「好きだって言いたくて」
結城かなたは、いつも通りの変わらない日常を過ごしていた。
あまりにも変化がなさすぎて、タイムリープでもしているんじゃないかと思う。
「さすがにそれは言い過ぎだけどさー」
時々こうして独り言で声を出しておかないと、いざというとき言葉が出てこない。
と言っても、ここ一週間の相談室の利用者はゼロだ。多分今日も誰も来ない。
お昼時ということもあってか、校舎内は学生たちの声が溢れている。その喧騒がここまで届くことはないが、かなたはこの時間が好きだった。たとえ一人でも。
「みんな、元気にしてるかな」
神谷と紅葉を始め、大樹たちのその後の動向が気になる。かなたはこれでも教師の立場にあるため、生徒に個人的に連絡はしないようにしている。
体育祭以降は、誰もここに姿を見せていない。便りがないのは元気の証拠だと思いたいが……。
かなたは空腹を感じて、弁当箱を取り出した。最近はやることもないので作れる料理のレパートリーを増やしている。披露する相手がいないのが悲しいところだ。
「いただき、まー……」
突如相談室のドアが乱暴に開け放たれた。叩きつけられて跳ね返った音に驚いて、かなたは飛び上がりそうになった。
そこに立っているのが楓だとは思えなかった。
赤黒い炎が背後に見える。噛みしめた唇は切れて出血しており、猛獣のような熱のある呼吸をしていた。
「ど、どうしたの楓ちゃん」
かなたが歩み寄ろうとすると、楓は彼女を避けて相談室に入る。部屋の中をあっちこっち大股で歩き回って、しかし怒りが治まらないのかついには椅子を蹴飛ばした。
「わ、待って、待って!? やめて楓ちゃん!」
「ムカつく!! イライラする!!」
「お、落ち着いて……」
「生理だから無理です!」
そう。この日、楓は一ヶ月に一度来る体調不良のせいですこぶる機嫌が悪かった。いつもなら持参している薬で対処するところだが、うっかりと切らしてしまい、悲壮な想いで一日を乗り切る覚悟を固めていたところを見知らぬ男に強引に連れていかれ、大樹にはそれを見られるなど散々だった。
「同じ女だから分かるけど、だからって物に当たるのは良くないよ!?」
楓の怒りは収まらない。ひとしきり椅子に八つ当たりした後、ソファに飛び乗ってドタバタと暴れ回る。
そんなに動いて体に障らないだろうか。
「つーか! 私が告白されるところを何度も見てたとか! 何それ!? あいつ何なの!? 脈ナシってこと!?」
「なに!? なんなの!? 楓ちゃんはどこの誰に何を怒ってるの!?」
再び楓は立ち上がり、部屋中をぐるぐると回って今度は机に拳を打ち付ける。
何度も、何度も。
「い、いいかげんに、しなさーい!!」
かなたは手元にあったクッションを勢いよく投げつけた。
楓の顔面にクリティカルヒット。楓は途端にぴたりと止まった。
急に訪れた静寂が、逆に不安を駆り立てた。かなたは身じろぎをせず、楓の挙動を見守る。当たりどころが悪かったのでは……?
重力に従ったクッションがぽろりと楓の顔から剥がれ落ちる。
かなたは息をのんだ。
楓は大粒の涙を流して、泣いていた。口を真一文字に結んで、少しでもこらえようとしているのが、見ていて余計につらい。
「大樹と喧嘩したんです」
楓はクッションをぎゅっと抱きしめる。悪いことをして叱られた子供みたいな所在のなさだった。
「最近、あんまりいいことなくて。嫌なこと続きなのに、今日は体も重いし、薬忘れるし。大樹は全然優しくしてくれない……」
力が抜けたのか、楓はその場にしゃがみこんだ。
慌てたかなたはすぐさま駆け寄った。同じようにしゃがみこんで、顔をのぞきこむ。
幼い子供がするように、楓は表情をぐちゃぐちゃに歪めていた。
「なんでこうなっちゃうの? やだよ、こんな私……」
とめどなく溢れてくる涙を、かなたが優しく手で拭う。楓がかなたにしがみついてくる。
すすり泣く楓の背中を撫でる。大丈夫だと言い聞かせるように。
「頑張ったんだよ? 好きだって言いたくて。でも出来なかった……」
いつの日だったか、かなたは自分がそう助言したことを思い出した。
楓は勇気を出して、大きな一歩を踏み出したらしい。この少女のことをとても微笑ましく思う。
「頑張ったね。えらいよ。だから、いっぱい泣いていいから。…………もう、女の子を泣かせるなんて、篠原くんは悪い子だね」
ここにはいない大樹に想いを馳せた。
彼は今どうしているだろう。
楓が身じろぎをした。かなたが、今度は頭を撫でる。
「……来てくれて、ありがとうね」
かなたは噛み締めるようにして言う。
この場所が、楓にとって心の拠り所になっていたことがとても嬉しかった。かなたを頼りにして、素直にここにやってきてくれたことが嬉しかった。きっと今までの楓なら、また一人で抱え込んでいたはずだ。
ありがとう、と。心の中でもう一度言う。
「かなたん久しぶり~、お邪魔しまー……え!? なにこれ!?」
部屋の惨状を目の当たりにした紅葉は驚愕した。机と椅子がぐちゃぐちゃに荒らされ、書類関係も散らばっている。台風でも通り過ぎていったみたいに見えるだろう。
「なに……? ケンカしたの? え、でもそんなはずないよね。二人とも怪我してない?」
「大丈夫だよ、紅葉ちゃん。これは、その……ちょっと転んじゃってこうなったの。ほら、先生ドジだから」
「いやドジとかそういう問題なのコレ!?」
言い訳にしてはだいぶ苦しいのは自覚してる。
「ごめんね、紅葉ちゃん。せっかく来てもらったけど、ちょっと今から保健室に行ってくるね」
「う、うん」
「楓ちゃん、歩ける?」
楓は無言のまま頷いて、ゆっくり立ち上がるとかなたについて相談室を出ていった。
一人、部屋に取り残された紅葉は改めて部屋を見渡した。
「これはひどいなぁ」
素知らぬふりをして帰るのは気が引けた。
片付けるにも一人だと骨が折れそうだ。
せっかくだから彼を呼んでみよう。どうせ暇だろうから。
◇
誰からの連絡が来ても震えない携帯が、今は音を鳴らしている。
特定の人間からの連絡だけ、通知をオンにしているのだ。
表示されている名前を見て、神谷は出るべきか悩んだ。
しかし一向にコール音が止む様子がないところをみると、よっぽどのことが起きたのではないかと嫌な想像がはたらいた。
「……どうした」
「よかった。出てくれて」
電話越しで久しぶりに聞く————元彼女の紅葉の声。
別れてからそこまで時間が流れたわけでもないのに、ひどく懐かしく感じるのが不思議だ。
「ああ」
「寝てた?」
寝ていた。
自由登校になってから、一日の大半が睡眠だ。人と話すのもそれ以来になる。
寝ぼけまなこをこすり、神谷はあくびをした。
「ちょっと楓ちゃんがピンチなの。今すぐ来てくれない?」
「……森崎?」
突然連絡をしてきたと思えば、予想外の名前が出てきた。
「なんで、俺が」
「だって、やばいんだもん。あの楓ちゃんがぽろぽろ泣いてるんだよ? 絶対何かあったに決まってるじゃん」
「女にしかわからないことかもしれない」
「三人寄れば文殊の知恵って言うじゃん。ねえ、お願い。神谷くんは私が困ってても駆けつけてくれないの?」
さすが、気難しい神谷と付き合っていただけある。
そう言われてしまえば神谷が断れないことを知っているのだ。
だが、今の神谷はいつもより強情だった。
「今は誰とも会いたくない」
携帯を手離し、神谷は長めに息を吐いた。
それでも通話を切れずにいた。拒絶しきれない甘い自分が嫌になる。
「かなたんが困っているんだけど、神谷くんが来なくていいの?」
「……どうしてここでかなたさんが出てくるんだよ?」
自分で言いながら、気付く。もしかして相談室からかけてきてるのか……?
耳をすますと、電話越しにガサゴソと物音が聞こえてくる。響くような大きく鈍い音も。
「紅葉、お前……今何してるんだ?」
「なんだと思う? 当ててみて」
「ガラスの破片とかは落ちてないか?」
「うわっ、すご!! なんでそんな発想になるの!?」
紅葉が嬉しそうにはしゃぐ。こういう無邪気な反応が可愛いと思っていた。
多分、今も少しだけ。
「心配ありがと。そういう危ないのはないけど、机とか椅子とかを起こすのは大変かもなー。あーあ、男手が欲しいなー」
「けど」
「かなたんも喜ぶと思うな~、神谷くんが来てくれたら」
さらに畳みかけてくる。
かなりしたたかになったものだ。
「でも」
「ああ、もうっ!」
痺れを切らしたのか、紅葉が声を荒げる。
「つべこべ言わない! 私もかなたんも、神谷くんに会いたいの! いいから出てこい! どうせずっと引きこもってるんでしょ!? だったらちょっとくらい————元カノの言うこと聞いてよ!」
別れた直後で聞かされるセリフじゃないし、元カノの言うことなんて聞く必要がない————と思いつつ神谷は既にベッドから抜け出していた。
どうせ、気分は晴れないままなのだから、紅葉に良いように使われても構わない。
「今どこにいる」
「もちろん相談室」
「十分もかからない」
神谷の家は藍咲学園からとても近くに位置している。
神谷は久しぶりに制服に袖を通した。