「それくらいの恋を彼に」
「分かり切ったことだけど、きかせて。あなたは篠原くんのことが好きよね?」
楓はそれを聞いて、何を今更と思った。
目の前にいる女子生徒——大樹と同じ部活に所属する先輩であり、藍咲学園一の美貌と名高い美少女でもあり、そして楓にとって争いを避けられない相手——朝日月夜が目を細めてこちらを見据える。
どうしてこんな状況になったのか、難しいことは何もない。大樹たちの試合が終わって、大樹に会いに行こうとしたら月夜に捕まってしまっただけだ。
「少し、あなたと話したいのだけど。時間もらえる?」
正直、この人とは出来るだけ顔を合わせていたくないのだが、遅かれ早かれいつかはこんな風に対峙する日が来ると分かっていた。だったら早い方がいいだろう。
そうしてノコノコ連れられた公園で、睨み合っているのである。腕を組む月夜は、どこか余裕を感じさせる風なのが腹立たしい。楓は顔には出さないが、実際はこうしているだけでメンタルがゴリゴリと削られているのだ。
「そうですけど。それが何か?」
「いいえ。ただの確認だから。他意はないの」
確認、ね。
迂遠な話し合いは嫌いだ。ここは踏み込ませてもらおう。
「朝日先輩も大樹のことが好きなんで、私たちは同じ人を好きになってしまったことになりますね」
「……そうね」
いきなりそこまでのことをはっきりさせられるとは思っていなかったのか、月夜は少々面食らっている様子だった。
しかしこれで、月夜の靄は晴れたはずだ。
仕切り直すように月夜は咳払いをした。
「でも、そういう言葉が出てくるなら余計な気遣いは無用? 私は全身全霊をかけて篠原くんを振り向かせるつもりでいる。その結果がどういうものになっても——恨みっこなし」
この物言い……大樹が自分に告白した事実は知られているのだろう。その上で大樹の気持ちを奪ってみせるという宣戦布告だ。なかなかどうして、先輩様はかなり強かだ。自分ならそれが出来るというその豪胆さも嫌いじゃない。
あまり言われっぱなしなのも負けた気がする。楓は口角を上げる。
————喉から変な音が漏れた。
「………?」
月夜が不思議そうな顔をして見つめてくる。楓も、事態を把握できていなかった。今自分は言葉を発しようとしていた。なのに、出てきたのは渇いた空気だけ。
再び口を開いたところで、顎が痙攣して歯がカチカチと鳴ってしまうことに気付いた。慌てて奥歯を噛み締めて音を止める。
まずい。ビビるな。少なくとも、この人には勘づかれたくない。
「さ——さあ。それは約束できないですね。仮に大樹が先輩を選んでも、それで簡単に諦めがつくとは限らないですし。私、結構往生際が悪くてしつこいんですよね」
少しだけ詰まりながらも、なんとか言い切った。これで月夜を挑発できているのかは判断がつかないが……。
月夜はそっと息を吐いた。それは、なんだか楓に呆れているようにも見えて、楓は月夜をするどい目で睨みつけた。その視線を、月夜はどこ吹く風と受け流す。
「そうね。私も多分、簡単には諦められないと思う。何年も前からずっと好きだったから。それくらいの恋を彼に————篠原大樹くんにしているから」
胸に手を当てて、頬を染めている月夜。
……ちっ、たったそれだけの所作なのに、なんでこんなに画になるんだ。つい見惚れてしまう。ずるい。
ぱちり、と月夜が瞬きをした。そして不意に、不敵な笑みを浮かべた。
「森崎さんも、それくらいの恋をしているの?」
なんという恥ずかしい質問だろう。素直に頷くのが躊躇われる。
数秒の間を置いて、楓は弱々しく首を前に倒した。
「……あなたは本当に篠原くんのことが好きなの?」
「えっ」
純粋な、裏表のない聞き方をされて、楓は答えに窮した。
「私は————例えば校庭の真ん中に立って全校生徒に見られながらでも、好きだって叫べるわ」
何故だか勝ち誇ったような顔をされた。
確かに楓にそんな度胸はないが、それとこれとでは話が全然違うだろう。
「バカなんですか。何を比べてるんですか」
「バカとは心外。————気持ちを伝えることすら出来ていない臆病者のくせに」
「!!」
一番突かれたくない、楓自身が気にしていたことを口にされてしまった。
「あなたは篠原くんから、確かに告白されたのかもしれない。彼があなたを好いていたのは紛れもない事実。でもそれは少し前の話。今も同じ気持ちとは限らない」
黙れ。そんなこと言われるまでもなく分かっている。
あの後夜祭以降、大樹とはまともに時間がとれていない。『そういった話』をする雰囲気も今ではなくなってしまった。楓が大樹の想いを拒んで、それっきりになっているのだから当然だが。
「覚えてる? 球技大会でのこと」
出し抜けに月夜がそんなことを口にした。
思い出すのに少し時間がかかって、苦い思いが蘇ってきた楓は顔をしかめた。
もう半年前のことになる。藍咲に来て初めての学校行事。大樹と接点を持ったのはその最中のことで————月夜との因縁もそこから始まったのだ。
何故、今更になってその時のことを蒸し返すのか——楓は月夜の言わんとしていることが予想できてしまっていた。
蛇に睨まれた蛙のように、楓は一切の身じろぎをしない。
その決定的な言葉が出てくるのを、ただじっと待っている。
「あのときの勝負はどちらが勝ってもおかしくなかった。……あなたが途中で諦めなければ、だけど」
凪いだ。
風に揺られていた紅葉が音を立てないせいで、聞き間違いの余地がない。
初めて朝日月夜と同じ土俵で対決して感じたもの————恐れ、妬み、憧れ……それらは全部、実の姉である奏にも感じたものだった。
まさか、月夜のせいで奏のことを思い出すことになるとは思わなかったのだ。
あの頃の楓にとって、奏の存在はタブーだった。頭によぎるだけで平静を保っているのが困難になって、実際に相対するものなら逃げ出したくなる。
同じ感覚を引き起こされてしまったあの日、楓は膝をついた。
でも今は————
楓は顔を上げた。
「私とあなたは今、同じものを————同じ人を欲しがっていている。どちらかが選ばれたら、どちらかは絶対に選ばれない」
月夜の声が近い。気が付いたときには月夜が真正面に立っていた。
そして、楓の肩に手を置いた。
「あなたがそんな調子なら————篠原くんは私が奪う」
自身が選ばれることを確信しているかのように、言葉に力が籠っている。
まるで楓のことを取るに足らない相手のように見下している気がして——実際そう思っているはずだ。
気に入らない!
ここまで分かりやすく煽られておいて、何を悩む必要があるのだろう。自分のこの気持ちに嘘はないし、——私はもう過去の自分とは違う。
嬉しさも悔しさも、喜びも悲しみも、全部一人だけのものだった。
一人で生き抜くために、悲壮な覚悟を決めなければならないと思っていた。
でも、そんな必要は全くなくて——それらを分け合う人たちがずっと近くにいてくれたことに気付かなかったから、随分と右往左往してしまった。
私自身は、そこまで大きく変わっていないのかもしれない。でも彼らの存在を思い出せば——この強キャラ過ぎる恋敵を前にしても強くあれる。
そんな大事なことを忘れているなんて……ましてやこの人のおかげでそれを思い出すなんて……。
「朝日先輩に、そんなことが本当にできますかね」
「……なに?」
「色々言いたいことはあるんですけど——私が絶対に朝日先輩に勝てる部分が少なくとも一つ」
楓がゆっくりと腕を伸ばした。そしてあろうことか、月夜の、女性の象徴である膨らみを力任せに掴む。同性とはいえ胸を触られたことで、月夜は身を硬くした。動けぬままその大きな瞳で楓を見つめる。
楓は意識的に間を空けて————言ってはならないことを口にした。
「ちっさ」