「甘く見ない方がいいわ」
「……と、まあこんなもんかな」
大量に吹き出る汗を拭い楓は言った。さっきとはまるで形勢が逆転しスコアは15対27になっていた。案外、呆気ないものだと楓は思った。
楓のやったことはそんなに難しいことではない。
楓が観察して気が付いたのは相手のチームには素人が多いということだった。対してこちらは中学のバスケ部だったり運動神経が優れている者が多かった。
だったらこっちは全員で技術的なことをする。そのほとんどがドリブル、パス、シュートではなくフォーメーションやマークのことだ。
オフェンスは月夜と、あの背の低い先輩を相手にしない。素人なんてドリブルに勢いがあれば簡単に蹂躙できる。
ディフェンスのときのスティールも楽勝だった。マンツーマンを解いて誰か一人をあえてフリーにすれば必ずそこにパスが出されるのだから。月夜には万が一のために途中からはダブルチームでついていた。
そして、この球技大会におけるバスケには特別なルールがある。
バスケットボールは、そのスポーツとしての特性上お互いの体がぶつかりやすい。本当の試合ではそれをスクリーンやラフプレーとして戦術に組み込んでくるが、右も左も分からない者が加わればそこは一気に無法地帯となり怪我人を多く出してしまう結果になる。
そこで藍咲学園の特別ルールとして、ファウルの数は数えないが一度のファウルにつき二点が相手の得点になる。シュート一本決めることの難しさを考えればと同じだけの得点を相手に与えるファウルは極力避けるようになる。これでラフプレーの抑止を図ったはずだったが……。
(こんなルール、逆に使わない手はないでしょ)
月夜たちもこのルールの存在を知らなかったわけではないが、頭に血がのぼっていたことと月夜たち特有の綺麗な戦い方も相まってここまでの大差がつくまで気付くことが出来なかった。
「さて、後半もこの調子でいきますかねー……」
「あの、森崎さん……」
気だるげに伸びをした楓に委員長はおそるおそる声をかけた。
「あ、委員長、どうしたの?」
「いや、私は委員長じゃないけど……汚くない?」
「は? 汚いって何が?」
「こんな……弱い人ばっかり狙うようなやり方とか、わざと転んでファウル取ったり……」
楓は大きく溜息を吐いた。見てみると他のメンバーも委員長の意見に賛成のようだ。煩わしいとばかりに楓はふてぶてしい態度をとった。
「いやいや。ただの作戦だよ、これは。どんな競技にしろ相手の弱点を突くのは当然だし、それで罪悪感を持つ方がおかしいよ」
長い前髪からわずかに覗く楓の目が委員長を見据える。
「言ったでしょ、絶対に勝つって」
そう、勝つ。必ずだ。敗北や失敗はもうしたくない。楓は決意を固くした。
後半の開始を知らせるアナウンスがされ、両チームがコートに出てきた。
「ほら、この調子で行くよ。後半もさっきと同じようにしてれば勝てるから」
楓が他人を激励することは滅多にない。それはそれだけ彼女が真剣であることを示しているのだが、それに気付いたチームメイトはいない。ただ勝つことを目標に機械的に体を動かしているという感じだった。
「………」
だが、あまりそのことを気にしていられない。大差をつけてはいるが、あの月夜なのだ。気を抜き過ぎれば、万一のことが考えられる。
(ま、もう勝ったようなものだけど)
スタートは二年生チームからだ。翠から月夜へボールが渡ったところで委員長と共に一気に間合いを詰める。この人には二人がかりでないと抑えられないが、ここさえ止めてしまえばもう勝ち目はなくなるはずだ。
「悪く思わないでくださいね、朝日先輩」
「いいえ、まさか」
余裕たっぷりだった楓の表情が一瞬曇った。月夜にしては珍しく、人前で口角を上げた。
「少しもそんなこと思ってないから」
その刹那、楓は月夜からのとてつもない威圧を肌で感じた。鳥肌が立ち、体がわずかに硬直した。そのタイミングをついて月夜は二人を電光石火の如く抜き去った。
「しまっ……」
だが、もう遅い。残りの一年生で阻止出来るはずもなく、そのまま得点が決まる。
そこからの展開はワンパターンに月夜一人が攻めることがほとんどだったが、前半に比べてスムーズに得点が決まっている。
「ふうん。やっと本気になりましたか」
楓の声に、自陣に戻りかけた月夜の足が止まる。
「まあ、それが正しいと思います。勝つつもりなら、素人やあの小さい先輩に頼らずにあなた自身でやった方が上手くいきますから」
体育の授業や運動会などでよく見られる光景だが、運動能力に優れていない生徒にとってこれらの行事では陰に徹することを強いられる。しかし、逆にこういう場で活躍する強者には弱者を立たせなければいけない義務が生じる。つまり、大して役にも立たない人間にわざわざチャンスを与えなくてはいけないということだ。面倒でもこれをきちんとこなせば『あの人はみんなに優しい』といったイメージが植えつけられることになるが、ないがしろにするなら『自分勝手な人間だ』と後ろ指を指されることになる。
(はー、めんどうだね……)
一体学校という小さな社会では何をすれば正解なのか。勝ちたい欲求を無理矢理に抑えつければ今度は強者が損をした気分になる。それは馬鹿らしい。才能や特技は十全に発揮され評価されるべきだ。
(ま、この人も結局そっちを選んだってことなんだけど……)
ボールをスローインしゲーム再開。その時月夜はようやく口を開いた。
「一つ、言っておくけど」
「はい?」
「翠たちは強いから……。あまり甘く見ない方がいいわ」
「……ははっ、まさか」
一年生チームの攻撃が失敗し、今度は月夜たちの番。
ところが、今回のボールマンは月夜ではなかった。
「朝日先輩……確かに啖呵切ってたけど、いきなりですか」
翠はトリプルスレットの体勢で楓の前に立ちはだかった。
「悪いけど、あなたには負ける気がしないんで」
「うあー、生意気。篠原くん、こんな子より絶対月夜の方がおすすめだぞー」
「え、待って翠。何の話をしているの……?」
二人が向き合ったまま、数秒が経過する。バスケットにおいて一定時間ボールを持ったままで動かないことはファウルとなる。
(何を考えている……?)
パスコースは塞いでいるし、この人のドリブルスキルも未熟ではないが警戒するほどじゃない。一体――
「!?」
一歩足を前に出した翠がパスの体勢に入った。でもありえない。パスを出せる味方はいないはずだ。楓はちらりとパス方向の先を盗み見て――
(え?)
そこに誰もいないことに気付いた。
踏み出した足を戻し翠はさっきとは反対方向からドリブルで楓を抜く。だがその程度で出し抜ける楓ではない。再び翠の行く手は阻まれてしまった。
「なるほど、でも甘いです」
ただし、翠の策はこれにとどまらなかった。即座に切り替えしを行いボールの持ち手を変える。
「ん!?」
揺さぶりをかけられ、重心が片側に集中してしまう。バランスを失いかけたタイミングを見計らい、遂に翠は楓を突破した。
「よっしゃー!!」
翠のパスがゴール下に渡りそのままレイアップが決まる。
「ちっ……」
甘く見ていた。あそこまで入念にフェイクを織り交ぜられたら、いくら自分でも対応は難しい。わざとではなく、本当に転倒しそうだ。
だが、楓のやることは変わらない。こっちは素人を狙うだけだ。
ボールを持った楓はコートを見渡し未経験者が守っているポジションからの突破を図る。ゴールの目の前には月夜が見える。月夜にとられないようにするためには、そこからパスを出せばいい。
楓は実行に移った。
まず、未経験者をあっさりと抜く。次に出てくる月夜に対応するためにパスを――
「ん……!?」
予想よりもヘルプが早い。パスを出す余裕さえ楓にはなかった。ドライブを止め、その場でドリブルを続け、ボールをキープするがパスターゲットが見つからない。
「ぐっ……、この……!」
そのとき、楓の手からボールが離れた。
なぜ、急に視界にボールが現れたのか楓には理解できなかった。だが咄嗟に振り返るとさっき抜いたはずの先輩がいた。なんてことはない、この人にバックチップをされただけだ。
キャッチしたボールを月夜は力いっぱいに投げた。一瞬で攻守が逆転するのもバスケットの特徴だ。
楓は踵を返しボールの奪取に向かう。パスを受け取ったのは運のいいことに素人の先輩だった。こちらに気付いた様子はない。ブロックへ――
「パス! 後ろ!」
月夜の叫び声に、シュートするところだった手を止め慌ててパスを出す先輩。
楓は舌打ちした。ブレーキをかけ、再び方向転換する。月夜にシュートを打たせるわけにはいかない。
同じタイミングで委員長も守備に戻ってきた。二人でブロックに跳ぶ。
しかし、月夜は見切っていたとばかりに当然のようにパスを出した。そこには別の先輩がいる。緊張した面持ちのシュート。リングの中をしばらく暴れたボールは、やがてネットをくぐる。
「言ったでしょう? 甘く見てはいけないと」
月夜の言葉は、楓の頭の中で何度も反響した。
あんなに激しかった闘争心も、一瞬で消えてしまっていた。