「またお喋りしましょうね!」
その邂逅は、もしかしたら必然だったのかもしれない。
「お?」
「え?」
二人の少女は思わず足を止めてしまった。
本日に終業式を迎えたばかりの藍咲学園の生徒は我先にと帰路につこうとしている。これだけ人の多い中でお互いが、しかも同じタイミングで目を合わせることになるとは誰が予想できるだろう。
森崎楓と朝日月夜。
あの決着の日以来、二人が顔を合わせるのはこれが初めてだった。
「…………」
「…………」
両者の視線が交錯したのはほんの一瞬。その瞬きの中で、二人は多くの感情を交換した。
言葉で形容しきれないほど複雑な想いでも、伝え合うことはできる。それはこの二人だからこそ成立する芸当だった。
月夜は無言で人混みに紛れようとした。顔を見た以上、言葉は必要ない。
しかし楓は人の波をかき分けて、月夜の前に飛び出してきた。そのまま通せんぼをするように両腕を大きく開く。
「つっきー先輩」
「な、なに」
困惑した月夜はその場で立ち尽くす。
楓は強い眼光で月夜を見据えて、言い放つ。
「ワイの勝ち。なんで負けたか、明日までに考えといてください」
「ぶっ飛ばす」
似非関西弁で煽ってきた楓に鮮やかな極め技をかける月夜。
神妙な雰囲気なぞ一瞬で吹き飛び、周囲の喧騒は一層騒がしくなった。
◇
「つっきー先輩おっぱい小さいんで、余計に痛かったですよ」
「もう一回やってあげてもいいのよ」
「私のを分けてあげたいくらいです」
「表に出なさい!」
「もう出てるっす」
場所を移して、二人は特別棟の入り口にある段差で腰かけていた。
少しだけ騒ぎを起こしてしまったが、ここまでくれば誰もやってこないだろう。
「まったく、なんなのあなた。いきなり現れたと思ったら煽ってきて。何がしたいの」
「えー、なんですか、冷たいですね。顔が見えたから声かけただけじゃないですか。それ以上でもそれ以下でもないですよ。それともあれですか。私が大樹と付き合い始めたからそれでマウント取るつもりだと?」
「はあ~……」
月夜は長く重い溜息をこぼした。
出会ったのは偶然としても、元々こういう話を持ちかけるつもりだったのではと思う。以前とは比較できないくらい楓は生き生きとしている。
『聞いて聞いて!! もっと自慢させて!!』
なんていう心の声が駄々洩れなのだ。
出来るだけ早く帰りたい。
「……仲直りしたみたいね」
「あんなの喧嘩でもないですって。ちょっとしたモニタリングです。まあ、あんなことになるとは思ってなかったですけど」
一週間ほど前、中庭である男子による公開告白が起こったらしい。
月夜にとっては興味など湧かない話題に思えたが、その当事者が大樹たちだということを把握してからは色々な人に根掘り葉掘り詳細を聞いて回った。
————朝日さんってこういうのに興味あったんだねー。
クラスメイトにはそんなことを言われてしまう始末。
大樹と楓の話をきいたって、心が傷つくだけ。そんなことは分かり切っていることなのに、それでもやめられないのだから、人の心は複雑だ。
ふと楓に視線を戻すと、彼女はだらしない顔でデレデレしていた。
「満更でもなさそうね」
「自分でもわかってるんですよ。バカみたいに浮かれてるなーって」
「最近べったりね。彼女気取り?」
「彼女です~♪」
横ピースしながら満面の笑み。
憎い恋敵だったけど、今のはちょっと可愛いと思わないでもない。
「クリスマスも近いから楽しみっすよ」
「クリスマス……」
月夜はその単語を小さく呟いた。
もうそんな時期か。そういえばあと二日で聖夜だ。一年の中で最も特別な日といっても過言ではないかもしれない。口ではなんだかんだ言いながらも、この日付を意識しない人なんていない。
ましてや、恋人がいる者なら尚更だ。
「………」
過去に、大樹をクリスマスに誘ったことがある。二回。
そしてその二回とも断られてしまったのを思い出してしまい、月夜はひどく気落ちした。
そんな月夜の様子にまったく気付かず、楓は残酷な質問を投げかける。
「つっきー先輩は浮ついた話ないんすか」
「えっ? ああ、そうね――って、あるわけない!」
楓の声で我に返ってみれば、とんでもないことを聞かれていた。
大樹を巡って争っていたのは、わずか一か月前のこと。こんな短期間で良縁が舞い込むわけもない。
「いやー、朝日月夜なら秒で彼氏くらい作れるじゃん。実際そういう誘いはあったでしょ?」
「何人かはいたけど……」
「ほらぁ。やっぱり」
「でも、そういう気分になれない」
「知ってるっすよ~部活中に大樹の方チラチラ見てるの」
馴れ馴れしく月夜の肩を組み、その頬をつつく楓。
今一瞬、本気で殴り飛ばしたい衝動に襲われた。
名実ともに大樹と付き合っていることになった楓は、ことあるごとにバドミントン部の練習風景を覗いてくる。今や、楓のことを知らない部員はいないほどだ。
そうなると、何故大樹の相手は月夜ではないのかと部員全員に問い詰められた。
そんなのは私の方が知りたい、と言いたい。
調子に乗っているこの小娘を、ぎゃふんと言われることはできないだろうか。
楓の腕を振り払い、月夜は本音を口にした。
「そうね。だって今も好きだもの」
「えっ」
「たまにおへそがチラリと見えるけど、グッと込み上げるものがあるわ」
「変態だぁー! 人の彼氏を変な目で見る先輩がここにいまーす!」
楓の絶叫が木霊になって響く。
幸いなことに、彼女の叫びを耳にした者はいなかった。
今度は楓の方が肩を落とす番だった。
「……まあ、そうですよね。わかってました。お互い、諦め悪いですし」
肩透かしの気分だった。あまりにも楓の物分かりが良いせいで。
でも、不思議なことでもないかもしれない。真逆の結末を迎えていても、楓がおとなしくしているとは思えないからだ。
「怒らないの?」
「まさか。そんな女々しいことしませんよ。無理に気持ちを消す必要なんてないですし」
「……翠と同じことを言ってくれるのね」
「翠先輩?」
「振られたあの日、翠が一緒にいてくれたの」
雨のにおいと肌寒さが蘇ってくる。
大樹の背中を押して、それで月夜は全ての気力を使い果たしていた。
茫然として立ち尽くしていた月夜を最初に見つけてくれたのは親友の翠だった。
————もう、この気持ちはなくさないといけないの。
————別に、好きなままでいいよ。だって三年も好きだったんでしょ?
その言葉に救われたと思っている。
潔く大樹から身を引こうとしていた月夜にとっては、到底受け入れがたい考え方だったのに今はそんな自分でも許すことができる。
翠の言う通り、三年も恋焦がれているのだ。これまで積み重なっていた気持ちをあっさりとリセットなんてできない。
時間がたてば風化していくかもしれないし、逆に再燃するかもしれない。
心はどうなるかわからないから、思うがままに任せている。
「だから油断はしないでね」
月夜が不敵な笑みを浮かべると、楓は顔を引きつらせた。
「やっぱりおとなしくしていてもらえます?」
「私がおとなしくしていても、それで順風満帆になるとは限らない。一か月で別れるカップルなんていくらでもいる」
「お口にチャックしてくださーい」
「付き合ってハッピーエンドなんて創作の中だけよ。むしろそこから始まるのに。そういえばあなた、付き合った経験はあるの?」
「ない、ですけど……」
「————ふ。せいぜい彼に愛想尽かされないように気をつけることね」
月夜は上機嫌になっていた。
楓が恋愛初心者というのは意外だが、嬉しい誤算だ。逆転劇は意外と近いかもしれない。
しかし、ここで言い負かされるだけで終わらないのが楓という女だ。
「偉そうですけど、つっきー先輩こそ今までに誰かと付き合ったことあります?」
月夜は押し黙る。
楓は隙を見逃さず、さらに畳みかけてくる。
「案外、一生独り身だったりして」
「黙りなさい。男性と二人で出掛けたことなら何回もあるわ。私は経験豊富よ」
まあ、全部大樹のことだが……。
「じゃあ意味もなく手を繋いで歩いたことは? 好きだって耳元で言われたり、夜が明けるまで長電話したり、キスしたりは?」
超弩級の連撃をもろに喰らい、月夜は息ができなくなった。
反撃する意思は粉々に砕け、目頭を押さえずにはいられない。
なんで自然な口調でそんなことが言えるんだ。楓には人の心というものがないのか。
「……ぐすっ。ひっく」
「泣いてます?」
これ以上何か言われたら致死量に達する。
それが分かっているのに楓は嗜虐的な笑みを崩さない。むしろ楽しそうだ。中々良い性格の持ち主だった。
「一緒の布団で寝たことは?」
「それはある」
「なんで!?」
「いたずらもされちゃった」
「その話もっと詳しく!」
月夜が自慢げに夏の話をすれば、お返しとばかりに楓が秋の話をする。
こんな寒空の下で一人の男について熱くなる少女たちの姿はいささか滑稽だったが、当の本人たちは何故か幸せそうだった。
時間を忘れて語り合い、陽の光が届かなくなったところでようやく月夜が腰を上げた。
「そろそろ帰る。あなたは?」
「私はこの後で大樹の家にお邪魔する予定です☆」
「……聞かなければよかったわ」
これから二人でナニをするのか想像して慌てて頭を振る。
どうにも自分は思春期の真っただ中にいるらしい。早く卒業したい。
早足にその場を歩き去ろうとすると、後ろから大きな声がかかる。
「月夜先輩!」
楓が、月夜の名を呼ぶ。
振り返らざるをえない。楓は幼い笑みで手を振る。
「またお喋りしましょうね!」
「っ!」
本当に困った恋敵だ。
こらえようと思ったのに、口の端が緩んでしまう。
慣れないくせに月夜も負けじと大声を張り上げる。
「ひとつ、年上からのアドバイスをしておくわ!」
「へ?」
「イヴはお家デートをプランしておきなさい!」
「そ、それってどういう————」
月夜は答えぬまま背を向けた。
さんざん煽ってくれた仕返しだ。せいぜい頭を悩ませるといい。
楓が色々と喚いているけど、今度は振り返らない。月夜は歩調を乱さないで前を見据える。
————完全に油断していたせいかもしれない。
抜き足差し足で、音もなく忍び寄ってくる存在がいることに気付けなかった。
「えい」
「きゃあ!?」
スカートが思いっ切りめくれ上がった。
冷たい冬の風が太ももを撫でる。月夜は反射的に座り込んだ。
「わ、女の子らしい反応」
「な、ななな、何するの楓!? 誰かに見られたらどうする気!?」
「いやいや変な伏線だけ張って消えようとしないでくださいよ。そういうフィクション的演出してないでちゃんと全部喋ってイタタタタタ!!」
「わかったからもっと穏やかに止めなさい! なんで一々あなたは過激なの!」
楓の両こめかみを掴むアイアンクローが炸裂。相当痛いはずなのに楓はへらへらとしていて、それが月夜の神経を逆撫でする。さらに力を込めるとさすがの楓も音を上げた。
私たちの関係性は、いつまでもこんな感じなのかもしれない……。
◇
同時刻。
帰宅した大樹はその違和感に眉をひそめた。
「……?」
いつも通りの我が家のはずだ。変わったところはない。だが、魚の小骨が引っかかった時のような落ち着かなさが拭えないのだ。
「ただいま、母さん」
「おかえりなさい、大ちゃん」
リビングの母もいつも通りだ。ソファに体を預けて紅茶を楽しんでいる。
やはり気のせいだろう。大樹はそのまま自室に入った。夕方には楓がやってくる。少しくらい掃除をしておいたほうが賢明だろう。
暗闇の中、手探りで明かりのスイッチを見つけてそれを押す。
目の前で女の人が正座をしていた。
「うわあ!?」
比喩表現なしに大樹は飛び上がった。
暗闇の中からいきなり人が現れたのだから当然の反応である。
そしてその人物の顔を見て、さらに驚愕し、そして困惑した。
「……え。ええ?」
髪型が変わっているが見間違えようもない。
そこに座っているだけなのに圧倒されそうなほど強い存在感。鋭い眼光は大樹を萎縮させるが、同時に愛らしさを覚える。目つきが楓にそっくりだからだ。
彼女は折り目正しく、綺麗に頭をさげた。
「お邪魔しています。久しぶりね、篠原大樹くん」
再び顔を上げた時————森崎奏はにこりとも笑っていなかった。