「幸せになって」
目を開けると、そこは暗闇。まだまだ朝は訪れない。
ベッド横の置時計で時間を確認すると短針はてっぺんを差していた。寝付けないままで日付が変わってしまったらしい。こんなに疲れているのに眠気は一向にやってくる気配がない。
神谷と話してから、だいぶ時間が経っている。
「俺はもう行く。お前はここにもうしばらくいろ。時間が経ってから、寄り道せず真っ直ぐ帰れ。間違っても、この近辺の飲食店には行くなよ」
よくわからない忠告を受けて、神谷とはそこで別れた。別に構わない。食事は家で済ませるし、もう少しここでゆっくりしていたかったから。溜まっていた感情を爆発させた反動だ。
気持ちの整理をしながら教室を出た。今日は既に早退した身なので、できるだけ人に見つからないようにコソコソしながら。
なんとか誰にも捕まることなく下駄箱までたどりつく。
「篠原くん」
背後から声をかけられてびっくりする。大樹を悩ませる想い人の一人の声だったから。
「センパイ。どうしてまだいるんですか」
「今日も一緒に帰ろうと思って、待ってた」
十二月の学期末試験の影響で、しばらく部活は休みとなる。こういう風に理由を持ってこないと月夜とは顔を合わせることがない。
もちろん断るつもりなどないので、二人で帰る。いつもは口下手なりに色々話すこともあるのだが、大樹は無言を貫いていた。そんな雰囲気を察してか、月夜が無理に話題を振ってくることもなかった。
ずっと隣の月夜の横顔を眺めていた。ほぼ無心で。歩きながらでも、ホームでじっとしていても、電車に揺られながらでも、ずっと。
さすがに月夜も耐えきれなくなったようだ。頬が赤い。
「どうしたの。そんなに見られると恥ずかしい」
「なんでセンパイ、俺のこと好きなんですか」
あの、朝日月夜がどうして。
好意は何度も伝えられているからそこは疑ってない。でも理由が思い至らない。何がそこまで月夜のお気に召したのか。
月夜は長い髪を指でいじって、視線を逸らしている。瞳がぐるぐる回っているので、何も映ってはいないとは思う。
「……付き合ってくれるなら、教えてあげる」
「え」
「それまで教えてあげません」
困らせた仕返しと言わんばかりの態度。ちょっと拗ねている。
……それもそうか。これだけ返事を保留にしているのに虫のいいことを言ってしまっているのだから。いい加減、結論を出すべきだ。
「明日……話があるかもしれないです」
「かもしれない?」
明日までに考えがまとまらなければ、なかったことにしてもらいたい。
いや、待て。そうやって先延ばしにしていたらいつまで逃げ続けてしまうかも。
「いえ、あります。確実に。絶対」
覚悟を決める意味で、強めに訂正しておく。これでもう後戻りはできない。
「大事な話?」
「はい」
「そう……。楽しみにしている」
緊張した面持ちで月夜は頷いた。
家に帰ってから、家族三人で食事を済ませて風呂に入ってベッドに潜り込んだ。しかし体が興奮状態なのか眠ることができない。
この時間なら、母も妹も既に寝静まっているだろう。
大樹は起き上がってリビングへ。物音で二人を起こしてしまわないように配慮しながら、冷蔵庫から水を取り出した。
一気にそれを飲み干して、大樹は荒い息を吐いた。
明日に備えて早く眠りたいのに、思考はずっとひとつに支配されている。
————お前が好きなのは、どっちだ?
神谷とあんなに言葉を交わしたのは初めてだった。先輩後輩としての接点を持ちつつも、縮まらない距離を感じていたしそれで仕方ないと思っていた。
今日のことは一生忘れないだろう。それだけ衝撃的なことだった。
ふと思う。神谷があんなに真剣だったのは、もしかしたら神谷自身の境遇と重ねていたからなのかもしれない、と。そうでなければ、あそこまで大樹の内心を言い当てることはできないはずだ。
だとしたら、神谷はかなたのことも————
「いや。今は自分のことだ」
神谷に問いかけられてから、ずっと答えを求めている。
答えを出せないのは、優劣がつかないほどにどちらも正解だからだ。
結局のところ大樹は、朝日月夜のことも森崎楓のことも好きになってしまっているのだから、そこに抵抗感を覚えてしまう。
大樹は再びベッドの中に戻り、目を閉じた。正直寝られる気はしないが起きていても生産的なことは何もなさそうだ。
神谷は、楽しそうな方を選べと言っていた。心に従えとも。
どっちを選んでも楽しいに決まってる。今までにない幸福を感じることができる。だから選べない。贅沢な悩みをしているとつくづく思い知らされるが。
どうすれば、心に従うことができるのか。
自分のことなのに、気持ちが全然分からない。
本心は、どうやって確かめたらいいのだろう。
◆
「篠原くん」
いるはずのない彼女の声にびっくりして飛び起きた。
顔を上げて、さらに大樹は混乱することになった。
「あ、え、え? センパイ……ですよね?」
「そう。あなたの先輩で、朝日月夜です。もう忘れた?」
分かり切っていたことでも、大樹は聞かずにはいられなかった。
月夜は黒のセーラー服を着ていた。新鮮さよりも懐かしさが込み上げてくる。それは中学校時代の彼女の制服だったのだから。
あたりを見回す。夕陽が窓から差し込み、教室が優しい色で染められている。見慣れたようで、けれどやっぱり違う。ここは藍咲じゃない。
「部活にいこう。あなたにしては遅いから迎えにきた」
自分の恰好を見下ろす。高校のブレザーではなく、学ランだった。
状況を飲み込めないまま、歩き出してしまった月夜におとなしくついていく。いつの間にか、自分の手にはラケットが握られている。
不可解な現象の連続に、いい加減これがどういう状況なのか分かってきた。
これは夢だ。今、自分は夢の世界にいる。
「今日は何をするんですか」
「一年の君たちは走り込み。その後は筋トレ。それから素振り」
「えー!? この前もその前もそうだったじゃないですか! いつになったら打たせてくれるんですか!?」
勝手に言葉がついてくる。記憶から再現されたやり取りだろう。実際にこんな会話をした覚えがある。
「三年生たちが引退したら、基礎打ちの時間が取れる。それまでは我慢して」
「じゃあ、そのときは朝日センパイが相手してくださいね! センパイが一番上手ですから!」
「気が向けば」
月夜は素っ気ない態度なのに、大樹はその後もしつこいくらいに話しかけていく。
恥ずかしい……。そういえば初めて会った頃はこんな関係性だった。大樹が一方的に月夜に話しかけ、軽くあしらわれていた。
隣の月夜をちらりと盗み見る。相変わらず綺麗な顔立ちだが、今と比べると幼さが残っている。髪もずっと短い。目を離すことが出来なくなって、じっと眺めてしまう。
「あまりじろじろ見ないで」
怒られてしまった。本気で嫌がっているのが伝わってくる。月夜は誰かと————特に男子とは全然接点を持とうとしなかった。関わりが深くなれば面倒事が増えるからだと、当時の月夜は教えてくれた。
中学生の大樹には意味が全然わからなかったが、今ではよく分かる。
月夜は大樹の視線を振り払うように、小走りで先を進んでしまった。
景色が打って変わる。大樹は月夜とバドミントンの練習をしていた。他には誰もいない。この光景にも見覚えがある。部活のあとでも最終下校ギリギリまで二人で残るのが、お互い口に出さなくても日課になっていた。
一緒にいる時間が増えたからなのか、この頃になると月夜は大樹に対して徐々に心を開いてくれていた。相変わらず口数は少なかったが、月夜の態度は柔らかい。
「センパイ! もう一本お願いします!」
「いえ、もう帰りましょう。明日も早いし、あなたにだけ裏メニューを用意したから」
「えー!? 嫌ですよ! センパイのメニューやばいですし!」
「冗談よ」
と、月夜は言うのだが、大樹にとっては冗談では済まなかった。
翌日、地獄のような練習メニューが待ち受けていることをこのときの大樹は知らない。
それでも思い返してみれば、この頃は毎日が楽しくって仕方なかった。日々練習していくなかで、少しずつだが確実に上達しているのが分かったからだ。
それとは別で、もう一つ嬉しいこともあった。
おかげで順風満帆の怖いものなしだった。
「そういえばセンパイ! 嬉しいことがあったんで聞いてくれませんか」
「なに?」
片付けをしながら月夜が聞き返してくる。
「実は俺、彼女ができました!」
カツーン、と。
月夜の手から滑り落ちたラケットが悲しい音を立てた。
「あ、センパイ。どうぞ」
落としたラケットを拾い上げて渡すと、月夜はそれを無言で受け取った。
その後も月夜は大樹の彼女発言には一切触れず、黙々と作業を続けていく。結構重大な報告だったはずなのにまったく相手にされず、大樹はしょぼくれた。
月夜がリアクションを返したのは、学校を出てすぐだった。
「————。え? 彼女ができたと言った?」
「反応遅くないですか!? スルーされたのかと思いましたよ!?」
当時はこの月夜らしからぬ反応を気にも留めなかったが、今では自分を殴り飛ばしたくなる。
スルーしたのではなく、ショックを受けてフリーズしていただけだ。
それを知る由もない大樹は勝手に有頂天だ。
「そうなんですよ、彼女ができたんすよ! いぇい!」
「い、いぇーい……」
二人はハイタッチをする。
月夜はもはや泣きそうな顔になっていたが大樹は気付かなかった。
今でこそ鳴りを潜めたが、自分が楽しい気分だと周りに目を向けられなくなる悪癖はこの頃が全盛期だ。この後、これが原因でその彼女に振られるのだから笑えない話だ。
「————篠原くん」
「? はい?」
振り返りながら、大樹は冷や汗をかいた。
現在の意識を持っている大樹は、耳を塞ぎたくなった。この後のセリフは既に知っている。
「幸せになって」
切なそうな、困ったような顔。あのとき、月夜はこんな風に笑っていたのか。
大袈裟だなと思ったのを覚えている。きっと、そういう言葉を使うことで想いを断ち切ろうとしていたのだ。
胸が痛かった。時間差で彼女の想いを知ってしまったから。
帰り道の月夜はいつも通り過ぎるほどに普通で、つまりそれは無理して気丈に振舞っていただけなんだと遅れて気付かされる。
そこから何度も、断続的に景色が移り変わっていく。ビデオを観ているわけではないから、綺麗に場面がまとまっていることはない。
ただ、不規則に連続して月夜との思い出を見ていくうちに、大樹の胸に込み上げてくるものは、悲しいくらいにあたたかい。
「ずっとセンパイと一緒だったんだな」
大樹にとっては何物にも代えがたい大切な時間で、それが全てだと言っても過言じゃなかった。月夜とは同じ気持ちではなかったけれど、種類が違うというだけで大樹だって月夜のことが好きだった。
たどりついたのは桜が舞う場所だった。
ここがどの時間軸かはすぐ分かった。
卒業証書を手にした月夜が、多くの人に囲まれている。去ってしまう月夜を最後に一目見ておこうと集まった人たちだ。
大樹はそれを遠くから眺めているだけだった。本当はお世話になったお礼を言って、きちんと別れを済ませておきたかった。けれどこの頃は丁度、付き合っていた彼女と別れたり部活も廃部になりそうだったりと全く余裕がない時期で、その不安を月夜の前で出さない自信もなかった。
それでも未練が残って、大樹はその場から動けなくなってしまった。
大樹の気配に感づいたのか、月夜と目が合う。心臓をキュッと掴まれるような、居心地の悪さに襲われた。大樹は会釈だけしてその場から逃げた。視線を感じても振り返りはしなかった。
二度と会うことはないだろうと思った。月夜も同じ気持ちだったはず。大樹と月夜は、ただの先輩後輩でしかない。月夜の卒業後もお互いに連絡を取ることはなかった。
まさか、同じ高校に進学するとは夢にも思わなかった。
藍咲で月夜の姿を見かけたときは目を疑った。月夜は自分の頬を何度も叩いたという。
今では運命めいたものさえ感じてしまう。この出会いと別れは必然だったのではないかと。
「俺が好きな人は————」
突如、桜の花びらが大樹の視界を覆い隠した。
すごい風だ。吹き飛ばされそうになる。というか、多分もう吹き飛ばされた。足が地面についていない。平衡感覚を失う。
ただじっと、風が凪ぐのを待った。
おそるおそる、目を開けてみると大樹はまた違う場所にいた。
教室だ。今度こそ藍咲の、大樹が通っているクラス。ここからなら他の生徒たちの後ろ姿を全部見渡せる。着慣れた制服のはずなのにどこか息苦しさを覚えた。クラスメイトたちは全員、どこかそわそわしていたり浮かれていたりと落ち着きがない。
これはもしや、入学したばかりの時期か?
そこまで考えて、大樹は前を向いた体勢のまま固まってしまった。
このクラスは席替えをしない。だとしたら、隣の席は……。
大樹はおそるおそる、祈るような気持ちで視線をスライドさせていく。
「あ……」
そこは空席になっていた。誰もいない。
ほっとしたような、残念なような気持ちになる。けれど、それは一瞬のことだった。
不意に教室のドアが乱雑に開け放たれる。
クラス中の視線が彼女に集中した。
しかし当の本人はそれらを全く意に介さず、こちらに————大樹の隣の空席にまっすぐ進んでくる。
何食わぬ顔で彼女は席に着いた。
彼女に集まっていた視線が霧散する。何事もなかったように、腫れ物を扱うように。
大樹も目を離せないでいた。愛おしさが込み上げてきた。
何故なら彼女こそ大樹の二人目の想い人————森崎楓なのだから。