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「今だけは許してください」


 遅刻を咎める教師の小言を、楓は黙殺した。

 あとで職員室に来るように、という言葉も完全に無視。クラスで控え目な笑いが起きた。入学して間もない頃、クラスでよく見た光景だった。


 夢で再現された彼女の姿は妙に生々しく、そして痛ましかった。


 抜け殻のように、力なく座っている座り虚空を見つめている楓。

 手入れがされていない枝毛だらけで無造作に伸びた髪。まともに睡眠と食事が取れていないせいで瞳は充血し、肌が荒れて痩せ細っている。

 何よりも、全てを諦めきったみたいに光を失った瞳が、大樹の焦燥感を駆り立てた。


 今すぐ声をかけたいが、意思に反して体は全く動いてくれなかった。

 挙句、楓の視線がこちらに向けられた瞬間に顔を逸らしてしまう始末。


 そうだ。大樹だって、楓のことを見て見ない振りをしていた。見てはいけないものを見てしまったような罪悪感が居心地悪くて、ずっと反対側の方を向いていた。近い場所にいたからこそ、関わりたくないという気持ちが普通より強かった。


「ごめん……ごめん……」


 あのときの行いを大樹は恥じた。楓はこのときも、ずっと助けを必要としていたのに。

 このあとの時間で、かなたや神谷たちが楓を見つけ出すことになる。そうなれば楓の辛い時間は終わりを迎える。それまでの辛抱だ。


 でも、もし時間をやり戻せるなら。


 今度はもっと早く、楓に会いにいくのに————。


「!?」


 急な浮遊感と共に、景色が一変する。

 見たことのない部屋だ。普通の一軒家の一室だと思う。広いけれど薄暗い。

 そしてその部屋の中心で、うずくまっている少女がいる。


「楓!!」


 顔も見ていないのに、彼女の名前を呼んで大樹は駆け寄った。

 その体躯は高校生にしては小さすぎる。顔立ちも今と比べると幼い気がした。楓は両手で耳を塞いで涙を流している。


 そのとき、大樹は気付いた。


 無数といえるほど大量のトロフィーが大樹たちを取り囲んでいることに。見渡す限りに隙間なく、他に物の置き場がないほどだった。

 圧巻としか表現できない。そしてこれだけ数多い賞杯には、たった一人の名前しか刻まれていない。楓の実の姉である森崎奏の名前しか……。


「ひどい……」


 楓はこんなものを見てしまったというのか。

 目の前の光景は、楓の話を元に大樹が作り出した、いわば想像の産物でしかない。でもこれがどれだけ人の自尊心を傷つけるかなんて想像に難くない。


「奏のようになりたいだと? 身の程をわきまえろ」

「あなたはお姉さんより出来が悪いんですから」

「何もするな。奏の邪魔だけはするな」

「どうしてこんな子になってしまったの」


 追い打ちみたいに、心のない言葉が部屋中に反響する。

 きっと全部、楓に実際ぶつけられた言葉なのだろう。そういうものに晒されながら、長い間ずっと強く自分を保とうとしていた。


「うるさい。全員黙れ。もう喋るな」


 押し寄せる悪意を、静かな言葉で跳ね除ける。


 泣きじゃくる楓を守るように、大樹が覆いかぶさった。

 頭を優しく撫でる。楓は微動だにしない。


「楓。そのままでいいから、聞いて」


 子守歌を唄うように、大樹はささやいた。


「今は、すごくつらいって思っているかもしれない。でも、そう遠くない未来に全部うまくいく。お姉さんとは仲直りするし、楽しいこともいっぱい見つかる。だから、お願いだから————自分を否定しないで」


 自分自身のことをもっと好きになってほしい。

 楓には、楓の良いところが見えていないんじゃないかと時々思う。弱いところを晒さないように必死になっているせいで、自分に目を向けることができなくなっている。


「楓は、楓のことをあまり好きじゃないかもしれないけど。もしかしたら嫌っているかもしれないけど。でもそれ以上に、皆が楓のことを好きなんだ」


 そうでなければ、かなたや神谷を始まりにして、楓の周りに人が集まってくることもなかっただろう。


「それでもまだ不安なら、約束する。どんなときでも、どんなことがあっても、少なくとも俺だけは楓から目を離さないから」




「————ホントに?」


 気が付くと至近距離に楓の顔があって、大樹は思い切り仰け反った。

 今度も薄暗い場所だったけれど、何とも言えない安心感があった。確認しなくてもわかる。大樹の部屋だ。


 カーテンが開け放たれた窓から見える空は紺青から白へ。まもなく朝を迎える。

 場面転換が目まぐるしい。現実世界で体は眠っているというのに、疲れが出てくる。明日起きれるか……?


「大樹……?」


 捨てられた子猫みたいな声で、大樹のことを呼ぶ。

 妄想で美化されているせいなのか、目の前の楓が妙に色っぽく映る。上目遣いににじり寄ってくるせいで、ベッドが軋んだ。

 状況が状況なだけに、何が起こってもおかしくなかった。


「————うん。ちゃんと見ておくから」


 初めて楓に告白して、一夜が明けた。

 こんな時間になっても話は尽きなかったのだ。楓が溜め込んでいた言葉、感情を全て吐き出させるためには。

 振られた直後だったのだが、雰囲気は悪くない。というかむしろ良い。ここから巻き返しができないかと淡い期待をした。


「ふふっ」


 いたずらっぽく吐息をこぼした楓にドキリとした。

 叫んで走り回りたい衝動に襲われる。不可解な思考に大樹自身が戸惑っている。


「もしさ」


「ん?」


「中学のときにちゃんと知り合ってたら、どうなってただろうね」


「多分、また楓のことを好きになってたんじゃない?」


 今から思えば、かなり突っ走った発言だったと思う。自分に酔っていた自覚もある。

 案の定、楓は腹を抱えて笑った。急に恥ずかしさが込み上げてきて大樹は毛布にくるまった。


「照れるなって~♪」


 楓がくすぐってくるので、大樹は慌てて身をよじって逃げる。距離感が掴めない。ここで大樹が同じことをやり返すと絶対に妙な空気になる確信はあったので、反撃は控えた。


「でもさ」


 くすくすした笑いは喉奥に引っ込めて、落ち着いた声で楓は言った。


「まじで好きになってたかもね?」


 問い返すなんて無粋なことはしなかった。

 色々と限界を迎えて大樹は眠りについてしまったのだった。




「ねえ、いい加減に手離さない? 鬱陶しい上に恥ずかしいし」


「だーめっ♡」


 楓と奏が、手を繋いで歩いている。楓の方は嫌がっているが、姉の方は対照的に上機嫌だ。なんならぴったりと密着までしている。

 はしゃぐのは奏だけにとどまらない。お祭り独特の空気にあてられて、普段より羽目を外している生徒たちも多い。それを文実のメンバーが注意している。

 たった一か月前に体験したことだが、懐かしさと充実感が込み上げてくる。


「マジで大変だったなあ」


 愚痴っぽい口調ながら、大樹の顔は晴れやかだ。

 二人が色々な模擬店を楽しんでいる姿は、きっと他の人の目にも仲の良い姉妹に見えたはず。微笑ましい姿だ。


 このとき、大樹は肩代わりした文実の仕事の対応に奔走していたから、二人が実際にどう過ごしていたのかは確かめようがない。でもきっとこんな風だったに違いない。根拠はないけれどそうあってほしい。


「楓。卒業したら家を出て、私と暮らさない?」


 奏の言葉に、大樹は動揺を隠せなかった。

 その提案は、楓にとって魅力的なもののはずだったから。楓のことを誰よりも愛している人。そういう人の傍で生きていた方が、楓は幸せになれるだろう。


 でも、そうしたらもう二度と楓とは会えなくなるのでは……?


 身勝手だとしても、大樹に浮かんだ考えはそういうものだった。


「いやー、遠慮しておくよ」


 だから、楓が断ったと聞いたときは心底安心したのだ。

 奏はショックを受けたそうだが、本人の意思を尊重してそれ以上とやかく言うことはしなかったそうだ。

 楓はどういう意図で奏の申し出を断ったのか、それは今でも謎のままだ。





 静かな場所だった。

 青く高い空が、力いっぱいに広がっている。雲がいくつも流れていく。

 周りには何もない。いや、遠くの方で人影が二つだけぽつりと佇んでいる。

 大樹は走って近づいていった。それが誰かなんて、考えるまでもない。だって、これは大樹の意識が生み出した世界なのだから。


 月夜と楓が振り返る。穏やかな笑みを浮かべながら二人は手を伸ばしてきた。


 予感があった。きっと、ここが夢の終着点。

 どちらの手を取るのか、それで全てが決まるだろう。大樹の覚悟が試されるときがきた。


 とても長い夢だった。ここに来るまで長かった。アルバムの最初から最後まで見せられたような脱力感。場面のひとつひとつで感情が蘇ってくるおかげで気持ちの整理が難しい。


 それでも————思い出全部が愛おしかった。


 月夜に出会えてよかった。彼女のおかげで強くなれた。

 楓に出会えてよかった。彼女のおかげで優しくなれた。


 本当に……よかった。


 大樹の心は一つに決まっていた。

 ここからの未来、隣を歩いてほしいのは————彼女だ。

 随分遠回りをしてしまったと思う。けど、こうやって思い悩んで苦しんだ時間が無駄だったとは思わない。むしろ感謝したいくらいだ。

 ここまで深く、人を好きになったことはなかったから。


 大樹は彼女の手を取ろうとして、その動きを止めた。

 思い直したように手を引っ込める。

 ここは夢の中だ。だから、大樹のことを見ている者はいない。誰も咎めない。

 それなら……。


「今だけは許してください」


 大樹は二人の手を取った。二人は困ったような顔をしていたと思う。

 しっかりと握りしめる。作り物で、柔らかさも温度も感じない肌。どれだけ精巧に作られたように見える世界だとしても、ここにリアルはない。


 夢から覚めて、本当の二人に会わなければならない。


 不安を感じないと言えば嘘だ。

 大樹は自分を弱い人間だと知っている。多くのものに勇気づけられなければ前に進むことができない。でもきっと、そんな自分を切り捨てて置いていく必要はないのだと思う。


 これから先も何度でも、自分が不甲斐なくてみっともなくて消えてしまいたくなるような瞬間が訪れる。けれどその度に苦悩しながらも奮い立ち、前に進む。

 そうやって生きていくのが人生だ。


 そのことにようやく気付けた。


 明日になれば、それまでとは違う関係性になる。寂しさはある。でもそれ以上の喜びが待っている。


 変わっていくもの。変わらないもの。


 その中で一つだけ確かなことがある。


 朝日月夜、森崎楓————二人から想われた篠原大樹という人間は。










 世界で一番幸せ者だ。


分岐点。

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