「怒鳴らないで」
そういえばtwitter始めました。
週明けの教室。
もうすぐホームルームが始まりそうになっても楓が姿を現さない。楓は元から遅刻癖はあったからクラスメイトは誰も気にしていない。大樹もいつもなら笑ってしまうところだけど、今日に限っては違う。
昨日楓から連絡があった。それも数回、時間の間隔を置いて。
大樹がそれに気づいたのは夜になってからだった。日曜だったから、本来ならもっと早い段階で目を通すことが出来たはずだったが、昨日は月夜と過ごしていたために確認が遅れた。
先日の誘いを断ってしまった埋め合わせで、月夜と都外まで紅葉狩りに出掛けていた。
二人きりになると悶々とするところだが、大樹は誰かと遠出をするなんて滅多にないことだったから道中かなりはしゃいでしまった。色鮮やかな紅葉に目と心を奪われながら穏やかに流れる時間は、充実そのものだった。
それだけに、楓の連絡を知ったときは浮かれ切っていた気分が急転直下した。帰宅してから慌ててメッセージを送ったがその返事はない。多分未読無視されている。
顔を見たら謝って事情を聞く気でいるのだが、いつまでも楓がやってこないのでやきもきする。
もしかして今日は休みなのでは……と諦めかけたときだった。
後方の扉から、ゆったりとした動作で楓が姿を見せた。安堵しかけたのも束の間、大樹の体が固まった。
一目で機嫌が悪いのが分かる。苛々を隠そうともしていないから、近くにいたクラスメイトがそそくさと道を空けていく。一直線に自分の席に向かってきた楓は、ドスンと大きな音を立てて座る。
「あの、楓……」
「なに」
寝不足なのか声がしわがれている。おっかなさに余計な拍車がかかる。
この時点で、楓の怒りの臨界点が近いことを察した。けれど声をかけてしまった以上、今更引っ込めるとさらに怒らせかねない。
慎重に言葉を選ぶ。
「昨日ごめん。全然気付いてなくて……何か用だった」
「いい。気にしてない。大したことない」
「そ、そう」
早口でまくしたてられて、大樹はすごすごと引き下がった。
さわらぬ神にたたりなし、と言ったところか。
楓の言葉を鵜呑みにするわけではないが、彼女から何も言い出さないなら大事に至ってないと信じたい。
あとは誰かとうっかり衝突してしまわないかが気がかりだったが、心配とは裏腹に楓は粛々と授業をこなしていく。移動教室でのグループ作業も、危なげなくもうじき終わる。
なんだか子を見守る親みたいな気持ちだった。絶対おかしいけど。
四限の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。もう昼か。緊張状態が続いていたせいか食欲はあまりない。
一部、運動部所属の男子たちは勢いよく購買と食堂の方にダッシュしていく。大樹は弁当派なので、多数の生徒の流れに沿って教室まで戻っていく。
楓は少し先を一人で歩いている。楓が単独行動をしているのはよく見かける光景だが、なんとなく今日はそれを見るのが哀しい。
そろそろ機嫌は直っただろうか。声をかけてみようと駆け足をしようとしたところで楓の姿が消えた。
「は?」
一瞬、誰かが楓の手を引いていったように見えた。楓がいなくなった脇道を追いかけると、男子が楓をどこかにつれていこうとしている。男子生徒を一目見て、大樹は察する。どこか浮ついた様子なのが遠目でも分かる。
楓が頻繁に告白を受けているというのは本当だった。
委員長に聞かされたときは半信半疑だったが、ついこの前もその現場を目撃してしまった。してしまったというか、こっそりついていったのだが。
楓はどうして告白のことを隠すのだろう。彼女にそれとなく探りを入れてみても、はぐらかされてしまう。もしかして気になる人でも見つかったのではないか。だから何も言わないのか?
追い続けるべきかどうか迷う。二人は人の少ない特別棟の方へ向かっている。
これから起こるのは十中八九、告白だ。盗み見るのは行儀のよいものではないし、なにより楓が誰かに告白されているところを見るのは————面白くない。
悩んだ末、結局大樹は二人を追いかけることにした。心の中で言い訳をしながら。
その軽率な行動をのちに後悔することになるとも知らないで。
特別棟との渡り廊下までやってきた。
大樹は少し離れたところから二人の様子を窺っていたのだが、ここからでもわかるくらいに険悪な雰囲気だ。
「悪いんだけど。どこの誰だか分からないアンタと付き合うとかありえないから。というか、なんでどいつもこいつも初対面で告ってこれんの? ありえないでしょ。こっちの都合も考えないで呼び出してさ」
呼び出した男子生徒はしどろもどろになっている。こんな風に怒る楓を見たことがなかったのだろう。すごい形相だ。大樹まで肝が冷えてくる。
楓の金切り声が聞こえてくる。
「はあ? ワンチャンいけるかと思った? ワンチャンも何もねーよ、ノーチャンだよ!! そんな軽そうに見える? 正直迷惑なんですけど!!」
段々と相手の方が可哀そうになってくる。
なんでそこまで言われなければならないのか、男子生徒は納得がいかないはずだ。
彼に大きな不手際があったわけではない。ただ、連日色々な人から呼び出されて溜まっていた楓の不快感が、今日になって爆発してしまっただけだ。元から機嫌も悪かったからタイミングが良くなかった。
ご愁傷様。大樹は心の中で合掌した。
これ以上は見ていても仕方ないと判断して引き上げようとしたときだった。
————悪魔の悪戯だろうか。
大樹の懐から携帯電話が滑り落ちる。危機感からか感覚が研ぎ澄まされて、落下の様子がスローモーションに見える。大樹は咄嗟に足を出して、柔らかく受け止めた。我ながらよくやったと一瞬だけ安心する大樹。
数秒後、手に持っていたはずの教科書や筆記用具を全て床にぶちまけられ、派手な音を立てる。全ての神経を足に集中させたせいで、手元がお留守になった。やってしまったと思ったときにはもう遅い。
二人がこちらを見ていた。男子生徒はともかく楓の狼狽は顕著だった。
楓はすぐさまこちらに向かってくる。本能が言う。逃げろと。反して、足は全く動いてくれなかった。
楓が大樹の腕を掴む。逃がさないと言わんばかりに。すごい力だった。
「……消えて」
楓が小さく何か言った。
「こいつと話あるから、消えて!」
楓に睨まれ、男子生徒は足早に去っていく。どこか安堵した表情で。どうやってあの場を収めようかと頭を悩ませていた彼にとっては渡りに船だった。
逆に、大樹は崖から突き落とされた気分だった。
「いつから————いや。ずっと見てたってことだよね。こんなところまで追いかけてきたんだから」
「ごめん」
反射的に謝った。何も弁解することがない。
「なんで」
それは、何故ここまで来たのか、という意味だろうか。
大樹は答えようとして、しかし言葉が何も出てこなかった。自分でも理由が分かっていなかったのだ。楓のことが気になって落ち着かないことだけは確かだが……。
「なんで止めてくれなかったの」
「なんで、って……」
そんなことを言われたって、大樹の中に明確な答えなどない。
答えあぐねた大樹の反応に、楓は舌打ちをした。眉間に皺も寄っている。
何故、ここまで怒っているのかがさっぱり分からない。理不尽だとさえ思う。それでも楓の手を払いのけるまでは出来なかった。
そっと息を吐いた。気を付けないと大樹まで我を失う。
「ごめん。コソコソ覗いてたのは俺が悪い。やっちゃいけないことだった」
理性的に、楓にではなく、自分に言い聞かせる。そうすることで大樹はいくらか冷静さを取り戻すことができた。
「でも止めるとか止めないとかは話が別だよ。本人たちは真剣なんだから俺が邪魔をしていいはずがない」
「そんな人いない。……今までに一人しか」
それって誰だよ。
言い寄ってきた人たちの中に、気になる人を見つけたって意味なのか。
感情が再び逆立つのが分かって、大樹はそれを顔に出してしまわないように必死に隠した。
「それは楓が気付けてないだけでしょ」
意図していなかったのに、突き放したような言い方になってしまった。
わずかに楓の瞳が揺れたが、大樹はそれを見逃してしまう。
「最近じゃ色々な人から声をかけられてるみたいだし」
腕に鋭い痛みが走った。楓が爪を立てている。意識的にそうしたというよりも、自然に腕に力が入った結果だろう。楓自身が気付いている様子がない。
「なにそれ……他にも見てたってこと?」
余計な墓穴を掘ってしまったようだ。確かに何回かそういう現場を見ているが、それがそんなに気に入らないのだろうか。理由としては弱い気がする。
その違和感が、大樹の目を曇らせる。
「私が誰かと付き合ってもいいの?」
質問の意味が本気で分からない。答えられるわけもないし、答えていいわけもない。そんなことは大樹が決めることじゃない。
大樹の意思が入り込む隙なんて微塵も————。
爪がさらに肌に食い込んだ。薄く血がにじむ。だが、もはや痛みなんて感じない。それだけの余裕が大樹にはない。
「一番になりたいって言ったくせに」
頭を思い切り殴りつけられたような衝撃が襲ってくる。ぽつりと、ともすれば聞き逃しかねないのに大樹は一言一句拾い上げた。
このとき込み上げてきた感情を、どう表現していいのか分からない。ただ、ものすごく気分を害したのは確かだ。
「……今そんな話はしてなかったじゃん」
しぼりだした声は震えていた。恥ずかしさか怒りか恐怖か、または期待なのか————ごちゃまぜになってしまった黒い何かに支配されている。
「————それを楓が持ち出すのはナシでしょ」
「もうどうでもよくなったんでしょ」
「何の話なのこれ!? いつも楓のことは気になってるよ! この間だって、何があったんだろってすごい心配したのに結局話してくれなかったのはそっちだろ!」
どれだけ大樹が楓のことを心配し、眠れない夜を過ごしたのかを楓はわかってくれない。
自分が勝手にしていることだから、見返りなんて求めない。言い出せばそれは厚意ではなくなる。
けれど我慢は続かない。そこまで大樹は寛容になれない。
「怒鳴らないで。うるさい。イライラする」
逆撫でするような楓の言葉がひっかかった。
楓の腕を振り払う。傷ついた箇所からわずかに血が流れる。
「自分が機嫌悪いのをこっちのせいみたいに言うな。イライラしてるのは元からでしょ」
「今日は……仕方ないじゃん」
「今日は? なにそれ意味わかんないんだけど。今日何かあるの?」
「何があるとかじゃなくて……やっぱりなんでもない」
煮え切らない楓の態度に、いよいよ大樹の不満が爆発する。
「またそれ!? いい加減にしてくれよマジで! そうやってこれ見よがしに匂わせるだけ匂わせておいて、聞いたら何でもないとか話せないとか! 結局喋るつもりがないならもう黙っててよ!」
きゅっと、楓が唇を固く結ぶ。何かを必死にこらえるように。
楓がそっぽ向く。もう顔を合わせる気もないらしい。
「色々あるの。察してよ」
「事情は何も言わないのに察してなんて自分勝手過ぎる。言われなきゃ何もわからないってば。言いたいことあるならはっきり言って」
「そんなに大きな声出さないで。怖い顔しないでよ」
「誰のせいだと思って……ッ!」
大樹だけが一方的に感情を爆発させているのがみっともなく思えてくる。ここまで怒らせたのは楓のくせに、楓の方は態度がどこか他人事だ。
楓の肩を掴んで、無理やりにこちらを向かせようとした。だが、その前にギリギリで気付く。
楓は顔を掌で覆って、小刻みに震えている。時々しゃくり上げるような声まで漏れている。
冷水をバケツごと被ったような錯覚に陥る。
取り返しのつかないことをやってしまったと、今更になって大樹は認識する。他でもない大樹が、自分自身の手で女の子を追い込んだ。大切だと思っているはずなのに……。
何か言わなければ、何か……。
「そんなに私が嫌いならもういい。————さっさとあの人を選べば?」
大樹を突き飛ばすようにして、楓は走り去ってしまう。そんなに強い力ではなかったけれど、大樹は尻餅をついた。体に力が入ってなかった。
項垂れた姿勢のまま、額を押さえる。そのまま瞳を閉じた。
——一番になりたいって言ったくせに。
——さっさとあの人を選べば?
都合の良い部分だけ切り取って、自分本位の結論に導こうとしていないか。
何かの間違いだと思いたい。けれど、これまでの楓の言動が、行動が、彼女の真意を裏付ける。
一緒に帰ることが増えて、夜明けまで電話をして、ことあるごとに月夜に張り合って……。
そんなはずはないと、無意識に考えないようにしていた。
もし……大樹の推測が正しいものだと疑いの余地なく証明されたら、そのとき自分はどうするのだろう。
あんなに求めてやまなかったはずなのに。
今は、素直に喜べない。