれているので、それもご自由に」
「え、このメニュー全部食べ放題なの!? っていうかなにこの設備の充実度!?」
「はい。遠慮なく。あ、結城先生はお酒とか飲みます? 多分ワインとかもありますよ」
「もういい! もういいって篠原くん! そんなもてなし方されても困るよ!?」
完全に大樹は空回りしていた。
呆れた楓は大樹の頭を思い切りはたく。
「どういうテンションだよ、落ち着けよ」
「大勢を家に招いておもてなしするの初めてで。いや、正確には家ではないけれど。こんな感じで大丈夫かな。不満とかない?」
「一周回って厭味ったらしいわ」
「マジ……!?」
その場でおろおろ。けれどじっと出来なくてうろうろ。
鬱陶しい動きを見せる大樹を、楓はもう一度はたく。
「心配しなくても勝手に楽しんでくれると思うけど?」
楓に諭されて、みんなの方に目を向ける。
三人はふかふかのソファに体を預けて、くつろいでいる。
「決めた。俺は将来金持ちになってこういうところに住む」
「神谷くんがまたバカなこと言ってる。でも、そのときはお邪魔していい?」
「紅葉ちゃんまで何言ってるの、もう。ふふふ」
三人のいつも通りのやり取り。でも、いつも以上に浮かれているのが遠目にも分かる。
「ね?」
「うん。そうみたい」
さっきまでの焦りが引いていく。
少しだけ余裕を取り戻すことができた。
と、思いきや急に楓がぐっと体を寄せてきたので、大樹は再び慌てることになった。
「な、なに、なに。みんな近くいるけどっ?」
「いや。自分で頼んでおいてアレだけど、よく取れたね? ゲストルーム。クリスマスなのに。意外と空室多いの?」
小声で耳打ちしてくる楓。
「そんなことないよ。流石に余裕持って予約入れておかないと確保できないと思う」
「…………え?」
「それより、どうして神谷先輩たちを呼ぼうって思ったの?」
何か聞かれる前に話を変えておく。
「え、嫌だった?」
「そうじゃない。ただ、びっくりしただけ」
「こういうのは大勢の方が楽しいでしょ。久しぶりに皆で集まるのも悪くないし」
「ま、そうだね」
「ん~、なになに? もしかして二人きりになりたかった? うりうり」
「うるさいよ」
楓の頭突きに耐えながら言い返す。
さっきまで二人きりになんてなれない、って強情だったのに。かなた達がやってきた途端この態度だ。全く調子のいい。
……なんだか、誤魔化された感じがする。
楓のことだから、大樹が家族と過ごすことは認めても、さらに知人を呼ぼうという発想にはならないと思っていた。
気が変わって皆とわいわい騒ぎたくなっただけなのか?
「おーい! お前らそんな離れたところでイチャついてないで、こっちで俺らの相手しろよー! 森崎ー! 今日も対戦しようぜ!」
「別にイチャついてないけど、今行きますよー! 今度こそボコボコにしますからねー!」
いつの間に準備していたのか、もうゲームが起動している。
プレイヤーが最大四人で大乱闘するアクションゲームだ。神谷と楓はよくこれでしのぎを削ってきたらしい。
最初は大樹たちも数合わせで参戦していたのだが、如何せん二人のレベルが違い過ぎてすぐに退散。二人が飽きるまで雑談に花を咲かせていた。
小一時間、ぶっ通しでテレビゲームをしていれば、さしもの二人も限界が来るようだった。
「ちょっと休憩したい」
かなたが持ってきてくれたケーキと一緒に、全員に飲み物を用意する。かなたにはお酒も用意していたのだが、普通のソフトドリンクがいいと断られてしまった。
「神谷先輩と紅葉先輩は、卒業後はどうするんですか? 進学だとは思いますけど」
「じゅ、受験のことは忘れさせてくださいな……」
一瞬で紅葉が青ざめた。何気なく振ったつもりの話題だったが、少し後悔した。
今は年末。来月からセンター試験も始まるだろう。受験生にとっては気が休まらない時期だ。
「か、神谷先輩の方は、どうですか」
「さてね。結城さんの通っていた大学に行くのも悪くないと思っているが?」
のんきな、どこか他人事のように聞こえる口振りだ。
紅葉とは対照的に、希望進路すら未定らしい。
ちなみに、かなたが通っていた大学というのは東大のことである。
東京○○大学を省略して、なんちゃって東大なんてオチはない。日本で一番頭の良い大学と言われているあの東大だ。
「全然勉強してないくせに」
「まあ、俺なら大丈夫だろ」
「神谷くんは、それで本当に合格できそうだから余計にムカつく」
「紅葉は紅葉で頑張っている。人と比べてないで、自分の進みたい道を進めばいいだろ」
「……まあ、そうなんだけどさ」
イチゴをフォークで突き刺しながら、むすっとした表情で紅葉が唸る。
————本当に、この二人は別れてしまったのだなと実感する。
以前の神谷なら、紅葉と進学先を合わせていたはずだ。だが、お互いが別々の進路を歩むかのような会話を聞いて、なんとなく寂しく思った。
「神谷先輩と紅葉先輩は卒業か~。あとはかなたさんだけになっちゃうね」
少し先の話だが、三月になれば二人は卒業してしまう。
前部長や前副部長など、他にもお世話になった三年生はいる。春を迎える頃には、彼らは皆この学園を去ってしまうのだ。
関わりが濃かった相手ほど、会えなくなる事実に目を背けたくなる。
卒業まで残りわずかな時間しかないが、もし姫川たちの姿を見たら声をかけておこう。
「……?」
一瞬妙な空気が生まれたのを、大樹は肌で感じ取っていた。
感傷に浸っていたから、最初はそれを気のせいだと思っていた。
だが気のせいなどではなく、神谷と紅葉、それからかなたの三人が不自然に目配せをしていた。どうしたのだろう。
「ところでさ!」
そんな空気を打ち破るように、紅葉が話題を変えてきた。
「お二人は、付き合ってからどんな感じ~?」
「え」
ニマニマ、という表現がふさわしい笑みを浮かべて、紅葉はマイクを向けてくる。ちなみにカラオケ用の本物だ。
「あー、その……」
なんて声も、マイクが音を拾って反響する。ええい、やかましい。
紅葉からマイクを取り上げつつ、なんと答えたものかと迷う。
告白の一件で、大樹と楓が付き合っているの学園でも周知の事実になった。だが、直接そういった話題を振られたことは初めてだ。
しかも困ったことに、存外気分は悪くなく、むしろ自慢したい気分になってしまうのだから不思議だ。
「毎日楽しいです……」
「おお~♪」
訂正。やっぱり恥ずかしい。
「彼氏はこう言ってるけど、森崎の方は?」
「…………別に」
素っ気ない口振りだが、楓も満更じゃない様子だ。その証拠に口角が上がりっぱなしだ。
「思えば、最初は朝日と篠原がくっつくことに何の疑いもなかったのにな。それがどうしてお前らが付き合うことになるんだか」
うんうん、と大樹以外の全員————楓までもが頷いてしまう。
その認識について大樹としてはコメントのしようもない。当時の大樹が聞いても、首を傾げることになるだろう。
「そういえば、もう随分朝日さんと話してないね」
何気ない、かなたの一言。
大樹はどうしてだか、夏の日のことを思い出していた。
ここにいるメンバーに月夜も加えて、一日だけ遊びに出掛けたことがある。
ボウリングをして、水族館に行った。それだけの、たった一日の出来事なのに今でもそのときの写真を見返すときがある。
一瞬の沈黙があった。
多分、みんな同じことを考えている。
「朝日呼ぶか?」
「さんせーい!」
神谷の悪ノリに一瞬で乗っかる楓。
大樹が止める間もなく、月夜に電話がかかってしまう。無情なコール音が鳴り響いた。
『……はい?』
少し警戒した月夜の声。
「つっきー先輩~、今大樹の家にいるんですけど、遊びにきます??」
『行かない』
一言だけ残してプツリと通話が切れる。
楓は懲りずに再ダイヤルをかけていた。
『かけてこないで。迷惑』
「あ、もしもし。俺です。篠原です」
『えっ、篠原くん!?』
楓に代わって大樹が電話に出ると、月夜は素っ頓狂な裏声で驚いていた。
電話の向こうがなんだか騒がしい。誰かと会っているのだろうか。
「すいません、センパイいきなりで。別にからかっているつもりはなかったんです。もし良かったらどうですか? 楓だけじゃなくて、相談室の皆がいるんですけど」
ほとんどダメ元で聞いている自分がいる。
すぐに答えは返ってこなかった。行くかどうかで迷っているのではなく、どう断ろうかで悩んでいるのは大樹にも分かった。
『……ありがとう。せっかくのお誘いだけど今回は遠慮させてもらうわ。翠たちと一緒だから』
「そうですか。楽しんできてください」
『ええ。それじゃあ』
短いやり取りで通話は終わってしまう。
毎年月夜の方から大樹をクリスマスに誘っていたのに、今年は立場が逆転している。二人が同じ時間を過ごせないことだけは、例年通りの結果に終わる。なんとも皮肉なことだった。
「来ないそうです」
「ははっ、振られてやんの。愛想尽かされたか」
「そうみたいですね」
「しゃあねえな。今度は篠原にハンデつけて対戦してやるよ」
「いいですけど、次は別のゲームがいいです」
時間が経つのが、あっという間だった。
食べて飲んで、遊んで騒いで、こんなに楽しい時間はそうそうない。
楓が神谷たちを呼ぶと言い出したときは、正直どうなるかと思ったがこんなことならもっと早く————多くの時間を一緒にしておけばよかった。
「やべー、ねみぃ。帰りたくねえ。俺もうここに住みてえよ」
「ダメだよ、神谷くん。篠原くんに迷惑がかかるし、もう時間も遅いんだから帰る準備して」
ソファに寝転んで動かない神谷を、かなたが叱る。
かなたはコートを羽織り、既に帰宅の準備が整っていた。
「俺よりも、紅葉の方が問題だと思うけど?」
「えっ?」
神谷が指差した先で、紅葉も体を横にしている。
すぴー、と穏やかな寝息が聞こえた。
「ま、まだ十時過ぎですけど!?」
「よく保った方なんだよ、これで。普段は九時五時で寝てるっつてた」
「まんま子供の就寝時間!」
かなたが物凄い勢いで紅葉を揺する。
本人が聞いていたら怒りそうなことを言ってしまっているが、紅葉にはやはり届かない。
それだけ深い眠りについているのだ。
「まあ、終電ギリの時間まで寝せてもいいが……。いざとなったら俺が抱えてでも運ぶよ」
「あの、もしよかったら泊っていきますか……?」
「は?」
大樹の提案に、神谷は目を丸くした。
「このゲストルーム、明日の十時まで使えるので。鍵はそれまでにエントランスに返してくれたら何の問題もないんです」
「マジかよ! まんまホテルじゃん!」
一瞬で神谷は泊ることを決めたらしい。
かなたの手伝いをする素振りすらない。
「え、え、ちょっと神谷くん!?」
「こうなったときの紅葉はマジで起きねえ。下まで運ぶのもタクシーに乗せるのも疲れる。だから俺は諦めるぜ」
「そ、そんなの無責任!」
かなたが神谷を非難するが、本人は浴場を気にしている。
「なあ、篠原。確か脱衣所に洗濯機があったが、あれは乾燥もできるタイプだったな?」
「はい。流石に下着類の用意はないですけど、バスローブなら使って大丈夫ですよ」
「おーし、俺はシャワー浴びてくるぜ」
「ごゆっくり」
軽い足取りで神谷はシャワールームに消えていった。
遅れて、鼻歌まで聞こえてくる。
「まったく、もう。神谷くんは……」
「あ、ははは。すみません。余計なこと言っちゃいました?」
「ううん。篠原くんがいいなら、それでいいよ」
下まで見送ろうと玄関に足を向けた大樹だったが、かなたはそこから動かない。
それどころかコートを脱いで、ハンガーにまでかけてしまう。
「あれ、結城先生?」
「篠原くん……これ、飲んでもいい?」
恥ずかしそうにメニュー表を指差すかなた。
指先はワインの銘柄を示している。
大樹は苦笑し、エントランスへ連絡を入れた。
◇
浴室から戻った神谷は「疲れた~」と言って早々に別室で寝入ってしまった。
他の三人がかりで紅葉を個室に運んで、布団をかけてやる。とりあえずこれで一安心だ。
「篠原くん。それに楓ちゃんも」
広間に戻る途中、かなたが二人を呼び止める。
「少しだけお話をしませんか?」
大樹は楓と顔を見合わせた。
もちろん、断る理由はない。ないのだが……少し身構えてしまう。何か大事な話をするときのような、そういう空気を感じた。
テーブルで向い合せになるように座る。なんだか三者面談みたいな構図だ。
「大丈夫ですか。なんかすごい酔っ払ってるように見えますけど」
そんなに飲んでいないのに、かなたの頬はほんのりと赤い。
「大丈夫。顔には出やすいけど、あまり酔ったことはないの。今も、気持ちいいけど頭は冴えてる感覚があるんだよね」
トントン、と頭を指で叩くかなた。
確かに呂律はしっかりとしている。
「でも、これから喋ることはお酒の力を借りないと、話す勇気が出なくて」
「やばいやばい、怖いって。何喋る気なの」
「別に、大したことではないんだけどね」
言うと、またワインを一口含む。
恍惚とした表情のかなたを見ていると、なんだか美味しそうに見える。成人するまではお預けだが。
「今日は皆と遊べて良かった。もう、こういう時間は二度とないかもしれなくて」
「今生の別れみたいなことを言うんだね、かなたさん。戦場にでも出向くの?」
楓の冗談に、かなたは乗ってこない。ただグラスを傾けるだけだ。
その所作で、楓も茶化す気をなくしたみたいだ。空気が、そういう風に出来上がっている。
前置きはこれくらいだろう。次に口にする言葉は本題に直結するはずだ。
「私————来年には藍咲にいないの」
「…………」
大樹の体は反射的に拒絶を起こした。かなたが言ったことを信じて、認められない。
嘘だと言ってほしい。けれど、かなたは寂しそうな、それでいて穏やかな笑みを浮かべている。どうしようもなく、それが真実だと悟ってしまう。
「……どういう、こと」
楓は言葉を詰まらせる。
「元々、別の学校への転勤する話になっていたんだけど。一度教員の仕事から離れてみるつもりなの」
「先生、辞めちゃうんですか?」
大樹が問うと、かなたはゆっくり頷く。
大樹は口を半開きにして固まった。
「嘘ですよね?」
人は、本当に信じられない現実を見ると何も考えられなくなるらしい。
転勤ならまだしも、かなたが教師でなくなるなんて、到底受け入れられない。
「学年主任みたいな、ああいう教師になりたいんじゃなかったの」
大樹にとっては初耳の話が飛び出してきた。
学年主任はスキンヘッドで強面の大男だ。今ではバドミントン部の顧問になってくれている。
……そういえば忘れていたが、かなたは藍咲の卒業生なのだった。
「センセイに憧れて、先生を目指したの。いつか担任のクラスを持って、立派な教師になるのが夢だった」
「相談室の管理人には飽きちゃったってこと?」
かなたにしてみれば、憧れていた教員の仕事から遠ざけられた形になる。
彼女が藍咲に舞い戻ってきたのは三年前。それだけの月日があれば、考え方が変わっても仕方がない……。
「逆かな」
静かに、短い言葉で否定してくる。
「おかげで、本当にやりたいことがわかったから、感謝してる」
「本当にやりたいこと……? もう大人なのに?」
「あはは、痛いところをついてくるね」
「あ、すみません! そういうつもりじゃなかったんですけど」
大樹は反射的に謝っていた。
けれど、思わず出てしまった言葉は、取り繕わない本音だ。
大樹よりもずっと年上で、大人で、社会人であるかなたが学生みたいなことを言い出すものだから、びっくりしてしまったのだ。
「私、誰かと話すのが大好き」
ふいに、かなたは立ち上がり、窓際に寄って夜の街を眺める。
「あの部屋で、子供たちの相談を受けながら色々な話をして、すごくやりがいを感じたの。あんな風に人から頼られたのが、すごく嬉しかった。私は、もっと多くの人を支えて元気づけてあげられるようになりたい」
「……だったら、スクールカウンセラーでもやってればいいのに」
「今のままじゃ、力不足だから。もっと勉強しなきゃって思って」
「心理学とかそういう系?」
「うーん、どうなんだろう」
「そんな曖昧な……」
楓の声は呆れを含んでいる。そう思うのも仕方ない。かなたが言っていることは、文字通り曖昧で具体性がなく、厳しい見方をすれば考え方が甘い。
けれど初めて、かなたにとっての大切なものが見えた気がする。
いつでもずっとかなたは聞き役に徹して、大樹たちを受け入れてくれていた。
嫌な顔ひとつ見せることなく、献身的に尽くしてくれた。
そんな彼女が、自分の足で夢に向かおうというなら、ここでかなたに送るべき言葉はこうだ。
「すごくいいことだと思います。応援しています」
ぱちぱちと、まばたきを何度も繰り返すかなた。
ようやく大樹の言葉を飲み込むと、彼女は子供みたいな無邪気な笑顔をみせた。
「ありがとう、篠原くん」
「でも惜しいですね。結城先生のこと、もっと色んな人に知ってもらいたかった」
「えへへ、嬉しいことを言ってくれますね」
だが、どうしても聞いておきたいことがある。
「相談室は……どうなりますか」
かなたの表情が曇る。
それだけで答えが分かってしまう。
「なくなっちゃうかもね。後任の話は出ていないから」
藍咲学園には相談室という制度は存在していなかった。
あの教室は、結城かなたがやってきてから用意されていたもの。当然、彼女がいなくなればその役目を終える。
押し黙る二人を見かねたのか、かなたは慌てて付け加えた。
「い、今からでも代わりの人を探します! 学年主任とか!」
一年に満たない短い期間だが、何度も相談室を利用することになった。悩みがあるときでも、そうでないときでも。
あの教室はそれだけ大樹にとって心の拠り所になっていたと気付かされる。
だから、残してくれるというなら願ってもいないことだ。
だが同時に、猛烈な虚しさを覚える。理由は考えるまでもなく明白。
かなたがいなければ意味がない。
誰か別の人がやってきたとしても、あの雰囲気はもう作れない。
「なくなっちゃうなら、それで仕方ないんじゃない?」
楓の物言いには引っかかる部分はあるが、概ね大樹も同意見だ。
「そ、そう?」
「無理して残そうとする意味はないよ。私らはかなたさんがいてくれるから、あそこを使っていただけなんだから。ね? 大樹」
「そうだね。俺も全く同じことを考えていた」
大樹は大きく頷く。
気付けば、かなたは瞳を潤ませている。
「わ、私……あなたたちのことが心配。卒業するまで見ていたかった」
「大袈裟でしょ。子供じゃないんだから。いや、大樹は子供かな?」
「急にディスってくるのやめろ」
くすくすと、かなたが口元を隠して笑う。
「でも正直、篠原くんより楓ちゃんの方が心配だよ」
「は? なんで」
楓は憤慨していた。
大樹より低い評価をされたことが気に入らないらしい。
「だって、つい最近まで篠原くんのことで悩んでるみたいだったし。大丈夫? 恋の相談はいつでも受け付けてるよ?」
言い返せない楓は、何故かとなりに座っている大樹を殴ってきた。
照れ隠しの暴力やめろ。
「そうじゃなくても……お家のこととか」
今度は、当然だが殴ってこない。
それは大樹にとっても懸念事項だ。いつか必ず、向き合わなきゃいけない瞬間が訪れる。
楓がどんな顔をしているか気になって、横目に盗み見てみる。意外にも、澄ました表情だった。
「かなたさん。今も、そんなに私が危なっかしく見える?」
楓が、大樹の手を握ってくる。
その意味を分からないほど、大樹も鈍感ではなかった。その小さな手を、大樹は強く握り返した。
「そっか。楓ちゃんはもう大丈夫だね」
「うん。————あのとき声かけてくれて、ありがと」
なにやら、二人にしか分からない話をしている。
でも、これでかなたの最後の不安も取り除かれたようだ。
「藍咲には三年間いたけど、今年が一番楽しかったかな。みんなでお出かけしたり、バドミントン部の臨時顧問になったり、毎日誰かが相談室に遊びにきてくれたり……。うん。本当に色々なことがあったなあって」
それが、かなたの教員生活の総括だ。
幸せそうな顔を見ていると、こちらの気分まであたたかくなってくる。
「三年…………あ」
大樹の脳裏をかすめていくものがあった。
「このこと、神谷先輩たちは知っているんですか?」
言いながら、大樹は記憶を掘り返す。
楓が卒業式の話をしたとき、神谷たち三人は目配せをしていた。あのときの微妙な空気の感覚……。二人はおそらく、かなたの事情を知っていたのだ。
「タイミングを見てから言うつもりだったんだけど、どこで聞きつけてきたのか、神谷くんにはバレちゃってた。なんでだろうね」
「そりゃ、神谷先輩がずっとかなたさんを見ていたからでしょ。単純な話」
「…………」
ピタリ、とかなたが固まる。
いつまでそうしているのかと思いきや、落ち着きなく髪をいじったり咳払いをしたりと忙しない動きを見せる。何かを誤魔化すように……。
「顔、赤くない?」
「お、お酒のせい!」
「えー、そう?」
「そうです!」
かなたは大きな足音を立てて、テーブルに戻る。
グラスに入っていたワインを一気に飲み干した。
今のは楓の失言だ。完全に余計なことを言った。
「ところで結城先生……終電大丈夫ですか」
まもなく日付が変わろうとしている。
かなたは焦る素振りを見せなかった。
「私も泊っていっていいかな」
驚きはなかった。むしろ納得の気持ちが強い。
お酒を飲みたいと言い出したときから、こうなることは予想していた。
それに……。
「紅葉ちゃんが寝ちゃったから私がついてないと。ほら、神谷くんと二人きりにするのは……ね? よろしくないと思います」
年頃の男女を同じ空間で寝泊まりさせたくない。
かなたはそう言うと思っていた。
ある意味正しい選択ではあるが……。
また、楓は余計なことを言う。
「かなたさんの方が神谷先輩の餌食になりそう感半端ないですけど」
「そんなことにはなりません」
ムキになって言い返してくるが、大樹も正直同感だ。
「今も酔っぱらってるし」
「だから、酔って、なんて……」
言葉が途切れ途切れになる。
急に電池が切れたみたいに、かなたの上半身がふらついた。
ごん! と強い衝撃と一緒に頭をテーブルに打ちつける。
「だ、大丈夫ですか!?」
どうやら酔って目が回っているらしい。
「あー、あー、もう。やっぱり潰れちゃってるし」
「一本も飲み切ってないのにね」
両親はこの程度の量なら酔わないから、かなたも大丈夫だと思っていたのだが。
現実にはこれくらいお酒に弱い人もいるようだ。
「大樹、運んで。いや、やっぱりダメ。どさくさに紛れて変なところ触るかもしれない」
「ものすごい言いがかり。じゃあ楓が一人でなんとかできる?」
「女の子に力仕事させるの? サイテー」
「じゃあどうしたらいいんだよ」
大樹たちがくだらない言い合いをしているその時だった。
「心配ない。俺が運ぶ」
後ろから神谷が突然現れた。
大樹は飛び上がって驚く。最近、予想外のところから誰かが現れることが多い。いい加減抗議したい。心臓に悪いから。
楓は驚いた様子がない。もしかしたら気付いていたのかもしれない。
「盗み聞きはよくないんじゃないっすか」
「そんなことした覚えはない」
「いやいやアンタ前に相談室で隠れて盗み聞きしてたじゃん」
「記憶にねえな」
「政治家みたいな言い訳してる~」
神谷は、かなたの肩を揺する。が、彼女が起きる気配はない。
面倒そうに嘆息した神谷だったが、かなたの頭の後ろとひざの裏に腕を差し込むと軽々と彼女を持ち上げてしまう。
いわゆるお姫様抱っこの形になる。
ひゅー、と口笛を吹いて楓がからかう。
「神谷せんぱーい。私らはそろそろ退散しますけど、かなたさんに変なことしちゃ駄目っすよ?」
「ほざけ、エロガキ」
「……ガキ? 二つしか変わらないのに?」
「引っかかるところ、そこで合ってる?」
もっと気にすべき単語を見落としているような。
神谷はそんな大樹たちを相手にせず、すたすたと奥の部屋に消えていく。
「なあ、今までなんとなく避けてたことなんだけど……神谷先輩、結城先生のこと好きだよね?」
口にするべきではないかもしれないが、確認せずにはいられない。
「じゃない?」
「じゃない、って……。もっと、なんか言うことないの」
「たとえば?」
「教師との恋愛はご法度だー、とか。それから————」
紅葉と別れたばかりなのに、とか。
さすがにこれは口にするのが憚られた。別に神谷は悪いことをしているわけではないのだから。
でも、色々と神谷に聞きたいことや興味が出てきた。こんなに神谷と話してみたいと思ったのは初めてのことだ。多分、今後二度とこういう機会はない。
「やめておきな」
大樹の好奇心を、楓が一刀両断にする。
「楓は気にならない?」
「なるけど……あんまりやると藪蛇かも。神谷先輩怒らせると怖いでしょ?」
「まあ、確かに」
人のことはいじるくせに、いじられるのは嫌いなのだ。あの人は。
楓がそこまで言うなら、余計な詮索はなしにしよう。
ただ……。
「なんか、楓らしくない感じ」
珍しく真っ当なことを言ってのける彼女に、違和感を覚える。
こういうとき、面白がって首を突っ込んでいくのが楓だ。それを大樹が止めて————というのがいつもの流れなのに、今回は立場が逆だ。気持ち悪い。
「そう?」
「何かほかのこと考えてる?」
「えッ」
特に根拠があったわけではない、口をついて出ただけの言葉だった。
だから、意外にも楓の反応が顕著だったことに、大樹の方が驚いた。
「本当にそうだったの?」
「————そりゃあ、そうさ。そうだよ」
唐突に、芝居がかった話し方になる楓。
大袈裟な身振り手振りまで加えるものだから、動きが鬱陶しい。
「夜が深まるほどに、ずっっっっっと気がかりなことがありましたさ」
「はいはい。それは?」
「それは————」
今度は急に真顔。それなのに眼力だけは凄まじい。目を合わせるのが恐い。
さっさと答えを教えてほしいのに、楓は無駄に間を溜める。
「————紗季ちゃんがそろそろ寝たんじゃないかと気になってしょうがない!」
「あ、なるほど」
本当に勿体ぶるほどでもないことだった。