「もう一声」
珍しくテレビを見ていた。
有名な番組で、一人の若者が屋上から愛を叫ぶというものだ。想いが通じるときもあるし、そうじゃないこともある。
恥ずかしくないのかな。度胸あるなー。
以前は一歩引いたところから、ある意味感心するだけにとどまっていたが今では違う印象を受ける。
この人たちは、自分のしたいこと、やりたいことに正直なだけなんだ。
だから、周りから醒めた目で見られても気にしない。むしろ堂々としている。
「こういう図太さは大事だよな」
日付が変わる時間に近づいたところで、大樹はベッドに潜り込んだ。
数秒としないうちに眠りにつく。夢の中に楓が出てきた。彼女の手を握って、ゆっくりと静かな町を歩く。いつになく穏やかな笑みを浮かべている楓はやはり可愛い。そうだ、こういう顔をしていてほしいんだ。
きっと、そうするのは簡単なはずだ。
◇
「お、おっす。楓……」
ちょっと挙動不審になりながら楓と待ち合わせをした。昨日ぶりのくせにひどく緊張するのは、これから勝負を仕掛けようとしているからだろうか。
「う、うん。おはよう」
「ん?」
ただ、楓の様子の方がよっぽどおかしかった。
落ち着きがないというか、そわそわとした雰囲気を感じる。誰もいないのに人目を気にしていた。
「楓?」
「な、なに。大樹」
あんなに頑として名前を呼ばないでいたくせに、うっかりそれを忘れてしまっているツメの甘さだ。わざわざ指摘はしない。そのまま気付かないままでいてほしい。
「いや、なんでもないよ」
「そう」
無言で駅に向かうのも恒例になってきたけれど、今日の楓の雰囲気にあてられたせいか大樹まで落ち着かない気分になってきた。
寒さとは別の理由で体がぶるぶると震えてきた。
え、え、なにこれ。どうした……?
これからテストでも控えているのではないかと感じさせる緊張感。当然、試験期間は終わったばかりだし、小テストがあるわけでもない。
シンプルに聞いたとしても答えてくれないだろうが、さすがに心配する気持ちの方が勝ってきた。
「楓————」
名前を呼んだところで、大樹は月夜の姿を見つけた。
彼女も、大樹に気付いたらしい。
しばしお互いに硬直したまま見つめ合ってしまう。
以前だったら、月夜が素知らぬ振りを決め込んでしまうこの状況。月夜は柔らかく微笑むと、遠慮がちに手をあげてきた。
思わず苦笑してしまう。同時に込み上げてくる嬉しさを噛み締めた。
大樹も手を振ったところで、はたと気付く。楓に見られると都合が悪い。
おそるおそる、ロボットみたいな動きで楓の様子を窺う。しかし心配は杞憂に終わった。
楓は一切、こちらのやり取りに気付いていなかった。
◇
楓を気にかけつつ迎えた昼休み。
それは起こった。
珍しく楓が教室に残っていたので声をかけようと立ち上がったのだが、ある人物が現れるのが見えた。
小柄な体躯に派手な眼鏡が光る。神経質そうな顔つきが懐かしく思える。
山口太郎。文化祭のとき大樹や楓と同じく実行委員に所属していた男子生徒だ。
彼は教室の中を見渡して、楓の姿を見つけると————引きつった笑みを浮かべて近づいてきた。
「森崎……ちょっといいか」
「わかった」
突然の呼び出しなのに、楓は疑問を持つことなく太郎についていく。
何か約束をしていたのだろうか。
もやっとしたものを感じながら二人の後ろ姿を追っていると、教室を出る直前で楓がふいに振り返った。
バッチリと目が合ったのが恥ずかしくて、瞬間的に顔をそむける。
もう一度視線を戻したときには楓たちはいなくなっていた。
「……ねえ、篠原くん。さっき森崎さんが別クラスの男子と一緒にどこか行っちゃったんだけど」
自分の席に座ったままの大樹に声をかけてきたのは委員長だった。
彼女も楓たちのことを見ていたようだ。
「うん。それが?」
大樹が聞き返すと、委員長は何故かちょっと怒ったような顔で溜息をついた。
「あれ。告白とかだと思うけど?」
「えッ」
喉の奥が詰まって変な声になってしまった。
冷静になって考えてみる。結論が出る。
「いや、それはあり得ないよ。だってあの太郎くんだよ?」
大樹は笑い飛ばした。
文化祭のとき、楓は彼のことを馬車馬の如く扱って、山口自身そのことに腹を立てていた。まあ、あまりにも楓が恐いものだから一切逆らえていなかったようだが……。
上下関係や苦手意識は生まれても、恋愛感情なんて生まれるはずない。
「だから大丈夫だよ」
と伝えてみたのだが、委員長の顔は晴れない。
「いいの?」
とだけ問いかけてくる。
「いや、だからさ——」
もう一度説明しようとしたところで、言葉が出てこなくなる。
委員長の瞳は、まるで大樹を試しているみたいだった。
歯車がカチッと噛み合う音が頭の中に響いた。
「よくは……ないね」
考えを改めて、大樹は立ち上がる。椅子が倒れそうになった。
委員長に訊ねる。
「どっちの方かな」
彼女が指差した方向へ歩き出す。最初は小走り程度だったそれが、次第に抑えがきかなくなっていく。
そんなに遠いところまでは行ってないはず。
これは希望的観測だが、人目につきやすいところにいるのではないだろうか。
案の定というべきなのか、中庭で楓と太郎の二人を見つけることが出来た。
ちょっと予想外だったのは、二人のただならぬ雰囲気にあてられたのか、ギャラリーの数が増えてしまっていることくらい。
……あれの中に割って入っていかなきゃいけないのか。
はっきり言って腰が引ける。
心なしか、その中心にいる楓たちも表情は硬い。
だが、楓が大樹の姿を捉えた瞬間、花が咲いたみたいにその顔が綻ぶ。可愛い。こんなこと考えている場合じゃないけれど、可愛い。
楓が太郎に目配せをした。
「……森崎。ずっと言いたいことがあったんだ」
「なんだよタロー。いきなりこんなところに呼び出して何のつもり!?」
楓の声がわざとらしく響く。太郎にというより、その周りにいる人たちに聞きやすいようにしているみたいだった。
「え、なにしてるの!?」
大樹は駆け出した。まだどうやって止めるかを考えていないのに。
太郎も狼狽していた。
「おい、森崎。声がちょっと大きすぎ————」
「言いたいことがあるならはっきりしなさい!」
嬉々として楓が太郎に詰め寄る。首を絞める勢いで。というか実際に絞めている。太郎の首から上が死人のように青褪めていく。
慌てて二人を引き剥がそうとするが、中々離れない。
「楓やめて! 太郎くん死んじゃうよ!?」
「おや!? 君はクラスメイトの篠原大樹くんじゃあないの!? 悪いんだけど、ただのクラスメイト君は私の邪魔しないでもらえる!?」
段々と楓の言動が滅茶苦茶になってきているが、本人はすこぶる楽しそうだ。
加えて、しれっと大樹のフルネームを叫びやがった。ここにいる全ての人に名前を知られてしまったことになる。
もう後に引けない。
「ああっ、もう!」
やけくそになった大樹は強引に楓と太郎を引き離す。
その際、狙っていたわけではなかったが楓を抱きしめるような体勢になってしまった。さっきまであれだけ威勢よく声を張り上げていたくせに、楓は腕の中で急におとなしくなった。
「この人、俺の彼女だから!!」
勢い任せに叫ぶ。
成り行きを見守っていたギャラリーが騒然とし始めたが、気にしている余裕はない。
「そういうわけで太郎くんは諦めて!! じゃあね!!」
未だに目を回している太郎にちゃんと聞こえているかは定かではない。
彼の容態を心配する時間も惜しく、大樹は楓を連れてその場を離れた。どこか人がいない場所を探して校内をさまよい続け、特別棟の入り口にたどり着いたところで彼女の手を離した。
「これで満足なの、楓? ……楓?」
「————はっ」
ぽーっと赤い顔で惚けていた楓が、ようやく我に返る。
大樹から離れて、手をぶんぶんと振る。
「ちょっと待って。今、頭の中を整理中」
「あ、うん」
「ふーっ……」
深呼吸をして落ち着こうとしているみたいだが頬の赤みは全然引いていない。
大樹も、先ほどの自分の振舞いを思い出して恥ずかしくなってきた。
「満足って何が? というか、さっきの何? 篠原くん」
この期に及んで茶番を続けるらしい。
どういう切り返しをするか悩んだのは一瞬だけだった。
「だって、事実だから。楓は俺の彼女。それを皆に知ってもらいたかった」
それは楓にとって予想外の返答だったのだろう。あわあわと狼狽する大樹の姿を期待していたのかもしれない。
カウンターを喰らった楓は可哀そうになるくらい赤面していて、顔を見られたくないのか背を向けてしまう。いじめたくなってくる。
大樹は両腕を広げて、楓を後ろから抱きしめた。
「わ、わ、わあっ!? なになに!? なんで急にそんな大胆なの!?」
「……本当は、俺もこういうことがしたかった」
こういう風に触れてしまうことは、どこか品のない行いのように思えて。
いくら彼女とはいえ、本音を見せるのは気恥ずかしくて。
でもそうやって変な遠慮を見せたせいで、楓をがっかりさせてしまったのだ。
「ちょっとだけこうさせて」
「あ、は、はい……」
消え入りそうな声だが楓はそう頷いた。
二人はそうして、しばらく時間を忘れていた。
予鈴が鳴ったことでようやく我に返る。しまった長居し過ぎた。
「そろそろ戻ろう」
「——もう一声」
「ん?」
楓は大樹の腕の中でくるりと回った。
「これは咲夜先輩から聞いたことなんだけど」
「咲夜先輩?」
意外な名前が飛び出してきて、オウム返しにたずねてしまう。
「彼女ができたら毎日キスしたいって」
むせた。
大樹の脳裏に、一か月前の記憶が蘇ってきた。確かに咲夜とそんな話をした気がする。恋人が出来たら何をしたいか——そんな恥ずかしい話題だった。
「嘘なの?」
楓の瞳が不安に揺れる。
これに抗うのは無理だ。というかその必要もない。
唾を飲み込む。こんな、お決まりな反応をしてしまうとは。
自分から言い出したくせに、大樹が少し顔を近づけただけで楓は身体を固くした。
こういうとき、いつもの楓はむしろ堂々とした態度を見せる。照れる大樹を不敵な笑みを浮かべながらからかうのだ。
なのに、今は————
目をぎゅっと瞑って、爪先立ちになって大樹を迎え入れようとしている。
楓らしからぬその仕草が、大樹の心をかき乱す。
強く楓を抱きしめる。一瞬だけ唇を触れ合わせて大樹はすぐに離れた。
ほんの数秒の出来事だったのに、二人とも息も絶え絶えになっていた。
「あれれぇ? もう終わり?」
「ここじゃ落ち着かないから」
「このいくじなし」
「そっちだって、いっぱいいっぱいのくせに」
すたすたと早足で歩き始めると、楓は小走りで追いかけてきて大樹の手を掴む。
わざわざ、全部の指を絡ませるようなことをして。
「じゃあ、これは?」
「これくらいなら、まあ、平気」
「か~わ~い~い~!」
「茶化すなし」
いつもの軽口。いつもの言葉遊び。
それでも以前より楓との仲が深くなっているのを、手の平に伝わる熱が教えてくれていた。