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「絶対ついていく!」


「……今更なんだけどさ、なんでこうなったの」


 右隣の楓が言う。場所は大樹のマンション、そのエレベーターの中だ。今朝の約束通り、大樹は楓を自宅に招待することになった。


 しかし楓は物凄く不機嫌そうだった。いや、間違いなく不機嫌だ。大樹と決して目を合わせることはなく、少し斜め上に視線を向けている。楽しみだと言っていた人間と同一人物とは思えない。


 その原因は、この場合はっきりしている。


 大樹は左隣————本来ここにはいないはずだった人物に目を向けた。

 彼女にしては珍しく、その端正な顔が強張っている。それは緊張から来るものだろう。そわそわとしていて落ち着きがない。


「な、なんとなく予想していたことではあるけど————篠原くん、すごいところに住んでいるのね」


 朝日月夜の声は震えていた。初めて大樹の家を訪れる者は、大抵こういう反応をする。楓のときもそうだったらしい。後で紗季から苦笑いで聞かされた。


「親がお金持ちってだけですよ。俺としては普通の住宅街の……二階建ての一軒家とかに憧れます」


 何年も住み続けているマンションだが、未だに慣れてこない。ホテルか何かの間違いだと思う。外観からして敷居が高すぎるのだ。


「そう、なの? じゃあ、私の家がそうだから今度遊びに来て。いつでも歓迎するから」


「大樹。私の家も同じ造りだよ」


 バチバチと火花が散った。きっと気のせいではない。


 真ん中に挟まれている大樹は生きた心地がしない。


 この空間から逃げたい。大樹はエレベーターが早く着いてくれることを切に願った。





 時間が少し巻き戻り、昼休みのこと。


 楓とのジャンケンで負けた大樹は、彼女に飲み物を貢ぐべく自販機まで足を運んでいた。教室から一番近い場所でも食堂まで来なければならないので地味に遠い。学食を利用する生徒が多くて人混みもつらい。さっさと帰ろう。


「ミルクティーと……ついでに俺の分も買っておこうか」


 甘いジュースはあまり好んで飲まない。大抵お茶を選んでしまう。

 いつも通りの結論に落ち着いたところで、不意に横から誰かの指がすっと伸びてきた。ガコン、と音を立ててお茶が落ちてきた。


 ぎょっとして振り向くと、そこには月夜がいてさらにびっくりした。


「センパイ!?」


「これで合ってる?」


 取り出し口からお茶を取り出し、月夜が差し出す。大樹は困惑しつつ受け取った。なんで俺が選ぼうとしたものが分かったのだろう。


「いつもそれ飲んでるから」


 先んじて疑問に答えてくれる。

 嬉しいような怖いような複雑な心境だ。


「どうしてセンパイが? お弁当派ですよね?」


「今日はクラスメイトと一緒に来てる」


 月夜の視線を追う。男女5、6人くらいのメンバーが集まっている席を見つけた。中に翠の姿も見られる。手を振られたのでこちらもそれに倣う。


「珍しいですね。人が多すぎてあまり好きじゃないって言っていたのに」


「うん。空いてる席は中々見つけられないし、長居するとまだ座れていない人たちからのプレッシャーがすごい。安いのは良いけど定食もの以外は栄養バランスが偏ってしまうのも気になる。翠たちの会話はスピードが速くてすぐに置いていかれちゃうし」


「思ったより不満多くないですか!?」


「でも————ああやって、大勢でご飯を食べるのが楽しいっていう気持ちも、最近わかるようになってきた」


 月夜が翠たちを遠目に見つめる。その目元は柔らかかった。


「————」


「……? どうして不思議そうな顔をして見つめてくるの?」


 月夜に問いかけられて、放心していたことに遅れて気付いた。

 大樹は苦笑した。


「いえ、本当に変わったなと思って」


 彼女は人の機微にものすごく疎い人だった。自分のこと以外に興味がなくて、そんな生き方を微塵も疑ったことがなかったのだ。

 月夜の周りにはいつも人が集まった。それなのに彼女はいつも孤独だった。その珍妙な光景を目の当たりにするたびに、大樹はいつも胸が苦しくなった。


 それが今はどうだろう。

 たった数日で価値観が変わってきている。彼女は人に興味を持ち、そして不器用ながらも少しずつ彼らに歩み寄っている。

 考え方の変化は、良い悪いなんて簡単な話で片付けられることではないが……その満更でもない横顔を見てしまったら、そっちの方がずっと好ましく思えてしまうのだ。


「やっぱりセンパイは天才ですね」


「そう言われるのは好きじゃない。私だって頑張ってる」


「はい。いつも見ていたので知っています。まさしく努力の天才ですね」


「……調子、狂う」


 じとっとした視線を受ける。多分今、彼女は照れているのだろう。その顔が赤くなっているかは残念ながら分からない。何故なら——


「ところでセンパイ。風邪ですか」


 月夜はマスクをしていた。どこか調子が悪いのだろうか。体調を崩すのは、月夜にしては珍しい。


「いえ、そういうわけではないの」


 そう言って、月夜はマスクをずらした。確かにここまで話してて不調は見られなかった。喉が枯れているということもなさそうだし。


「どうしてマスクしてるんですか」


「ちょっと顎を殴られ————ぶつけて怪我をしてしまったの」


「殴られ?? え? ……え?」


「ぶ、つ、け、た、の!」


 珍しくすごい剣幕だ。

 マスクが顎周りを隠しているので、どういう状態かは把握できない。月夜自身、あまり見られたくないようなので、じろじろと見るわけにもいかないが。


「腫れはそんなにひどくないけど、ちょっと恥ずかしい」


「なんだか、今日は俺の周りで怪我人が多いです。楓もたんこぶ作ってましたよ」


「——へ、へえ。そうなの。森崎さんも。すごい、偶然」


 何故だか、月夜が動揺し始めた。若干、話し方も棒読み気味だった気がする。

 その態度が気がかりで、大樹が追求しようとした刹那、月夜の機転の一言が飛び出す。


「どうしてそんなものを持っているの?」


 月夜が指差したのは、大樹が手にしたミルクティー。大樹は甘い飲み物は口にしない。それは月夜も知っていることだ。


 咄嗟に言葉が出てこない。正直に言ってしまうと、月夜が不機嫌になるのは容易に想像できたからだ。だが、大樹が口を噤むことを、月夜は許してくれない。


「……楓の分です」


「————。ほんと、仲良い」


 予想に反して、呆れたような態度。溜息は重苦しかった。

 落ち込んでいる様子だが、大樹がかけるべき言葉などない。大樹は月夜の想いに応えることは出来ないのだから。


「今日の放課後空いてる? 部活もないから、少し付き合ってほしい」


「いやー、その、今日はちょっと駄目というか、先約があるというか」


「————森崎さんね?」


 なんで分かるんだ。

 隠し事が全部バレてしまう。もうこの人は探偵にでもなった方がいいのではないだろうか。


「ちょっと、大樹! いくらなんでも遅すぎ! 昼休みが終わっちゃうで、しょ……?」


 大樹は頭を抱えた。


 帰りの遅い大樹を案じたのだろう。楓がやってきてしまった。今、一番ここに訪れてほしくない人物だった。


 楓と月夜は、お互いに目をすっと細めた。表面上は笑顔を貼りつけて、二人は対峙する。


「こんにちは、森崎さん」


「ええ。こんにちは。朝日先輩」


 軽く挨拶しただけなのに、やたらピリピリするのは何故か。


「ところで森崎さん、頭大丈夫? あ、ごめんなさい。今のはその不自然に盛り上がったタンコブのことを言ったつもりだったの。これに懲りたらセクハラまがいの言動と行動は慎むべきだと思う」


「あらー、お気遣いありがとうございますぅ。ちなみに朝日先輩は何でマスクなんてしてるんですかー? せっかくの綺麗なお顔が見えないのはもったいないですよ。大好きな大樹に見てもらったらいいじゃないですか。ほらほら、そのマスクは私が預かりますから、取っちゃってくださいよ!」


 二人の取っ組み合いが勃発した。


「急にどうしたの!?」


 顔を合わせたと思ったらいきなり険悪な雰囲気になって喧嘩が始まった。大樹は間に割って入って二人を引き離す。

 一通り暴れて気が済んだのか、二人は意外にもあっさりと引き下がった。楓も月夜も息切れしていた。


「はあ、はあ……。こんなところで騒いでちゃ、いい見せ物っすよ。私らはこれで失礼するんで。それじゃ朝日先輩、さようなら」


「待ちなさい、森崎さん。放課後に篠原くんと予定があるみたいだけど、そこには私もお邪魔するから。勝手についていくからそのつもりで」


 え? マジで? センパイがウチにくるの? え?

 大樹が動揺していると、楓はスタスタと月夜に歩み寄った。何を話しているのかは全然耳に届かない。


「フラれたんだからおとなしく引っ込んでいてくれませんかねえ」


「別にフラれてない。まだ保留になってるだけ。だいたい、篠原くんは誰とも付き合ってないんだから何をしても私の勝手」


「——残念でした。昨日から私と大樹は付き合ってます」


「はいはい、嘘乙」


「あんたネットスラング使うの!?」


 何を言い合っているのかは分からないが、大変盛り上がっているようだ。


「とにかく絶対ついてこないでくださいね!」


「絶対ついていく!」




 そのようなやり取りがあった数時間後。


 月夜は本当に大樹たちの前に現れて、そしてこんなところまでついてきてしまった。


 最初はしてやったような顔で勝ち誇っていた月夜も、どこに向かっているのかを察すると段々と余裕をなくしていった。当然ながら、月夜が大樹の家に訪れるのは初めてのこと。余程の緊張からか、顔面からは色素が抜け落ちて真っ白になっている。


「……平気ですか」


 今にも倒れそうだ。


「いきなりこうなるなんて思ってなかった。よりにもよってこんな顔のときに初めてのご挨拶なんて……第一印象が大事なのに。それに手ぶらでやってきてしまった。ねえ、篠原くんのご家族はそういうところに厳しくない?」


「後輩の家にきただけなんですから、もっと楽にしてください」


 母も妹、そんなことで機嫌を損ねるような性格ではない。ただ、あの朝日月夜がいきなりやってきたらどういうリアクションをするのかは未知数だ。そこだけは大樹も心配している。


「嫌なら帰ればいいじゃないですか。誰も止めませんよ」


 嫌味な言い方をする楓にカチンときたらしい。大樹を挟んで、二人が睨み合う。


「森崎さんが帰るなら、考える」


「なんでそんなことしないといけないんですか。私は普通に遊びにきただけなんで。朝日先輩が思うようなことは何も起きないっす」


「どの口が言うの?」


「ちょっとストップ」


 二人の喧嘩を仲裁して、楓に小声で耳打ちする。


「ねえ楓……。なんでそんなにセンパイと仲悪いの? 前はそんなことなかったよね?」


 もう随分前のことだが、春に三人で映画を見て食事までした記憶がある。あのときは終始和やかな雰囲気で終えることが出来ていたはずだが……。


 楓が真顔で答える。


「はっきり言うけど、朝日先輩のことはあんまり好きじゃない」


「うっそだろ!?」


「逆に聞くけど、なんで仲良く出来ると思うの?」


 大樹は言葉を詰まらせた。二人は元々仲が悪かったわけではない。今になってここまで険悪になったのは確実に自分に原因がある。それがちょっと申し訳なく思った。


「着いたよ」


 楓が足を止める。ようやく家に帰ってきた。ここからドがつくほどの修羅場が待ち受けていると思うと気が気じゃない。胃薬の予備はあっただろうか。


 隣で月夜が身を固くした。気を落ち着かせるために深呼吸を始めた。


「いよいよね」


「だからそんなに身構えなくても」


 こうなったら、なるようにしかならない。鍵を差し込み、大樹は二人の女性を自宅へと招いた。


 家の扉を開けるだけでここまで気が重いのは、生まれて初めてのことだった。


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