「もらっておくけど」
相談室の扉が控え目にノックされた。
管理人の結城かなたは顔を上げ、首を傾げた。来客に心当たりがない。神谷と紅葉が既にソファでくつろいでいる。
————もしかして、久しぶりのお客様かしら。
「どうぞ」
姿勢を正しながらそう口にする。
ゆっくりと扉を開け、顔を覗かせた人物を見て、かなたは安堵する。
「なんだ、篠原くんだったの。どうしたの、そんなに遠慮して。早く入っておいで」
「し、失礼します」
どこか落ち着かない様子が拭えないが、大樹が会釈して部屋に入ってきた。
自分の場所を探すようにキョロキョロと視線を動かし、やがて神谷や紅葉の対面の椅子に腰かけた。
「久しぶりだね、篠原くん! テストどうだった!?」
紅葉が明るく訊ねた。数日前は全学年共通のテスト返却日だった。
大樹は勉強が得意ではないらしく、テスト前になるとかなたや神谷を頼るのが常だった。今回は大樹を手伝っていないのだが……。
「はい。今回は全教科とも平均点越えてたので、補習を回避できました」
「マジで!? すごいじゃん! 大躍進! 頑張ったね!」
「ええ。楓が勉強教えてくれたので」
「……へえ、そう。ふーん。楓ちゃんが」
にへら、と紅葉の顔がほころぶ。紅葉ほどではないが、かなたは神谷も同様の反応だった。
大樹と楓が付き合い始めたことは、楓本人から教えてもらっていた。付き合い始めたその日に連絡を受けたのだ。
メッセージ上では素っ気ない態度を装っていたが、通話状態にしてみたらちっとも嬉しさを隠せていなかったのが可愛かった。
順調そうでなによりだ。
三人とも、微笑ましいものを見るみたいに穏やかな表情になってしまう。
「えっと。なんで皆さんそんなご機嫌なんですか」
「なんでだと思う?」
ついからかってみたくなって、かなたはそんな意地悪を言ってのけた。
大樹は難しい顔で腕を組んで唸っていたが、やがてハッとした表情になる。
「もしかして、もう気付いているんですか……!?」
「さあ。どうかしら」
早く喋っちゃえばいいのに、とかなたは思った。
「お前。なんか俺らに言うことないの」
それまで無言を貫いていた神谷まで、こんなことを言い出す始末だ。「他人の恋愛なんて興味ねえ」とか言いそうなのに。
「耳が早いですね」
大樹はようやく話す気になったのか、背筋を正して、かなた達を見据える。
「皆さんにご報告があります」
「動画配信者みたいなこと言ってんじゃねえよ」
「実は俺、楓と——————」
そこで言葉を切る大樹。答えは分かり切っているのに、そういう風に焦らされるともどかしい。辛抱強く待ち、やがてその言葉が飛び出した。
「————楓と別れそうになってるんですけど、どうしたらいいですか?」
『…………。なんでだ!?!?』
驚愕した三人の声が綺麗に重なった。
◆
発端は数日前の、テスト返却日のことだった。
その日、大樹は久しぶりに一人で学校に向かっていた。
ここ連日、登校するのも下校するのも楓が一緒だった。歩いているときも電車の中も、楓が一方的に試験問題を出してきて、それを大樹が答えるのがテスト対策になっていた。
定期テストは既に終わっているのだから、別々に登校したって変なことじゃない。
が、昨日のことは尾を引いている。
実は一緒に学校に行こうとメッセージで誘ってみたのだが「今日はいい」と素っ気ない返信をもらってしまったのである。やっちまったなあ、と思う。
「でも、あれはどうしようもなくない?」
誰にともなく言い訳をしている間に学校にたどりついてしまう。
教室のクラスメイトたちは落ち着かない様子だった。今日の昼までに全部のテストが返ってくる。おおよその結果は分かり切っているのだから、今更ジタバタしたって仕方ないのに。
なんて余裕でいられるのも全部、楓のおかげなのだろう……。
早く会って、仲直りしておきたい。
切なる願いが天に届いた、というわけでもないだろうがようやく楓がやってきた。
一日空いただけなのに、久しぶりに会ったように感じる。
それだけ待ち遠しかったのだと思う。
「おはよう。楓」
小声で楓にだけ聞こえるように挨拶した。
しかし、どういうわけか楓はこちらに一瞥もくれないまま、無言で席に座る。
聞き取れなかったのか? それとも無視?
「……楓? おーい」
再度呼びかけてみると、ようやく楓がこちらを振り向く。
ただ、その所作がどこか億劫そうで明らかに面倒くさがっていた。
「なに。篠原くん」
「…………。————————。 !?!?!?」
衝撃的過ぎて脳がフリーズしていた。
なんだ、何が起こった?
聞き間違いか?
いきなり苗字で呼ばれた。大樹の顔が引きつる。
「怒ってます?」
「いや、怒ってないんですけど」
嘘つけよ。
大樹は脱力して机に突っ伏した。またこのパターンか。
楓の機嫌は上がり下がりも移ろいも激しい。山の天気や秋空の方がまだ穏やかに思えるくらいに。
やっぱり昨日のことで怒っているのか。
「あのさ、楓……」
「馴れ馴れしいから楓って呼ぶのやめてもらえる?」
あ、無理。キツイ。
大樹は泣きそうになった。というか既に瞳が潤み始めていて、楓に見えないようにそっと顔をそむけた。
追い打ちをかけられたことで完全に心が折れた。
終わった。
短い青春だった。
今回は良い恋愛にしたかったんだけどなぁ……。
大樹が黄昏ていると、不意に肩を叩かれる。
楓がひざのあたりを指差していた。そこには何故かスマートフォンが置かれている。
見ろということなのか。
予想通り、自分の携帯にメッセージが届いていた。
『本当に怒ってないよ(*‘∀‘)』
可愛い顔文字だ。
ちらりと横目に楓を盗み見る。
親の仇でも睨むかのような形相だ。
どういうことだよ?
『なんでそんな怖い顔で睨んできてるの』
『だって、大樹を見てるとにやけちゃいそうだもん』
可愛いことを言っている。
隣の楓を見る。蔑むような視線をこっちに送ってきていた。
アカウント乗っ取られてます?
『恥ずかしいからさ』
『?』
『付き合っていることがすぐバレると恥ずかしいからさ、あんまり仲良くなさそうに見せた方がいいと思うんだよ』
「う~ん……?」
話についていけない。どうして今、あのときのことを持ち出すのだろう。
バレたらバレたで仕方ないって言っていたような気がするし、大樹がそれに合わせるメリットが何ひとつない。
いや、とにかく今は謝らなければ。
「楓————」
「話しかけないで」
ぴしゃりと言われて、大樹は黙り込んだ。
一日くらい置けば、楓の気も変わるだろうと踏んでいた。
だが大樹の予想とは裏腹に、楓の態度は一貫していた。話しかけても素っ気ない返事なのはもちろんのこと、もし名前を呼ぼうものなら冷たい視線を浴びることになった。
最初は根気強く話しかけていた大樹も段々とムカムカしてきて、それならこっちも考えがあるぞと、仕返しを考えるもなんだか悲しい気分になり、ほとぼりが冷めるまで待つことにした。
その我慢も、三日しか続かなかった。
「待って。これいつまで続くの? 色々間違ってる気がするし、ちゃんと話したいから昼ご飯、一緒に食べようよ」
大樹が余計に混乱するのは、こんな状態でも登下校だけは必ず一緒にするようになっていたからだ。道中で口をきいてくれることはないが。
ピクリと楓の肩が震えた。
大樹の言葉に逡巡を見せるような素振りを見せたが、結局は澄ました表情で告げる。
「ごめんなさい。先約があるから」
「誰?」
「内緒。じゃ、本当に待たせてるから」
スタスタと走り去ってしまう。
嘘を言っているようには見えなかった。本当に誰かと待ち合わせをしているのだと思う。
「せっかく楓の分もお弁当作ってきたのに」
彼女ムーブをかます大樹だった。
いつも食堂に行ってしまう楓のために用意してきたのに不発に終わってしまう。
「篠原くん」
「うおっ! びっくりした……って委員長?」
声をかけてきたのは大樹のクラスの委員長だ。その大雑把な性格のせいで、委員長っぽくないとからかわれている。クラスの一部では偽委員長と呼ばれていた。
「や、ごめん。でもなんでそんな驚いてんの?」
「今は苗字呼びされると体が拒否反応を起こしちゃうんだ」
「バカなの?」
自覚はあるのでほっといてほしい。
それはそうと、教室で楓以外から話しかけられるなんて珍しい。クラスでの話しかけられるのは基本的に事務連絡のときだけだ。
自分で言ってて悲しいな。
委員長は、あたりを気にしながら小声でささやいてきた。
「森崎さんとは……その。喧嘩にでもなってんの?」
意外な切り口に大樹は驚いた。
「委員長、よく気付いたね」
「そりゃあ、不自然すぎるし」
普段の大樹と楓の距離感を知っている者からすれば、やっぱりおかしなことなのだろう。
けれど、そのことでわざわざ話しかけてくるのは、どうにも委員長らしくない。
そういえば、と大樹は思い出す。委員長には唯一、大樹の想い人が楓だと知られてしまっているのだった。
そのせいだろうか。
ふと思う。
委員長にだけは言っておくべきだろうか。実は付き合っていることを。
あのとき変な尾行に巻き込んでしまったお詫びとして。
「……」
だが、いざ言おうとすると妙に気恥ずかしい。
なるほど、楓の気持ちもわからないでもないかもしれない。
「別に喧嘩とかではないけど、ちょっとすれ違い? みたいな感じになるのかな」
当たり障りないことしか言えない。
委員長は納得したようなしていないような、複雑な表情をしていた。
「そんなに気になる?」
「聞いてもないのに教えてくれるほど熱を上げていたから。その後どうなったかは、まあ人並に気になる」
「おおっ?」
そういうことを言われると、やっぱりペラペラ喋りたくなる。
オタクみたいな早口マシンガントークをかましたくなったが、あとで楓に何か言われると面倒だ。断腸の想いで言葉を飲み込む。
「そうだ。委員長って昼ご飯はお弁当派? 食堂派?」
「何よ、突然。食堂だけど」
「良かったらお弁当が一人分余ってるんだけど。一緒に食べない?」
「篠原くんの手作り? それを一緒に食べろって? ちょっと意味がわからないよ。もらっておくけど」
「いいんだ!?」
「今月金欠なの」
口調では嫌そうだけど、なんだかんだで付き合ってくれたのが有難い。「意外とおいしいじゃない」なんてお褒めの言葉ももらったので、これからも精進していきたい。
————俺は何をやっているんだ?