「なに、そのウブな反応」
「……で?」
二人がマンションを出た瞬間の、楓の開口一番のセリフがそれだ。
「で、とは?」
とぼけた月夜の言葉にイラっとする。
「なんで私が朝日先輩に送ってもらわなきゃいけないんですか。私と話したいことがあるから大樹を遠ざけたんでしょ」
「うん。もちろんその通り」
あっさりと月夜は認めた。
どうせ、楓にとって楽しくない会話になることは目に見えている——はずなのだが、少し雰囲気が違うようにも思う。
少なくとも、昨日の大樹の試合の後で呼び出されたときのような、張り詰めた空気は醸し出されていない。
「ところで、あなたの家はこっちの方向で合ってるの?」
「え? 本当に送るつもりなんですか」
「話すのはそのついでだから」
「……道中、後ろから襲ってきたりしませんよね」
「私を何だと思っているの」
と、呆れられてしまったが、まだまだ警戒が解けないのだから仕方ない。
それとなく月夜と隣り合うように歩調を緩める。
なのに、何故か月夜は足を止めて後ろの方を見ている。
「何してるんですか。まさか本当に私の後ろを取る気がじゃないですよね」
「————あ。ごめんなさい。なんでもないわ」
そう言って、月夜は早足になって楓と肩を並べる。
すすっ、とさりげなく楓は距離を取る。
「なんで離れるの」
「いや、怖いんで」
「今日は楽しかったわ」
熱を込めた吐息が白くなって見える。
今日は一段と冷えるようだ。
楓はブレザーのボタンを留める。
「篠原くんのお母さんも妹さんも、面白い人たちだった」
「良く初回で馴染むことが出来ましたね。素直に褒めてあげますよ」
「どうして上から目線?」
「結構時間かかりましたから。私の場合は。……あーあ、朝日先輩に唯一勝ってるところだったのにアドバンテージがなくなっちゃった」
「残念だったわね」
「なんで偉そうなんですか」
大樹たちの目がないからか、舌の滑りが良くなって軽口がよく出てくる。
夜道を歩いているからなのか、それとも単純に疲れているせいなのかは分からない。けれど意外にも月夜と険悪な雰囲気にならない。
静かな湖畔を眺めているみたいに穏やかな心地だ。
一定の距離感を保ちつつ、無言で歩き続ける。
不意に月夜が足を止め、意味ありげにこちらを一瞥した。目の前には小さな公園があった。
それだけで意図は伝わった。
公園の中にはほとんど遊具がなかった。ところどころ錆びている部分も目立っている。多分、日中でも子供たちの姿は見られないだろう。
楓だけがブランコに腰掛ける。
「それで、話は?」
「あなた、森崎奏の妹だったの?」
予想外の一撃。
まったく予期していなかったタイプの攻撃に楓は一瞬で冷静さを欠いた。
「ちょ、ちょっと、待って。え? なんでそう思った? というかなんで今聞いた?」
「深い理由はないわ。ただの興味本位」
非常に迷惑な興味だ。
「あんた、お姉ちゃ————奏のこと知ってたの?」
「どうして無理に言い直したの? しかも顔真っ赤」
「今それ関係ないでしょ! で!? どうなの!?」
「なんでそんなに怒ってるの。————結構有名よ、彼女。実のお姉さんなんだからあなたも分かってるでしょ」
もちろん分かっている。嫌というほど。
実の姉である奏は、幼少期から様々な分野で才覚を発揮した神童だ。このあたりの地域なら、同世代の人間から名前を知られていても何の不思議もない。
そんな天才である奏に、こんな凡人の妹がいることはほとんどの人間が知らないことだった。
「で? 私らの姉妹関係が分かったところで、朝日先輩に何のメリットが!?」
「……もしかして、この話題は地雷? ただの世間話のつもりだった」
「せ、世間話?」
「そう。気に障ったのなら謝る」
そう言って本当に頭を下げてきそうな勢いだった。
別にそんなものは見たくない。
「いい。そこまでしなくて。でも、なんでそんな普通なこと聞いてくるの? 今更」
「理由は……さっきも言った通り、特別なことじゃない。ただ、なんとなく。よく考えてみたらあなたのこと良く知らないと思って」
「別に、知らなくても良くないですか?」
「……今日のあなたを見ていたら、私にはそう思えなくなった」
楓は直感する。
今この瞬間、朝日月夜と森崎楓の関係性は変化した。
篠原大樹がいたから、お互いに存在が繋がっていただけだったのに、月夜はそれを無視して楓に興味を持ち始めた。
曇りない眼を向けられると、居心地の悪さを感じた。
この感覚、何度も経験がある。奏に見られているときと同じだ。
「朝日先輩は、兄弟姉妹はいますか」
「いえ。一人っ子」
「じゃあ、あまり分からないかもね。身近な存在と自分を比較され続けるのってかなりしんどいんですよ。優秀すぎるとなおのこと」
別に隠したい過去じゃない。そんなに知りたいなら聞かせてやる。
姉のこと、両親のこと、そして自分がどういう風に育ってきたか。
大樹や、相談室の面々に話した内容をそっくりそのまま伝えた。
姉は現在、京都で一人暮らしをしているが、一緒に暮らしていた頃は本当につらかった。唯一の味方は奏だけだったけど、楓を最も苦しめたのも奏だったと思う。本人にそんなつもりはなかったところが余計に。
自分の昔話を、朝日月夜にまで知られることになるとは夢にも思っていなかった。
「羨ましい」
語り終えた楓に、月夜は答えた。
その感想は、楓にとっては理解不能だった。
「話聞いてた? 今の話のどこに羨ましい要素があるの?」
「そんなすごい人が家族だから。私だったらずっと一緒にいたいって思う」
「……確かに、奏とあんたは気が合いそうだね」
どちらも神懸った人間なのだから。
奏と月夜が並んだ絵面を想像してみる。かなりおぞましいものだった。
「なんだか年上の女の人が嫌いになりそうだよ」
「? どうして?」
本当に分かってないようだった。楓は呆れてしまい、話を終わらせる。
急に静かになったことが気にかかったのか、月夜が首を傾げる。やがて、何かに気付いたように手を叩くと、
「私の幼少期は————」
「興味ないんで喋らなくていいです」
速攻で黙らせてみる。話を遮られた月夜は意外にも落ち込んでいた。
さすがに悪いと思って、話を広げてみる。
「だって、朝日先輩の成功物語とか聞いても面白くないですもん。結構遺伝も恵まれたでしょ?」
「……母は、確かに身内から見ても綺麗な人だとは思うけど、両親とも普通のサラリーマンと主婦よ。特別凄いところはないと思う」
「ふーん。それはそれで意外だけどさ」
こんなもんでいいかなー、と思って楓は適当に返事した。月夜も、もう自分の話をする気はなくしてしまったらしい。
「そうそう。これだけは確認しておかなきゃと思ったの」
「何?」
「あなたは、不可抗力とはいえ数日間篠原くんの家に泊まった」
「え? まあ、うん」
「夏休みのときもそうだったと」
「よく知ってるね朝日先輩……。ちょっと怖いわ」
実は夏休みの時期にも大樹の家に泊まったのだが、そのときは大樹のことを何とも思っていなかった。
何の心構えもしていなかった楓は、続いての月夜の言葉に混乱することになった。
「森崎さん。篠原くんとえっちした?」
「————。 ? !?!?!?」
脳の処理速度が追い付かない。楓はここで一時思考停止。
だが、すぐに再起動して月夜の言葉をのみこむ。湯気が出そうなくらいに楓は顔を赤くした。
「なぬ、なにを————なんてこと言うの!?」
「なに、そのウブな反応。女の子みたい」
「女の子ですけど!?」
対照的に、月夜は涼しそうな顔をしている。
「——うん、なんか、してなさそう。それとも嘘ついてる? 別に本当のことでも怒ったりしないけど?」
「いえ!! してません!! してないです!!」
両手をぶんぶん振って必死に否定する。
つい敬語まで使ってしまう。いや、使うべき相手ではあるのだが……。
「ふーっ!! ふーっ!!」
またオーバーヒートしそうだ。
急激な体温上昇を避けるためにブレザーを脱いだ。
冷たい空気に当てられていくうちに少しずつ余裕が戻ってきた。
「まったく——うちの姉といい、あんたといい、どうしてすぐそういう話に持っていきたがるんですか。年中サカってんですか?」
「あなたは一切そういうことを考えないというの? 私たちは十五年以上生きてるの。性的な欲求だってあって然るべきでしょう。何を純情ぶってるの」
「ぐっ……!?」
妙に説得力があるし、正論でもある。
ただ、この手の話が得意ではない楓は赤い顔のまま口元をもごもごさせるだけだった。顔を俯かせ内股に両手を挟む。
「……なんだか、初めてあなたが可愛く見えてきたわ」
それはどうも、と軽口を叩くこともできない。
事実確認を終えた月夜はご満悦のようだった。
「何もないならそれでいいわ。関係があってもなくても気にしない——と言いたいところだけど、やっぱり一生ものの出来事になるだろうし、はっきりさせておきたかった。ごめんなさいね」
「いえ……まあ、いいですけど」
「じゃあ次は篠原くんのセックス観を知りたいんだけど何か聞いてる?」
「うがあああ!!!!」
これで解放されると思ったのも束の間、間髪入れずに月夜は爆弾を投下。
「ちょっと。近所迷惑。はしゃがないで」
「知るかあ!!」
「気にならないの? いずれ、避けて通れないことなのに」
「い、今考えなくてもいいでしょ!? 付き合ってから考えなよ!」
「私は不安で仕方ない」
月夜は胸に手を当てた。
そして恨みがましく楓を睨む。
「誰かさんに言われるまでもなく————胸の大きさには自信がないの。平均以下だと思う。ねえ、篠原くんはそれでも満足してくれる?」
「そんなに気になるなら大樹に直接聞けば!?」
「そんなの無理。はしたない女だと思われる」
「なんでそこの判断だけまともなんだよ! 大樹も薄々気付いていると思いますけどね!」
月夜がショックを受けていた。なんでバレてないと思ったんだ。
「この話終わり!」
「まったく、あなたは……。あれも嫌、これも駄目って——我儘過ぎる。じゃあどんな話題ならいいの?」
「私はそもそも帰りたいんですけど!? いや、てかマジでなんだこの会話……」
わずかなやり取りでしかないのに、すごい疲れる。
こんな人を普段から相手にしてきた大樹や翠は何者なんだ。
項垂れていると、頬に冷たい感触。飛び退こうとして、目の前に飲み物を差し出されていることに気付いた。すぐそこの自販機で買ってきたものらしい。
ずっと立っていた月夜も、隣のブランコに腰かけた。
ちびちびと二人で飲む。
こうしていると、ただの仲の良い先輩後輩にしか見えないだろう。
ついさっきまでお互いに足を引っ張り合い罵り合う醜い関係だったのに。
月夜が歩み寄ってくれなかったら、こうはなっていなかっただろう。
それなら————。
「私から一個聞いていいですか」
「どうぞ」
「なんで、大樹のことを好きになったんですか」
途端、月夜は瞳を輝かせた。
「気になる?」
「ま、まあ」
「初めて会ったとき、私のフルネームを素敵だって言ってくれたこと。私にいやらしい気持ちで接してこなかったこと。私の無茶ぶりにいつも付き合ってくれたこと。口下手な私の話でいつも笑ってくれたこと。落ち込んだときに励ましてくれたこと。
久しぶりに会ったときも変わらず声をかけてくれたこと。また同じ部活に入ってくれたこと。————私が自分を見失ったとき、必死な顔で一生懸命に向き合ってくれたこと」
ひとつひとつ、大事な思い出を慈しむように、そして熱っぽく月夜は語る。
こんなに嬉しそうに笑える人だったんだ……。
「……ふふっ」
唐突に月夜は吹き出した。必死に笑いを堪えようとして失敗したみたいだった。
「なんですかいきなり。きもちわるい」
「ひどい言い草だけど……。だって、こんなに楽しいことは今までになかったから。やっぱり、好きな人の話ができるのは嬉しい」
「恋バナ初めてなの? そんなの、今までだって誰とでも話せたでしょ。翠先輩とか」
「その通りだけど……でも、惜しいことに篠原くんの良いところに気付いている人は少ないから。あなたみたいに、篠原くんのことが好きな人と話していると、やっぱりテンション上がる」
共通のものが好きだと、異常に盛り上がったりするアレか。
「ねえ、楓は篠原くんのどういうところが好き?」
「なんで、名前呼び?」
「これだけ色々話すのに、他人行儀な呼び方をするのが気持ち悪いの。あなたと仲良くなりたいわけではないけれど————楓のことはライバルだと思っているから」
ライバル。
随分手強い相手ができてしまったものだ。譲るつもりは一切ないが。
「それで、どう?」
「結婚したら一生養ってくれそうな経済力が期待できるところ」
「———あなたのこと、今なら分かる。そうやって捻くれたことを言うのは、照れ隠し?」
「うっさいです」
見事に言い当てられたことが恥ずかしくて、月夜をはたこうとするも、ちょっと手が届かない。
「私のことも月夜って呼んでいいよ」
「いきなりは恥ずかしいんで、そのうち徐々に慣らしていくようにします。つっきー先輩」
「え、なにそれ新しい」
ほどなくして、語るべきことを語り終えた楓たちは帰路につくことにした。
月夜は結局、本当に楓を家まで送ってくれた。
「今日はありがとう、楓」
「お礼を言われることは何もないですけど。つっきー先輩、本当に一人で大丈夫ですか。大樹じゃないですけど、ちょっとだけ心配しますよ」
夜も深まっている。このあたりの治安は良い方だが、万が一がないとも限らない。
「じゃあ楓の家に泊めてくれるの?」
「それは個人的に嫌ですし、親に何て説明していいのか分からないんで困るんですけど……。必要とあれば頑張ります」
「有難いけど、大丈夫。少なくとも今夜は大丈夫って言い切れる」
「……? なんで?」
「さあね」
はぐらかされてしまった。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
楓はせめてもと思って、月夜の後ろ姿が見えなくなるまで見届けた。
気付いていたのか、月夜は最後に手を振ってきた。
「なんであんな嬉しそうなんだ……?」
◇
「そこにいるの? 篠原くん?」
「あー、やっぱり気付いてましたか」
物陰から姿を現したのは篠原大樹。
楓たちが篠原家を出たときから、こっそりと後を尾けていたのだ。
「チラチラこっちを見てましたもんね」
「大丈夫って言ったのに、結局ついてきたんだね」
「色々と心配だったので。……本当、色々な意味で」
二人でまた喧嘩をしないかとヒヤヒヤしていた。途中、公園に入っていったときはやっぱりとまで思ってしまった。
そんな大樹の言葉を、月夜は好意的に解釈したようだ。
「そう、そこまで私のことを……」
「杞憂だったみたいですけど」
「ううん。そんなことない。嬉しい」
月夜はおもむろに大樹の手を握る。大樹はたじろいだ。
「せっかくだから送ってほしい」
「最初からそのつもりでしたからそれはいいんですけど……あの、手」
「今夜は寒いから。それだけ」
「そう、ですか」
大樹は月夜の手を振り解かなかった。しっかりと握り返し、ゆっくりと歩み出した。
月夜はずっとご機嫌だった。