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「恋人がいるのよ」


「おはよう」


「……おはよう」


 今日も今日とて、駅で楓と待ち合わせだ。

 挨拶以外の会話はない。話しかけても意図的に無視されてしまうのは確認済みだ。嫌というほどに。

 昨日まではそんな楓の態度にハラハラしてしまっていたが、もうそんなことで取り乱さないようにしている。



『わざわざ一緒に登下校しようってことになってるんだから、楓ちゃんは篠原くんのこと嫌ってないよ。大丈夫だから』



 かなたはそう言っていた。

 確かに、嫌いな相手と一緒にいようとする人はいない。まだ多少の不安は残っているが、かなたを信じてマイナス思考は頭の隅に追いやる。



『けど、三日もその調子なのは怖いね』



 紅葉の言うことはもっともだ。楓は中々に強情で、時間が経てば彼女の方が根負けしてくれるなんて考えるのは楽観的すぎる。

 楓の求めていることを的確に把握することでしか、この問題は解決しない。



『心当たりがあるって顔だな』



 相変わらず、神谷は鋭すぎて嫌になる。

 楓が何をしてほしいのか、大樹にはおおよその見当がついている。ただ、それをどうやって伝えようかが悩ましい。


 ——たとえば手を繋いでみるとか?


 楓は大樹の挙動に気付いていない。こちらには一切目もくれないまま、スマホをいじっている。今がチャンスだろうか。

 不審がられない程度に周囲を見渡す。人は多いがこちらに注目している人なんていない。


 深く息を吸い込み、そして吐き出す。

 試合に臨むときのような緊張感と集中力を発揮する。あたりから音が消え、視界で捉えているものは楓の右手だけになる。


 素早く、大樹は自分の左手を伸ばす。

 だが、大樹は何も掴むことができず、虚空を切るだけとなった。

 よろけて、たたらを踏む。


「え、え? なに? なんで何もないところで転びそうになってるの?」


 数日ぶりに、感情的な部分を露わにした楓。

 その表情は困惑と警戒の色で染まっていた。

 いつの間にかホームには電車が停まっている。大樹が楓の手を握れなかったのは、単純に楓が電車に乗り込もうとしていたからだった。


「あ、う、うん。ちょっと、ね……」


「恥ずかしいからちゃんとして」


 なんだか大人に注意されたみたいなバツの悪さを感じる。

 楓のあとに続くようにして車内に乗り込む。朝の早い時間だが座席は転々と空いている。二人並んで座れそうにはないが……。


「座らないの?」


「………」


 安定の無反応。なんならイヤホンまでつけてしまう。思わず大きなため息がこぼれた。

 仕方なく吊革につかまって広告を眺めた。有名人のスキャンダル記事とか、今度発売される新作ゲームとか、株の運用を語った本が紹介されている。どれも興味なかった。


 ——まもなく、発車いたします。黄色い線の内側で……。


 ドアが閉まる直前のことだった。誰かが素早く車両に乗り込んできた。

 駆け込み乗車なんて褒められた行為ではないが、それを咎める者はいない。



 誰もが彼女の姿に見惚れてしまっていたからだ。



 乱れた前髪を直し、胸に手を当てながら息を整える。彼女の一挙手一投足に、皆自分で気付かぬまま目を奪われている。

 多くの視線が自分に集まっていることを感じて、朝日月夜は顔を上げる。

 それを合図に皆素知らぬ顔に戻った。


 大樹もそれに倣うべきだった。けれど、彼は月夜を見つめ続けた。

 月夜と目が合う。彼女は大樹とその隣にいる楓の姿を認めると、そそくさと別の車両に移動してしまった。


「………」


 またか。


 さっきとは別の理由でため息がこぼれた。



「篠原。お前それ真面目にやってるのか」


 静かな声で、相棒の叱責が飛んできた。

 ここで返答を間違えると本気で怒鳴られてしまう。


「ごめん。ちょっと水飲んでくる」


「そうしろ」


 コートから出た大樹はバッグから水筒を取り出して、それを傾ける。いつまでたっても水が出てこないことに気付いて、慌てて外の自販機にダッシュした。


 気になることが一つでもあると集中力を欠いてしまうのは大樹の悪い癖だった。


 結局、楓との距離感をつかめないまま部活の時間になってしまった。想像したくないが、このままこじれて別れてしまうなんてこともあり得る……のではないか?


「テンション下がるわ」


 項垂れて自販機に寄り掛かってみても、気分が晴れることはない。

 火照った体に夜風が気持ちいい。少ししたら戻ろう。体を硬まったらまた大神に怒られてしまう。


「篠原」


 突如として現れたのは先輩の咲夜だ。

 軽く頭を下げる。


「あ、咲夜先輩。お疲れ様です」


「買わないならどいて」


 すごすごと横にスライドして、大樹は気まずげに虚空を見つめた。

 咲夜は自販機前で何を買うか迷っていた様子だったが、やがてガコンという音がして彼女は身を屈める。スポーツ飲料水が出てきた。

 そのまま飲むのかと思いきや、それを大樹の肩に押し付けてくる。


「ん」


「え?」


「やる」


 大樹は面食らった。飲料水と咲夜を交互に見やる。

 信じられないようなものを見た気分だ。


「後輩を気遣ってるだけだ」


 咲夜に気遣われるなど初めてのことだ。

 絶対何か裏がある。

 そして閃いた。


「すみません、俺が大神を独り占めしているばっかりに……。咲夜先輩、全然話せないですよね」


 咲夜の想い人は、大樹の相棒のことなのだ。必然、大樹と話している時間が多くなる。遠回しにその文句を言いにきたのだろう。


 これは脅しだ。賄賂だ。


「すぐにダブルス練習終わらせるんで、ちょっと待ってください」


「なんでお前らはそんなにあたしを煽ってくんの? ああ?」


「お前ら?」


「気にすんな。忘れろ」


 忘れろと言われて忘れられるほど単純な頭をしていない。

 だが大樹がそれを追求するよりも前に、咲夜が口を開いた。


「お前が付き合ってんの、楓なんだって?」


 危うくドリンクを噴き出しそうになった。動揺したせいで気管の方に回ったのか大樹は胸を押さえて咳き込んだ。


「ど、どうして、それを」


「本人から聞いた」


「自分で言い触らしてるんですか!?」


 恥ずかしいから隠そうとかなんとか言っていたくせに他人に思いっきり話しているではないか。一体何がしたいんだ、楓は。

 しかし、これはチャンスではないだろうか。


「楓から……何か聞いてます?」


 状況を逆転させるヒントが得られるかもしれない。藁にもすがるような気持ちで咲夜に探りを入れてみる。


 咲夜はもどかしそうに口元をもごもごとさせていた。


「なんですか。その、言うに言えないみたいな顔は」


「それだけ的確な指摘ができるなら早く答えにたどりついてくれ」


 この話は終わりだと言わんばかりに打ち切ってくる。仕方ない。元より、この件は自分でなんとかしなければならないものだ。


 それよりも————先ほどから背中に突き刺さる視線が痛い。


「篠原、気付いてるか」


「ええ。もちろん……」


 ほんの一瞬だけ後方を確認する。物陰に身を隠しているが、存在感を全然消せていない。朝日月夜はどこにいても目立つ。

 彼女は大樹たちのことを食い入るように凝視していた。目が怖い。一歩間違えればストーカーのようだ。


 あの人まで一体何をしているのだ……。


「そこで何してんだよ、月夜」


 咲夜の声に月夜はびくっと体を飛び上がらせて、すっと隠れてしまった。

 数秒後、おそるおそる顔を出した月夜は手招きをする。

 咲夜と顔を見合わせつつ、二人で立ち上がるとやっぱり月夜は逃げてしまう。


「呼ばれているのはあたしだと思う」


 そう言って、咲夜だけが月夜のもとへ。

 あまり距離が離れていないせいで話し声は丸聞こえだった。


「篠原くんと……何を喋っているの?」


「別に。ただの世間話」


「本当に?」


「あのさ、何を疑ってんの。ありえないでしょ」


「だって咲夜、今日ずっと篠原くんのことばっかり見ていた。いつもは大神くんを見てるくせに」


「黙れ」


 咲夜の大振りのパンチは、難なく月夜にかわされてしまう。


「まさか咲夜まで篠原くんのことを? フッ、でも残念ね。彼には恋人がいるのよ」


「知ってる」


「恋人がいるのよ……」


「自分で言いながら落ち込むなよ、面倒くさいな」


 これは自分が聞いていてよい話なのだろうか。

 大樹がこっそりとその場を離れようとしたとき、つい足音を響かせてしまった。

 はじかれたように月夜がこちらを向いた。その瞳に捉えられた途端、大樹はその場で硬直した。


 やはり綺麗だと思った。絶対に口にはしないが、いつまでも見ていたくなる。

 先に視線を逸らしたのは月夜だった。遠目でもわかるくらいに顔を赤くして恥ずかしそうに去ってしまう。


 そんな月夜の姿を見ながら、咲夜は溜息をついた。


「月夜とはもう話さなくなったのか」


「ええ、もうすっかり」


 けど、仕方のないことだと割り切っている。

 大樹は月夜の好意を振った立場になる。ショックが大きいのは月夜の方だし、あれからまだ日も浅いのだから立ち直るには早い。

 同じ部活に所属している以上、顔を合わせないわけにもいかないからお互いに多少気を遣ってしまう。


 それが悪いことだなんて言わない。でも、その小さな変化は時間がたつほどにしこりが大きくなっている気がする。


「時間が解決してくれる問題じゃないですかね」


 楽観的に大樹は言うが、それでも一抹の不安はぬぐいきれなかった。


「楓のことで頭がいっぱいのお前には、お腹いっぱいかもしれないけど」


 咲夜はそう前置きして、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「近いうちに月夜と話す時間を作ったほうがいい。別に彼女がいるからって他の女と仲良くしちゃいけないってルールはないんだから。今こうしてあたしと話しているみたいに、気楽に考えておけばいいのさ」


 咲夜の言葉がすっと胸に染み入るようだった。

 彼女の言う通りだ。

 奇跡的な巡り合わせに期待しても始まらない。もう月夜と疎遠になるのは勘弁だ。


「……まあ、その分、今の彼女に優しくする必要はあるだろうけど」


 どうしてだか咲夜は、とってつけたようにそう言い添えたのだった。


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