「ずっと、感謝を伝えたかったんだ」
休日明けの月曜日、その放課後のこと。
大樹は一人の女子生徒に声をかけた。
「委員長。ちょっと話したいことがあるんだけど、いいかな」
日誌を書いていた委員長が顔を上げる。
何故まだ残っているのだ、とその瞳が問いかけてくる。授業が全て終わった今、教室には二人以外の姿はない。
「こんなところにいないで、愛しの彼女のところにでも行ってきなよ」
「今日は用事があるってさ」
「ええ? もう振られちゃったの? カワイソー! せっかく付き合えたのに」
意地悪い笑みを浮かべて委員長がからかってくる。
あの日の大樹と楓のことが少しだけ話題になったようだ。休日を挟んだせいなのか、瞬く間に噂が広がって、今日学校についたときには学内のかなりの人数に知られている状況だった。
色々と質問攻めにされることを覚悟していたのだが、拍子抜けなことに誰もその話題で話しかけてくることはなかった。
かたや成績は優秀だがクラスの問題児。かたや無名の陰キャラ。
あまりにも意外な組み合わせに、ほとんど皆信じられないといったリアクションだった。
「なんだか監視されているみたいで疲れちゃったよ。すごい視線感じた」
「でも、多分みんなそろそろ受け入れ始めると思うよ。仲睦まじい姿も見せてもらったことだしね~?」
「……まあね」
今日は楓と二人で昼食をとったのだが————いやこの話はやめておこう。
「委員長にはお礼を言っておきたくてさ」
大樹は懐からカフェオレを取り出して、彼女の机に置いた。感謝の印だ。
それまで楽しそうだった表情から一転、委員長は不思議そうに首を傾げた。
「何のことかわからないんだけど?」
「いやいや、とぼけなくていいから。委員長は一枚噛んでるでしょ?」
鎌をかけているわけではない。
大樹が確信を持っているのを見て、委員長は観念したみたいだ。
「なんだ、下手な演技させないでよ。森崎さんから聞いたの? 口止めしたはずなんだけどな」
「いや。楓には気付いていないフリをしようかと思う。ただ答え合わせはしておきたくてね」
「彼女想いだね」
「そんなんじゃないよ」
苦笑しながら、委員長の前の席を借りる。
委員長はペンを置いて、無言のまま腕を組んだ。口角が上がっている。
大樹も自分で心が浮きだっているのがわかる。楓との関係が修復したから、すこぶる機嫌が良いのだ。
「三日前、楓と委員長が一緒に帰った日があったでしょ。あのタイミングで色々仕込んだんだよね?」
「普通に森崎さんと遊んだだけとは思わなかったの?」
「いやあ、やっぱりタイミングが絶妙すぎて。楓もはぐらかしてきたけど、何かあったのはバレバレだったかな。こんな計画を仕掛けてくるとは思わなかったけど」
「意外と鋭いね、篠原くん。探偵にでもなった方がいいんじゃない?」
「そう言う委員長は、まるで犯人みたいな言い訳だね」
彼女は喉の奥で笑う。
「まさかもう付き合ってたとはね。それならそうと教えなさいよ。変に心配しちゃったじゃない」
「ごめん。それこそ口止めされていたから」
「体育祭のときは覗き見しているような男だったのにね」
「それは言わない約束でしょ」
あのときのことは委員長だって同罪だ。
ただ、彼女にとっては衝撃的な事実の連続だったに違いない。どれくらい驚いたのか確認できないのが残念だ。
「あのニセ告白は誰の発想だったの?」
「言い出しっぺは私だけど、冗談のつもりだったんだよ。でも森崎さんが乗り気になっちゃって。それで山崎くん————あれ、関口くんだっけ? 彼に白羽の矢が立ったわけなのです」
「山口太郎ね。まさか太郎くんを巻き込んでくるとは思わなかったよ。彼も災難だね……」
ただ、キャスティングは失敗だと思う。
太郎が楓に告白だなんて、天地がひっくり返ってもありえない。彼の場合、ひっくり返すなら反旗の方だろう。
「彼って何なの? なんか森崎さんの手下というか、奴隷っぽい人だったけど。何の説明もなしに呼び出されて事情を何一つ把握してなかったよ」
「俺の口からは何も否定してあげられないよ……」
委員長はそれ以上、何も聞いてはこなかった。
彼のことは初対面のときこそ嫌いだったが、今では同情の念しか抱けない。彼は楓の言うことには一切逆らえないのだ。そのうちやめさせたいと思う。
「まあ、とにかく。本当、色々とありがとう」
「知らなかった? 私は結構面倒見がいいんだよ。クラスのことを想えば、これくらいお安い御用よ。まあ、正直楽しかったっていうのが本音かな。いいもの見させてもらったし」
彼女は小さく舌を出した。不覚にも可愛いと思ってしまったのは秘密だ。
だが転じて、彼女はこちらを責めるような目を向けてくる。
「でも森崎さんを不安がらせたのはいただけないかな」
「……俺たちが妙な感じになってたこと?」
「うん。すごく気にしていたよ。泣きそうになりながら相談されたんだから」
「————」
頭を強く殴られたような衝撃に何も言えなくなってしまう。
大樹にそういうところを見せなかったのは、楓なりの意地だったのかもしれない。
「今後は気を付ける」
「そう。そうしたらさっさと彼女さんのところに行ってきなさいな。あんまり一緒にいると森崎さん嫉妬しちゃうだろうし」
委員長はペンを取り、再び日誌を書き始める。
だが、大樹はその場を動かない。いつまでもそうしているものだから、努めて無視しようとしていた委員長は顔を上げてしまう。
「ねえ。さっきから何をしているの」
「あのときもそうやって助けてくれたの?」
委員長の表情が凍った。
構わずに大樹は続けた。
「本当はこうお礼を言いたかったんだ。手紙を拾ってくれてありがとうって」
先刻と比べ物にならないほどの動揺を見せる。
真顔のまま、彼女は弁明をしようと頭を巡らせたようだが————その反応が全てを物語っている。言い逃れはできないと悟ったのだろう。
彼女は声を震わせる。
「ど、どうして……」
「委員長と話してみて、やっぱりそうかもって。だって委員長は面倒見が良くて、クラス想いなんでしょ?」
彼女の言葉を借りればそういうことだ。
最初は薄い根拠に基づいた直感でしかなかった。
第三者が楓の手紙を拾い上げて大樹の机に置くとして、それを可能にするのは座席を把握しているクラスメイトだけ。さらにその上で当時の大樹と楓の関係性を知っていた人物。
大樹の知る限り、該当するのは一名だけだった。
でもそれを結論にするには、大樹はその人のことを知らなすぎた。
「でも、うん。やっぱり委員長だったんだね」
「こ、このこと……森崎さんは」
「露ほども思い至ってないだろうね。もし気付いていたら問い質さないはずがないから」
「そ、そう」
委員長は心底安心したみたいで、重い溜息を吐いた。
「どうしてそこまで、気にかけてくれたの」
純粋な疑問をぶつけてみる。
委員長とはただのクラスメイトでしかない。楓にとってもそうだろう。顔を合わせれば会話はするし、学校生活をする上で協力しなきゃいけないなら勿論そうする。
でも、それだけでしかない。
友人とも呼べない大樹と楓のために、何故そこまでできたのか。
今日はそれを聞きたかったのだ。
「何か、すごいエピソードでも期待されてるの? 昔の失敗でカップルを別れさせちゃったとか。はたまたクラスでのいじめを止められなかったとか」
「……違うの?」
「簡単な話よ。————あんなの読んじゃったら、何もしないなんて出来ないもの」
委員長が窓の外を——いや、教室の隅にあるゴミ箱を見つめた。
それだけの仕草でわかる。彼女はその瞳に過去を映している。
「あの日さ、森崎さんを見かけたのは偶然だったんだよ」
許しを請うような語り口だった。
「雨が降りそうだったから、折り畳み傘を取りに戻ったらさ。森崎さんがすごい思いつめた表情で教室にいたの」
咄嗟に、委員長は教室に入るのを躊躇ってその場に留まったという。
じっと楓の姿を見守っていると鞄から何かを取り出したそうだ。
「泣きそうな顔で手紙をくしゃくしゃにして捨てた後、森崎さんは教室を出ていったんだけど、私には気付かなかったみたい」
委員長は導かれるように楓が立っていた場所に歩を進めた。
そこで手紙に気付き、思わず読んでしまったのだ。
「このままじゃダメだと思ったんだよ」
事情を知っていた委員長だったからこそ、気を回すことができたのだろう。
折り目だらけの便箋は、必死にのばして直そうとした痕跡が見られた。委員長のそういう姿を想像すると胸があたたかかった。
「森崎さん、すごく可愛いね。全然知らなかったよ」
その通り。楓は可愛い。
これからは、それを堂々と自慢できる。
「ずっと、感謝を伝えたかったんだ」
大樹は深々と頭を下げた。
「ありがとう。委員長がいなかったら、楓と付き合えてなかったかもしれない。あの手紙を読んだから、楓を追いかけることができた。大袈裟じゃなく、委員長は俺たちのキューピッドだよ」
「に、似合わねえー! なんか鳥肌立ってきたぁ!」
本当にむず痒そうにしているので、あんまり言うのは自重しよう。
でも、感謝でいっぱいなのは本当だ。
そんな大樹の気持ちが伝わっているからなのか、委員長は照れくさそうに顔を隠す。
「来年、生徒会に入ろうと思うの。感謝してるなら、私に投票しなさい」
「任せておいて。二票は確実だから」
「少ないわよ」
文句を言っていたけれど、嬉しそうに委員長は笑っていた。