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「返事をしに来ました」


 月夜と楓は姿を消していた。

 当たり前だ。ここは現実世界で、大樹の部屋なのだから。

 眠気は一切引きずっていなかった。というより、寝ていたという実感がない。あるのは映画を鑑賞した後のような、心地よい感覚だけだ。


 起き上がり、カーテンを開けた。秋晴れが連日続いていたが、今日の空模様は怪しい。午後からは雨が降るかもしれないという予報だ。今日の気分としては晴れてくれた方が嬉しいのだが、そううまくいかない。


 洗濯機を稼働させ、その間に三人分の朝食と紅茶を用意する。

 母が起き出して定位置のソファに座ったところで紅茶を運ぶ。ついでに紗季の部屋へ。毛布を蹴飛ばし、大の字で気持ちよさそうに寝息を立てていた。


「まだねむい~」


 仕方ないので母と二人で食事を済ませる。母が日向ぼっこ、大樹が洗濯物を干しているとドタドタと騒がしい足音が聞こえてきた。


「なんで起こさなかったのお兄ちゃん!?」


「まだ時間大丈夫だよ」


 机に残された受験勉強の痕を見てしまったら、まだ寝せてもいいかなと思ってしまった。我ながら甘いことは自覚している。

 慌ててご飯を食べている紗季の後ろに回って、髪を梳く。これをしておかないと寝ぐせだらけのまま学校に向かってしまうだろうから。


「さて、そろそろ行こうかな」


「もうですか? 早いですね」


「そういう気分なんだよ」


 寄り道をしながら考えをまとめるのもいいだろう。

 母はその場から動く気配がないし、紗季は忙しなく食事をしている。

 いつも通りの光景だ。それを後ろ目に、玄関に向かおうとした大樹は不意に足を止めた。

 振り返って二人を呼ぶ。


「ねえ、母さん、紗季。見送ってくれない?」


 彼女たちはこちらを見つめたまま固まった。特に紗季の顔には困惑の感情が貼りついていた。

 耳を疑うような事態だろう。大樹はこれまでに見送ってくれなんて言ったことはない。


「お兄ちゃん、なんで? 別に、嫌とかって意味じゃなくてさ」


「願掛けみたいなものだよ。良いことがあると思うから」


 紗季には全く理解できなかったのだろう。むしろ余計に混乱させてしまったとさえ思う。


 でも、正直に言うのは恥ずかしい。高校受験のときも月夜との対決のときも二人に見送ってもらって、それで全部うまくいった。二人が背中を押してくれると自分が強くなれる気がした。

 だから今回も……。

 すっと、無言で母は立ち上がる。それを見た紗季も。


「ありがとう」


 改めてお礼を口にするのは気恥ずかしかった。

 ローファーを履いて二人に向き直ってみると、母がその場で腕を広げていた。


 躊躇う気持ちの方がずっと大きかった。ただ、その穏やかな笑顔にほだされて体の方が勝手に吸い込まれていく。

 ぎゅっと優しく包み込まれる。あたたかくて柔らかくて、なにより安心する。こんな風に母に抱きしめられるのはいつぶりだったか。横にいる紗季がちらちらとこちらを見ている。


「さ、紗季もする?」


「す、するわけないじゃん!」


 一応聞いてみたが結構強めに拒絶されて、大樹は苦笑した。


「いってきます」


「いってらっしゃい」


 足取り軽く、大樹は出発した。

 別に急いでいるわけではないのに、どんどん前に進みたくなる。気持ちが止まらない。逸る心は体に強い影響を与える。マンションを出たときには走り出していた。


 早く、早く、会いたい。


 今すぐ会って、この気持ちを伝えたい。


 そのまま学校に向かうようなことはしない。家のすぐ近くを流れる一級河川を目指し歩を進める。吹きすさぶ冷たい風も、まったく気にならない。

 河川敷をランニングする人は年中時期を問わず多い。ただ、そこを制服姿で走る高校生は珍しいだろう。今も奇異の目で見られてしまっているが、そんな視線を振り払うくらいスピードで走る。


 中学時代、体力づくりのためにこの場所をよく走った。

 二つ三つ先の駅周辺の地理が頭に入るくらいには、(あし)(しげ)く通った。最近ではすっかり来なくなってしまっていたが。久しぶりの街並みを眺めていると所々記憶とは違う部分があって面白い。


 このままどこまでも行けそうなんて感じていたとき、大樹の鼻先に雨粒が落ちた。

 大樹は立ち止まって空を見上げた。分厚くどんよりとした雲に覆われた空がこちらを見下ろしている。まるで自分を嘲笑っているみたいだった。


 これは虫の知らせだ。


 直感した瞬間、先ほどまでの興奮は嘘のようにおさまった。

 冷静な頭で、大樹は時刻を確認する。今から向かえば到着する頃には開門しているはずだ。

 本降りになる前に急いだ方がいいだろう。


 最寄り駅まで逆戻りをして電車に飛び乗る。普段の登校時間よりもずっと早いと、車内の様子はだいぶ違う。スーツ姿の会社員はちらほらといるが、空席は多い。

 座って到着を待つ間、大樹はずっと彼女のことを考えていた。


「ありえないんだけどな」


 駅を出ても、人の少なさは変わらない。藍咲を目の前にしてもそれは変わらなかった。部活の朝練でもあれば違ったのだろうが、今はテスト前で全面部活動禁止だ。

 幸い、雨は降らなかった。いつ降り出してもおかしくない雲行きはそのままだが。


 誰もいない校舎を歩いていると、自分だけがここに取り残されたような気分になって落ち着かない。

 そう、誰もいるはずなんてない。けれど予感はあった。


 自分のクラスまでたどり着いて、半分だけ開いたドアを見た大樹は確信する。

 一度深呼吸をおいて、教室の中に入った。


 明かりを消した薄暗い部屋、窓際の席に楓がいた。

 背筋を伸ばした綺麗な姿勢で座っている。まるで誰かを待っていたみたいに。


「楓……どうして、こんなに早くに」


「今日、日直だから」


 嘘ではない。出席番号の関係で、次は楓の順番だ。

 でもそれだけが理由じゃないのは明らかだ。


「こんな時間から来る必要もなかったでしょ」


「神谷先輩が」


「え?」


 神谷の名前が出て、大樹は動揺した。

 楓は淡々とした口調で続ける。


「大樹から話があるかもって教えてくれたから」


「………」


「もしかしたら本当にそうかもって思ったら、いてもたってもいられなかった」


 マジで何者なんだあの人……。

 大樹がこの時間にここに来たのは偶然でしかないのに、まるで大樹の思考回路と行動を全部先読みしていたかのようだ。


「そっか」


 深く詮索する気になれず、大樹は後ろ手にドアを閉めた。

 自分の席に座りたくて近づいただけなのに、楓がこちらの一挙手一投足に神経を尖らせているのがわかる。

 大樹が腰を落ち着けてもそれは変わらなかった。


 会ったら言いたいと思っていたことがいっぱいあった。

 それなのに実際顔を合わせたら、何から話していいのかわからなくなる。

 でも、まず言うべきはこれだろう。


「昨日はごめん」


 そう口にしたのは楓の方だった。

 大樹が言おうとしたセリフと全く同じ。


「なんで楓の方が謝るの」


「大樹だけじゃなくて、昨日は色々な人に迷惑をかけたと思ってる」


「そんなことは。俺の方こそ————あー……うん」


 言葉が続かなかった。

 泣かせてしまったことにも、楓の気持ちにも、触れるべきではない。

 それに、楓にはまだ言いたいことがあるのを気配で感じた。


「あのあと、相談室でかなたさんと神谷先輩と紅葉先輩と色々話して」


「うん」


「用事あるって消えてた神谷先輩と合流して四人で晩御飯食べた」


「えッ」


「?」


「いや、なんでもない。続けて?」


 変な汗が出た。

 まさかと思うが、昨日の大樹と神谷のやり取りを彼女たちにバラしてしまっていないだろうか。だとしたらかなり恥ずかしいことなのだが。

 楓は何を、どこまで聞いているのか。気が気でなくなってきた。


「すごい楽しかった」


 ちょっと舌足らずだった。小学生が夏休みの絵日記に書いていそうな感想。

 けど、その短い言葉の中には色々な思い出と感情が込められている。


「幸せだなって思った」


「………」


 茶化すことなんて出来なかった。

 本心からの言葉なのは明白だったから。


「おしまい」


 意外なほどあっさりと、そして唐突に楓の話は終わった。

 楓が何を伝えようとしたのか。そもそも、そんなものはないのかもしれない。


「昨日、夢を見たんだ」


 沈黙を埋めるように、大樹は言葉を紡いだ。


「どんな?」


「どんな、か。すごい長い夢だったから一言じゃまとめられないかな。中学時代のセンパイのこととか、楓とこの教室で初めて会ったときのことか、色々だったから」


 夢から覚めたら、内容なんてほとんど忘れてしまうものだけど、昨日の夢は今でも鮮明に思い出せる。多分、一生忘れないだろう。一瞬一瞬で抱いた想いも。


「いっぱい思い出すことがあったよ」


 何かを伝えたくて口にした言葉じゃなかった。

 何かを感じなくても、全然いい。ただ、聞いていてほしい。


「俺って恵まれてるんだと思う」


「なに、急に」


「だって俺も幸せだから。そう思わせてくれる人も身近にいるし」


 楓が息をのむのがわかる。


 ここまで言ってしまえば、もう楓にも伝わってしまっているだろう。

 でも、ちゃんと最後まで言うことが礼儀だと思う。


「楓のことは————」


「わかってるから」


 大樹が言い終える前に、楓に遮られてしまう。

 強い拒絶を感じた。寒さに震えるように、両腕を抱いて。


「何も言わなくていいから。全部、わかってる」


「———そっ……か」


 渇いた音が漏れ出た。

 本当はもう少し言葉を交わして、話し合いたかった。

 けれど、楓がそれを必要としていない。確認するまでもなく意味は明白だ。


 こんなにもあっさりと……。


 けれど、こんなものなのかもしれない。ドラマや漫画みたいに綺麗な終わらせ方なんて、現実じゃ滅多にできない。


 突如、教室の電気がついた。眩しさに目がくらむ。


「わっ!? え、いたの!? アンタら何やってんの電気も点けずに……」


 現れたのは委員長(真)だった。時刻は八時前だが、かなり早い登校時間だ。テスト前だからだろうか。

 なんにせよ、正直助かったと思う。二人だと間が持たなくなっていたところだ。


「てか、早退コンビだ」


「早退……?」


 委員長(真)の言葉に楓が何やら引っかかったみたいだが、楓は知らなくていい。

 大樹は失意を引きずらないように努めて明るく振舞った。


「早いじゃん、委員長。テスト勉強?」


「別にそんなのなくても、いつもこれくらいの時間に来てるっての」


「家近いの?」


「いや? 片道二時間くらい」


「なんで今いるの……?」


 六時前には家を出なきゃたどりつけない計算になる。体に毒だ。


「大変じゃん、委員長。寝れてる? 私は一睡もしてないけど」


「楓も寝ろよ」


「好きで来てるんだからいいの。あたしよりこの学校を愛している人は中々いないと思うわ。だから次回の学級委員選挙は清き一票お願いします……!」


「はいはい」


 彼女の懇願を聞きながら、会話を転がしていく。大樹の頭には何も入ってこなかったが、黙っていれば余計なことを考えてしまいそうでそれが怖かった。

 これからもう一人、会わなければならない人がいる。



 テスト前ということもあって、授業は全部昼前には終わる。真面目に家に帰って勉強する人もいれば、中には遊びに出ていく者もいるだろう。


 彼女とは中庭で落ち合うことになっている。もう少し生徒の数が少なくなってから向かうつもりだ。

 机に座ったまま腕を組んで、教室の壁時計をじっと見つめる。秒針が進み、一人また一人と生徒がいなくなっていくごとに体が熱くなっていくのを感じる。冬なのに汗が止まらない。これからのことに想いを馳せる。


 瞳を閉じて、そのままじっと待つ。やがて周囲から一切の物音が消え去ったとき大樹は顔を上げた。

 隣の席に人影が見えても驚きはしなかった。気配はずっと感じていたから。


「つっきー先輩のところ、行くよね」


「うん」


 こんなに近いのに、お互いに目を合わせることはなく正面を見据えている。

 もしここで楓の顔を見てしまったら、自分が何を言い出すか大樹は分からなかった。それくらいギリギリのところを心がせめぎ合っている。


「そろそろ」


 迷いを振り払うために大樹は立ち上がった。

 足早に楓の後ろを通り過ぎようとしたときだった。彼女の手がすっと伸びてきて、大樹の腕に触れる。


「か、楓?」


 狼狽している間に、楓が大樹の腰に両腕を回してくる。抱き着くというよりも、しがみついているみたいな、必死さを感じる。

 小さい額がこつん、と大樹の背中に当たる。じんわりと熱が広がっていく。


「……うん。よし」


 楓が両腕で思い切り大樹を押した。倒れそうになるのを堪えて、なんとか踏みとどまる。

 それはまるで大樹を勇気づけてくれているかのような所作で、大樹は————


「うまくいくといいね」


 想うことはあったが、大樹は誤魔化すことにした。


「うまくいくも何も……ね?」


 それだけ言って、大樹は教室を飛び出した。



 もう、何も考えるな。振り返るな。前を向け。



 今見るべきなのは、彼女だけだ。

 人気のない校舎を歩いて、中庭に抜けた。寒空の下、彼女は既に待ってくれている。

 強い風が枯れ葉を巻き上げて、彼女の周囲を舞った。彼女は咄嗟に目を庇う。


「あ……」


 風が止んで、大樹を見つけた月夜は頬を緩めた。胸の前で小さく手を振る。子供らしいとも言える仕草に、こっちもつられて破顔した。

 寒さのせいで肌に赤みがさしているのに、月夜は一切文句を言ってこない。


「待たせてしまって、すみません」


「気にしないで。待っている時間も楽しいから」


「いえ————そうではなく」


「?」


 謝ったのは今日のことではない。


「ずっと待ってもらってて。本当にすみませんでした」


「————」


 これで月夜は全て悟ってくれたはずだ。

 今日、どういうつもりで大樹が月夜を呼び出したのかも。


 ようやくこの言葉を言える時がきた。


「返事をしに来ました」


「…………」


 感極まったみたいに、月夜が目を大きくする。

 胸を押さえて、悶えるように足をバタつかせる。


「だ、大丈夫ですか」


「ごめんなさい。この日が来ることをずっと待っていたけど……い、いざそうなってみるとすごい緊張する」


 いつも人前では毅然とした態度を崩さないくせに、大樹のたった一言で隙だらけになる。こんな姿を見せるのは大樹の前でだけだろう。

 時間を忘れたみたいに熱っぽい視線を向けていた月夜だが、我に返った途端に今更のように前髪を整えたり、スカートの皺を気に掛ける素振りを見せた。


 そういう仕草がたまらなく愛しい。


「センパイ、俺は————」


 月夜の喉がこくりとなって、それを恥ずかしがって咳払いをした。

 仕切り直すために大樹はそっと息を吐く。


 告白は、何度経験したって慣れることはない。

 気力を体中からかき集めて、それでも胸の動悸はおさまらない。

 きっと、うまくやるなんてことは大樹には出来ないし、その必要はない。ありのままの自分を見てもらうだけだ。

 大樹は笑顔を浮かべた。



















「俺は、センパイのことが好きです」


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