「メシマズキャラじゃあるまいし」
「あ、あ、あ、お、お、お?」
「紗季、落ち着いて」
出迎えてくれた妹が壊れたロボットみたいにバグっている。視線はもちろん、月夜に釘付けになっている。
「お、お、落ち着いてるよ? ちょっとどうやって息をするのか忘れそうなだけで」
「思い出そうよ」
お前にまで倒れてほしくない。
気持ちは分からないでもないが。今まで散々月夜のことでからかわれてきたが、紗季は月夜とは初対面になる。
朝日月夜と初めて会う人は、だいたいこんなリアクションになる。
玄関での騒がしさが気になったのか、紗季の後ろから母が姿を見せる。
「おかえり、大ちゃん」
「ただいま、母さん」
その瞬間、月夜の瞳に光が走る。彼女は背筋を伸ばして早口でまくし立てた。
「突然お邪魔して申し訳ありません私は篠原くんと同じ藍咲高校の二年生で朝日月夜と申します日頃から篠原くんには部活等でお世話になっておりまして本日はお母様や妹さんにお会いできてとても光栄で」
「センパイ息継ぎ忘れてません!?」
肺の中の空気を全部使いきる勢いで喋り出す月夜にストップをかける。
ぜえ、はあ、と案の定彼女は息を乱す。
「はい。月夜ちゃんとこうしてお話するのは初めてですね。私もお会いできて嬉しいですよ」
「つ、月夜ちゃん……?」
慣れない呼び方のせいか、月夜が口元をもごもごさせる。
「いきなりでご迷惑ではないでしょうか」
「とんでもないことです。大ちゃんがお世話になっているのに迷惑だなんて思えません。……それに、貴方のことは大ちゃんからよく聞かされていますから」
「えっ。ど、ど、どのように聞いてますか」
「それはですね——」
「母さん! いつまで立ち話させる気なの? とりあえず中に通すよ」
「そうですね。私としたことがついうっかり」
あんたはいつもうっかりだ。
それはそうと、母が余計な口を滑らせなくてよかった。別段困ることもないのだが……こういうのはなんとなく気恥ずかしいものだ。だが、やはりと言うべきか、月夜は気になったようだ。
「し、篠原くん。お母さんにどんな話をしてるの? 変なことじゃない?」
「何もないですよ」
「すごく、気になる」
「お兄ちゃん、いっっっつも月夜さんの話をしてたんですよ」
紗季め。余計なことを。罰としてデコピンの刑に処すと「あいたー!」と悶えた。
月夜の追及の視線が強くなった。しかし若干顔が赤いので全然怖くない。むしろ可愛いくらいである。
「なーんか。ここまでほったらかしにされると悲しくなるね。私はお邪魔だったカナー」
ちょっとだけ拗ねた口調で楓が言うと、紗季が飛び跳ねるようにして楓に抱き着いていった。途端に機嫌を直すものだから、楓は紗季にだいぶ甘い。……自分も人のことは言えないけど。
楓と紗季がくっついている光景を前に、月夜は一言。
「……随分、妹さんと仲が良いみたいね。森崎さん」
「当然っすよ。紗季ちゃんは私にとって妹みたいな子なんで」
「へえ」
また火花が散った。なんか雲行きが怪しくなってきたぞ?
大樹が仲裁すべきか迷っていると、楓が不意に紗季の頬をつまんだ。なにをやっているんだ……?
紗季も楓の意図が読めなかったのか「?」を頭に浮かべる。
楓がほっとしたように溜息をついた。
「良かった。痕になってないね」
「……! うん! すぐ治っちゃったよ」
紗季が嬉しそうに頬ずりする。
大樹は目を見張った。もう、あれは一ヶ月も前のことだ。もしかして楓はずっと気にしていたのだろうか。
なんだか、たまらない気持ちになってきた。
「しっかりとアフターケアしたからな。傷なんて残させないよ」
「うん。今回ばかりは素直に褒めてあげるよ大樹。よくやった」
「なんでそんな偉そうなんだよ」
そのタイミングで紗季のお腹が鳴った。
恥ずかしさからか、紗季に恨みがましい視線を向けられた。
「お兄ちゃん、何か作って」
「はいはい、もう……」
帰宅途中に寄った購入した食材と冷蔵庫の残り物を整理する。
テキパキと仕分けをしていると、月夜が棒立ちになっていることに気付いた。
……いかん、客人をほったらかしにしてしまった。
「すみません、センパイ。そのへんでゆっくりしていていいですから」
「————。ん? なに?」
きょとんとした顔を向けられる。
あれ、なんだその反応……?
「センパイはお客さんなので、ゆっくりくつろいでいてください」
「……前に聞いたことがあったけど、家事は全部篠原くんがやっているんだったね」
「ええ、まあ。母さんも紗季も、からっきしダメなので」
「確かに、お母様が動く素振りはないわね」
大樹の母はいつものソファに腰かけてくつろいでいる。
大樹が食事を貢いでくるのを待っているのだ。月夜にとっては物珍しい家庭だろう。なんだか急に恥ずかしくなってきた。
「あ、でも、別に俺も嫌でやってるわけじゃないですよ? 最初は慣れないことも多かったですけど、今じゃそんなに大変じゃないです」
「ふーん」
聞いているのか、いないのか。
月夜はキッチンをじっと眺めている。いや、眺めているというより観察に近い。ときどき指でなぞったりもしている。
「水回り綺麗……ホコリも落ちてない……」
なにやらブツブツ言い出した。
嫁にケチをつける姑みたいなことを言い出すのではないかとヒヤヒヤする。
と、思いきや急に真面目な顔でこちらを見つめてきた。
「篠原くんに主夫になってもらうのも、アリ」
またバカなことを言ってのけてくる。
「べ、別にこれくらい普通ですよ」
「学校で勉強して、部活も頑張って、家事もこなす男子高校生を、私は普通だと思わない」
そう、なのだろうか。
これが大樹にとっての日常だから疑問に思ったことがない。
「今日は私も手伝う」
言いながら、月夜がヘアゴムで髪を縛る。
「いや、ほんと。お気遣いなく」
「大丈夫。足手まといにはならない。これでも調理実習の授業では『優』しか取ったことがないから」
「それは、頼もしいですね」
大樹は苦笑した。
調理実習の評価基準は、そんなに厳しくない。大樹も『優』しか取ったことがない。だが月夜があまりにも誇らしげに言うものだから、このことは黙っていようと思う。
それに、純粋に朝日月夜の腕前が気になる。
「じゃあ、ちょっと手伝ってもらっていいですか」
「任せてほしい。エプロンを借りても?」
「ああ、それなら——」
「そこのタンスの引き出しに入ってますよ」
大樹の言葉にかぶせるようにして、楓が助言する。
姿勢が妙な状態のまま月夜は動きを止めた。
「あと、調理器具一式はすぐ下のところにしまってますから」
「まるで勝手の知れた我が家のようね」
「実際そうなので」
楓の言葉は、大袈裟なものではない。
大樹が部活の合宿でいなくなる期間で留守を任せていたし、文化祭前の一件でも泊っている。大樹の家のどこに何かを置いてあるかくらいは全部把握しているだろう。
「あなたも手伝いなさい」
「今日の私はお客さんなので、のんびりさせていただきま~す」
そう言って、楓はソファに深々と座った。スマホをいじり始める。
「そんなこと言って、本当は料理できないだけじゃない?」
「あ?」
あ、また喧嘩の予感……。
予感はあっさり的中した。
「調理実習の評価なんて全くアテにならないっすよ。あんなの完成さえすれば良いんですから。調子乗らないでください」
「口だけなら何とでも言える。そうね——お互いに一品作って、どちらがより美味か篠原くんに決めてもらうなんて、どう?」
「………」
楓がそこで無言になった。白けたような顔で月夜の方を見ている。相手にする気が全くないようにも見えるのだが、何故か月夜からの視線を外さない。
大樹はただ、小さくなって成り行きを見守るのみである。
やがて、楓は髪をくしゃくしゃと掻くと勢いよく立ち上がる。
「望むところ」
やるの!? 大樹は驚愕した。
大樹は嫌な汗をかき始めた。これは、どっちを選ぶべきなのだろうか。どっちを選んだとしても揉めるのは目に見えている。まだ料理を出したわけでもないのに、これから起こるかもしれない修羅場に大樹はガタガタ震えた。
そんな大樹の苦悶を知らずに、二人は勝手に盛り上がっている。
「ね、ねえ、お兄ちゃん。もしかしてなんだけどさ、楓さんと月夜さんって仲悪いの?」
「い、いや、そんなことないよ」
否定したものの、説得力は皆無だ。
何故なら目の前でさらに二人はヒートアップしているから。
「度胸だけは認めてあげる。でもあんまりなものを作らないでね。食材がもったいないから」
「漫画に出てくるメシマズキャラじゃあるまいし。そんなのは作らないですよ。それに少なくとも大樹のお母さんと紗季ちゃんのお墨付きですから。下手したら朝日先輩よりおいしいかもしれないですね」
「言うじゃない。負けたときのあなたの顔が楽しみ」
「こちらこそです」
楓が腕まくりをし、いざ勝負開始という時だった。
「楓ちゃーん。お紅茶がほしいです」
母の間延びした声が届く。
「あ、はい。ただいま」
途端に背筋を伸ばし機敏な動きを見せる楓。なんでそんなナチュラルにこき使われているんだ。
「楓。いい。俺がやる」
「いいよ、これくらい」
手際よくティーセットを用意し、楓はまずお湯を沸かし始めた。完全に沸騰するまで待つ間に楓はスマホを取り出した。タイマー機能を起動させている。
「森崎さん?」
「朝日先輩、すみません。これ、少しも気が抜けないんで話しかけないでもらえますか」
乱暴な言い草なのに、月夜から抗議の声はない。
それだけ今の楓が真剣に見えたからだろう。
「センパイ。今のうちにご飯作っちゃいましょうか」
「むむむ……」
女子らしからぬ唸り方だ。
だが、楓がこちらを全く相手にしていないのが分かったようで、やがて観念したように肩を落とした。
「今日のメニューは?」
「さあ、どうしましょうか」
「なら肉じゃがを作る」
「あ、はい」
「とびっきり美味しいのを作って胃袋つかむ」
「はい。楽しみです」
すごく意気込んでいる。
大樹と月夜が一緒に皮むきをしている間に、紅茶の準備も整いつつあった。楓のタイマーが音を鳴らす。
スプーンで紅茶を一度かき混ぜ、茶こしを通してポットに移す。最後の一滴まで余さず注いでいる。あとはカップに入れるだけだ。
楓は緊張した面持ちで紅茶を運ぶ。
母が嬉しそうにカップを受け取り、口をつける。
「——おいしいです。とても上手になりましたね」
「ありがとうございます。……まあ、あれだけ仕込まれたら上手くなりますよ」
マジかよ。
紅茶に関して母から「おいしい」の一言をもらうのは結構難しい。自分で用意できないくせに味に一切妥協しないので、大樹も初めの頃は何度も作り直した。
「楓ちゃん。最近はどうですか」
「別に普通ですけど」
「そうですか。楽しそうで何よりです」
「あれ、人の話聞いてる……?」
マイペースな母のリズムに振り回されている楓。
「でも、元気になっているみたいで良かったです」
「………」
「また何かあったら遠慮なく言ってください。大ちゃんがなんとかしますから」
「俺かよ!?」
思わず叫ぶ。そこは母さんが頑張るところじゃないのか。
「いえいえ。大樹の手を借りるまでもないっすよ」
「………」
勝手に名前を使われた挙句いらない子扱いされた悲しい男子生徒が一名。
「楓ちゃん。あなた……」
「はい?」
「いえ、なんでもありません。全部大ちゃんが決めることだと思いますから。どんな結果になってもきっと楽しいでしょうし」
これは何の話だろうか。首を傾げていると母がこっちを見て微笑んでくる。
だが、何故か母と目が合わない。遅れてようやく気付く。目が合っているのは月夜の方だ。
月夜は調理の手を止めている。戸惑う様子はなく、むしろ泰然とした姿だ。
「肉じゃが、楽しみにしていますね」
「——少々、お待ちください」
月夜は前のめりになっていた。