「任せろ」
ゆっくりと大神たちを誘導して、蒼斗と合流する。芝崎と双葉もランニングから戻ってきていたので、これで男子全員が揃ったことになる。
「よし、行くか」
蒼斗はそれだけ言って、移動を始めた。大神の母親については何も触れない。事情を把握していたようだ。それならそうとあらかじめ共有しておいてほしかった。かなり動揺する羽目になった。
後ろに目を向ける。視線に気付いた大神と一瞬だけ目が合ったが、無視された。何も聞くなということだろう。
それでも、つい気になってしまう。大神の母親の傍には咲夜がついている。初めて会ったような距離感ではない。咲夜は以前から、大神の母親のことを知っていたのか?
「っていうか、あれ……?」
その咲夜が、どういうわけだか楓と何か話している。
「な、なんで楓がここにいんだよ!? え!? マジでなんで!?」
「好きな人が頑張っているところを見にきたんですよ」
「え!? 誰!? もしかして大神のこと!?」
「いやそうじゃなくて……」
楓がこちらに向かって指をさす。何を言っているのかは全く聞こえなかったが、咲夜がはしゃいでいるように見えるのは気のせいだろうか。
まったく。
楓といい、大神の母親といい、無視できない存在が多い。今日はいつも通りに調子で試合が出来るか不安だ。出来ることなら平常心を取り戻すまで大樹たちの出番は来ないでほしかった。
◇
会場に足を踏み入れた瞬間、そんな甘えは許されないことを悟った。
空気が張り詰めている。私語が飛び交うことはなく、フットワークのステップで床を蹴る音と打球音が響き渡る。
しかも相当レベルが高い。当たり前だ。藍咲学園が勝ち上がってきたように、ここにいる者たちは全員、どこかの高校に勝利してやってきている勝者たちだ。弱いはずがない。
こういう空気に晒されるのは久しぶりだ。
「俺たちも練習に混ざろう。朝日、双葉の練習相手を頼む」
「わかった」
交代時間を待って、大樹たちもコートの中に入っていく。こうした大会では試合前にシャトルを打つ時間が設けられている。数分で交代となり別の学校の人間に譲る。遅刻をすればそれだけ練習時間が減るが、藍咲メンバーは全員十分な時間を確保できた。
開会式もそこそこに試合が始まろうとしていた。
藍咲の対戦校は中宮南高校。都大会に出場した実績があったはずだ。いよいよ猛者たちとの戦いが始まる。
オーダーは次の通り。
第一ダブルス——篠原大樹・大神蓮
シングルス——双葉亜樹
第二ダブルス——神谷蒼斗・芝崎大輔
「俺らが第一ダブルスでいいんですか」
「ダブルスの完成度はお前たちの方が上だ。出し惜しみをして先に勝負を決められるわけにはいかない。いってきな」
部長のお墨付きをもらって、大樹は気力と闘志を滾らせながら歩き出す。
ふと大樹は観客席の方を見やった。あちら側で待機している部員は咲夜だけだ。月夜は双葉の試合を見守る名目でコートに降りてきている。残りはかなたや楓たちがいて——どちらかというと部外者の方が応援席を埋めてくれている。
大神の母親のことが気にかかった。子供のためとはいえ、目が見えない状態で試合を観て楽しめるだろうか。
「いや、無粋か」
大樹が気を回したって益のないことだ。当人の大神は全く気負った様子がない。きっといつも通り試合に集中してくれるはずだ。
中宮南の第一ダブルスは当然二年生のペアだった。
基礎打ちの質で、相手の実力は測れる。中宮南の選手たちは、夏の大会で対戦した滝川高校より少し強いくらい。しかし、油断せずに自分たちの力を発揮出来れば勝てるはずだ。
だが予想に反して、大樹と大神は苦戦を強いられることになった。
侮って足元をすくわれたわけではないと思う。中宮南のバドミントンは都大会レベル相応の洗練さを秘めていて、独特の返しづらさがある。リズムに慣れない。点差が開いたまま詰めることができずに第一セットを落とす。
そして何より、大神のミスが目立つ。
ショットの強烈さはいつも通りなのに、いちいちネットに引っかけて失点する。無理なタイミングでシャトルに飛びつくせいだ。ローテーションもぐちゃぐちゃで、何度も大樹と接触しそうになった。
このままでは為す術なく負けてしまう。
「大神、攻め急ぎすぎだ。落ち着いていこう」
「わかってる」
わかっていない。
大神がミスをした分、大樹がなんとか得点を取り返すことで、グダグダになりながらもなんとか第二セットで互角の状態に戻す。ようやく中宮南の返しづらさにも慣れてきたところだ。それなのに勝てるビジョンを浮かばない。
焦りからイライラが止まらない。
「いいかげんにしてくれ、大神。真面目にやってる?」
「………」
何も言い返してこない大神に愕然とする。
なんで腑抜けてんだよ。こういうとき叱責してくるのは大神の方なのに。
ここ数日、大神の調子は悪くなかった。本番に弱いタイプでもない。普段と違う条件——不調の原因は一つしか思い当たらない。
大樹は観客席を見上げて、大神の母親を見つめた。
彼女は心配そうな表情で、こちらの方に顔を向けていた。何も見えていないはずなのに、こちらの様子がわかっているみたいだった。
「大神、お前のお母さんのことだけど……」
大樹が口にした瞬間、すごい剣幕で大神に睨まれる。
「なんだ」
「い、いや、なんでもない」
ちょっと怖かったので黙ってしまった。
大樹は憂鬱になった。藪蛇なのは分かっているのだが、また後で突くことになるだろう。
結果だけ伝えると、藍咲は中宮南に勝利した。大樹たち第一ダブルスがファイナルゲームまで争っている間に、シングルスと第二ダブルスが二セットずつ制していたのだ。
もやもやとした気持ちを抱えながらも、とりあえず一回戦は突破した。
「なにやってんだよ、お前ら」
芝崎が呆れた口調でチョップをお見舞いしてきた。大神は避けていたが。
勝利のパターンとして、第一、第二ダブルス共におさえておくつもりだった。また初心者の双葉に救われてしまった。
「亜樹、ありがとう。おかげで助かった」
「月夜先輩って凄いんですね!」
立役者である双葉を労うつもりで声をかけたが、急に月夜の話になった。
「ちょっと戦いづらい相手で、全然アガっていかなかったんですけど、インターバルで月夜先輩にアドバイスもらってから危なげなくゲームが進められました! 相手の弱点とか、ボクの攻め方とかをすごい具体的に教えてくれて……何者なんですかね!?」
「お、おう……」
抱き着いてきそうな勢いでテンションが高い。月夜のその手腕は是非見てみたかった。
努力の天才である月夜と、凄まじい勢いで成長する双葉を組ませたら、とんでもない化け物が生まれそうで少し戦慄する。
「褒めてくれていいんですよ?」
「はいはい」
ドヤ顔で勝ち誇る双葉を前に、思わず笑ってしまう。こういう素直な態度が双葉の魅力だ。その頭を撫でてやると満足そうに走り去っていく。まるで犬みたい。
「私も頑張ったのだけれど……」
真後ろから恨めしそうな声が聞こえた。飛び跳ねるようにして振り返ると、不満そうに頬を膨らませた月夜がいる。ちょっと子供っぽい拗ね方だ。普段とのギャップに頭がクラクラするのを感じる。
「私のことは褒めてくれないの?」
そう言って頭が差し出される。相変わらず綺麗な黒髪だし、距離が近いせいか何だか良い香りがする。褒めるとか労うとかの感情抜きで個人的に触りたくなる。その欲望はなんとか断ち切った。
「まだ次の試合もあるので。亜樹のことはお任せします」
「……うん」
すごく残念そうな顔をされて心が痛んだ。
けれど次の試合に集中しなければならないのは本当だ。大神のことが懸念材料になっている。このままでは勝てない。
「センパイ、さっきの俺たちの試合見てましたか?」
「君のことはいつでも見ている」
「あっ……はい」
大樹は顔を赤くした。月夜も同じような反応をしていて、照れるくらいならそういうこと言わなければいいのにと思う。心臓に悪い。
「あー、えっと、なら話が早いと思うんですけど。大神のこと、どう思いました?」
「いつもより肩に力が入っていた。それにゲームの組み立て方がスマッシュ一辺倒になっているのも気になる。他のショットも組み合わせないと次は勝てないと思う」
「ですよね……」
同意見だ。月夜は少し視線を上げて、大神の母親を見つめた。彼女も、大神の不調の原因には気付いているみたいだ。
「家族に見られているから緊張している……というわけではなさそうね」
「そう、ですね」
かなりデリケートな問題だから、不用意に詮索したくはない。しかし避けては通れない問題であることを大樹は確信していた。
◇
観客席に向かう途中、異様な光景を見かけた。あまりに静かすぎる試合だ。
選手たちが背負った高校名を見て、大樹はそれが次の対戦校の試合であることに遅れて気付いた。
都立大黒高校。都大会の常連で全国への出場経験もある強豪校だ。さっきの中宮南よりもレベルが段違いに高い。選手たちの顔触れにも見覚えがある。中学時代に名を馳せていた者ばかり。あえて触れなかったことだが、今の藍咲が勝つには中々厳しい相手だ。
対戦をしている高校の名前に心当たりはない。おそらく無名高だろう。
スコアボードを確認しに行く。大樹はそこで疑問符を浮かべることになる。目をこすって、もう一度ボードの数字を凝視する。
大黒高校が、負けている。何度見ても数字は変わらない。試合に目を向ける。
相手校のサーブの構えを見たとき、月夜の姿が重なった。そこからのラリーも、大樹はずっと目を奪われていた。心が通い合ったかのような連携。よどみない、スムーズなローテーションから繰り出されるショットの猛攻に大黒高校の選手は対処ができない。かなりの点差をつけて試合は終了した。
思わぬ番狂わせに、試合を観ていた選手たちは言葉を失った。大樹も例外ではない。
勝った高校の名前をもう一度確認する。
「清蘭高校……?」
やはり聞いたことがない。携帯を取り出し、検索すると情報が出てきた。なんと、出来てから二年しか経っていない新設校だった。
「それであの実力なの……?」
「やばいよな」
ぬっと横から現れた蒼斗部長に驚く。
「今のは第一ダブルスだ。少し前にシングルスの試合が終ったんだが、そっちも凄かったぞ。まるで——」
「——朝日月夜みたいだった?」
「その通り」
大樹が先の言葉を予想してみると、蒼斗は苦笑してみせた。思うことは一緒か。
「清蘭高校の選手たちは、なんていうのかな。バドミントンへの理解が高い。優秀な指導者についてもらっているのがすぐ分かるプレイだったよ。次のオーダーが悩ましい」
「……どうするつもりですか」
大樹の問いかけに蒼斗は眉間に皺を寄せて、考える素振りを見せた。
「結局、第二ダブルスの試合が行われなかったから、そっちの実力は未知数だが……あの第一ダブルスはやばい。完成度が高すぎる。捨てにいくべきだろうな」
「——俺と、大神のペアでいかせてください」
目を見開いた蒼斗は、諭すような口調で説得する。
「あのな、篠原。確かにさっきのお前たちのダブルスは全然なってなかったよ。でも修正すればいいだけの話だ。だからあまり自暴自棄にならずに——」
「いえ、そうじゃないんです。俺が、あの人たちと戦いたいなって思っただけなんです」
勘違いした蒼斗の言葉を遮って、大樹は清蘭の選手を指差した。
口にした大樹でさえ、自分自身に驚いていた。勝てるかどうか、試合にならないんじゃないかという不安は一切感じない。ただ純粋に、あの人たちのプレイをもっと間近で見てみたいのだ。
何か、大事なことに気付けそうな気がするから。
「————わかった」
蒼斗は何も聞かず、そう言ってくれた。
◇
清蘭高校との試合の時間はすぐにやってきた。
大樹の希望は叶えられ、念願の第一ダブルスとの対戦だ。生き残っている高校が減った分、コートの回転率が速くできる。シングルスも第二ダブルスも同時進行で進められていく。
離れたところで、仲間の様子が見える。そして観客席もさっきより埋まっている気がする。突如現れたダークホースの分析をしたいのだろう。皆がこの試合に注目している。
試合前の試し打ちでも、相変わらず大神は精彩さを欠いていた。シャトルを捉えるタイミングが若干早い。不安要素は抱えたままで試合の開始が宣言される。
静かな立ち上がりだった。
大樹は相手の腹の内を探るようにシャトルを返球していく。ラリーが数回続いたところで、痺れを切らしたように大神が動いた。
プッシュを叩き込み、それは得点になった。
大神が視界の端で、小さく拳を握りしめていた。
大樹は大神に声をかけることなく、試合を再開させる。
なんと予想に反して、大樹たちはリードを守り続けてインターバルを迎えた。このタイミングで大神はスマッシュを決めて満足そうにしていた。
雷が落ちたかのような轟音。大樹たち藍咲のメンバーからすればいつものことだが、清蘭の選手や観客たちは度肝を抜かれたはずだ。
一分間の休憩の中、大樹は観客席にいるはずの大神の母親を探していた。
「おい」
不機嫌そうな大神の声。
「何やってんだよ」
「別に」
「余計な気を回してんじゃねえ。試合に集中しろ」
「今の大神には言われたくない」
インターバル後から、清蘭のゲームメイクは嘘のように変わった。清蘭の監督が選手たちに指示を与えたのだろう。
大神のスマッシュを警戒して、シャトルは絶対に上がってこない。ネットのわずか上をハイスピードでシャトルが行き交う。そして、それが彼らにとっては十八番らしい。
連携に隙がない。流れるようにローテーションをして、こちらの空いたスペースを的確に狙ってくる。大樹が注意を巡らせても絶対に追いつけないタイミングはあるし、大神も無理に打とうとするから点をどんどん奪われていく。
大樹の中に焦燥感はなかった。清覧のプレイを見て、素直に感心する。すごい、ここまで完成度の高いチームワークを発揮するダブルスのペアは初めてだ。お互いを、心の底から信頼しきっているのが伝わる。
手が付けられない。
「おい、なに澄ました顔をしてんだよ」
第一セットを奪われて、大神は相当苛ついていた。大樹がまたぼんやりと大神の母親を見ているのも気に入らないのだろう。
「何も気にするなって言ってんだろ。あの人には何も見えてない。何もわからねえんだよ」
初めて、大神の口から母親のことを聞けた。
大樹は間髪入れずに言う。
「見えてなくても————聞こえてるんだろ」
「は? おま、お前、なんで……?」
動揺した大神の前を通り過ぎて、大樹はベンチに腰掛ける。ドリンクを飲んで、気分を落ち着かせた。こんなこと、平常心を強く保ってないと言えない。
「思い出してたんだよ。俺が大神と初めて戦った頃——中学時代のことをさ」
「おい、何の話をしている?」
ゲーム間のインターバルの時間をそう長くない。無駄話をしている暇はないこの状況で、大樹の話の意図が全く見えず大神は困惑する。
それに気付いていても、大樹は止まらない。
「初めて公式試合で戦って、負けて、悔しくてずっと練習した。お前に勝ちたくて。次は俺が勝てたから嬉しかった。試合の内容も覚えてる。お前は————スマッシュばかり打っていた」
大神の眉間に皺が寄る。
「その後の大会で会ったときも、お前はやっぱりスマッシュばかり打ってた。馬鹿の一つ覚えみたいに、他のショットは全然打たない。けど、そのせいかお前のスマッシュはどんどん速くなって————今じゃ、超高校級だよ。すごいと思う」
「————何が言いたい」
大樹は、そっと息を吸い込んだ。
少し、怖かった。大神の逆鱗に触れるかもしれないから。
大樹は恐れを踏みつぶして、大神の瞳を見つめた。
「お前がスマッシュを極めた理由って……お母さんに音を聞かせるためか?」
時間が止まったみたいだった。
大神の、鋭い眼光に鳥肌が立つ。でも視線を逸らすことはしなかった。辛抱強く、大神の言葉を待った。
ブザーが鳴る。
時間切れだ。コートに戻らなければならない。大樹は立ち上がった。
「だったら、なんだっていうんだよ」
ぽつりと。
うっかりしていれば聞き逃してしまいそうだった。
「清蘭は、俺にスマッシュを打たせないつもりだ。絶対に上げてはこない。この試合はそのままスマッシュを組み込まないで作っていく方が、まだ勝機はある。だから——そうしろって言いたいのか」
「俺は初めてお前とダブルスを成功させてから、お前のことを疑ったことなんてない」
水と油だと思っていた。
大神とは、ネット越しでしか姿を見ることがないはずだった。それがどういう巡り合わせか同じチームにいて、しかもダブルスを組んで隣にいる。
夏にダブルスで試合に勝ったとき、本気で感動した。
シングルスだけやってきていた大樹は、ずっと知らなかった感覚だった。
「何回、お前のスマッシュを受けてきたと思ってるんだよ。そのスマッシュは最強だ。ここで勝つためにはお前の力が必要なんだよ。
だから————絶対にお前にスマッシュを打たせてみせる。任せろ」
このまま終わるなんて、あり得ない。