「正論聞きたくない」
数日後——藍咲学園バドミントン部が大会に出場する前日、つまり土曜日のこと。
相談室の管理人、結城かなたはドアにやけに軽い感触を覚えた。鍵が開いている。昨日、かなたが確実に鍵を閉めたにもかかわらず。
かなたは一瞬だけ表情が綻び、はっとして顔を叩いた。嬉しくなっちゃ駄目だ。
「神谷くん! だから勝手に合鍵作って入っちゃ駄目です……って、ば?」
かなたはいつもの調子で神谷を叱ったつもりだったが、そこに神谷の姿はなかった。
代わりにそこにいたのは、森崎楓——ここ数日相談室に入り浸っている少女だ。気だるげに机に突っ伏している。
「あれ、神谷くんは……?」
「なに言ってんの。三年生は土曜日自由登校でしょ。神谷先輩が来るわけないじゃん」
「そ、そっか、そうだよね。……じゃあ楓ちゃんどうやって入ってきたの?」
楓が手を挙げた。指先にキラリと光る何かが躍っている。
「神谷先輩から合鍵もらった。もう使わないからって」
「なにその気軽なやり取り!? 一応それ学校の備品みたいなものだよ!?」
かなたが合鍵を取り上げようとして、その前に楓の一言が突き刺さる。
「まだ喧嘩してるの?」
「べっ、別に喧嘩とかじゃなくて。神谷くんが来なくなっただけで、私は出禁になんてしてないし……。きちんと謝ってくれたんだから、もう怒ってないのに」
「いやー、あの日のかなたさん怖かったけどなあ」
神谷、楓、大樹は相談室の会話を盗み聞きしていた件で、かなたに怒髪天を衝く勢いで怒鳴られてしまったのだ。普段温厚な人間が怒ったときほどそのギャップが凄まじく、楓は震え上がって怯え、謝り倒した。
かなたは生徒の謝罪の言葉を受け入れ、その場は穏便に収まり——またいつも通りの日々になると思っていた。
だがあの日以来、神谷隼人は相談室に訪れなくなった。それどころか学校内で見かけることもない。明らかに避けられている。
「どうしてなんでしょう。神谷くんは私に怒られたくらいで落ち込むような可愛げがある性格ではなかったはずですが……」
「なにそれひどい」
楓が笑う。かなたにとっては笑いごとではないのだが。
神谷の姿が見なくなってから、彼のことばかり考えてしまう。自分の言い方に問題があって彼を傷つけてしまったかもしれないと思うと気が気でない。
というか、はっきり言う。寂しい。
元々相談室は利用者が少なくて、かなたが手持無沙汰になることがほとんどだった。
その寂しさを埋めてくれたのが神谷と紅葉の二人だったのに、紅葉は受験勉強で中々顔をみせてくれず、神谷も現れなくなった。
時期を置けば、また二人と話せるだろうか。
「大丈夫だって。神谷先輩、かなたさんのこと大好きだからさ。そのうちひょっこり顔を見せてくれるって」
「そ、そうですね」
かなたは動揺した。あのことを、楓が知っているはずはない。だけど楓の発言に無反応でいることは出来なくて咄嗟に顔を隠した。
「どうしたの?」
「な、なんでもない!」
「はあ……。それよりさ、かなたさん聞いてよ」
「また篠原くんですか?」
「なんか距離感近いんだよねえ。あの二人」
言うまでもないが、大樹と月夜のことだ。
楓は昼休みや放課後になる度に相談室にやってきて、その日一日の出来事を(当然大樹と月夜に関わること)話して帰っていく。話しているうちに感情的になるところがたまにあって、それをなだめるのが結構大変だった。
迷惑、ということは全然ないが。むしろ、かなたが独りにならずに済むのは彼女のおかげである。
「前まではさ、なんかぎこちないっていうか、顔も合わせられない感じだったのに。今は付き合うまで秒読みのバカップルに見えるの」
「朝一緒に登校してたり、お昼ご飯を一緒に食べてたりするから?」
「……はあ」
盛大な溜息をついてくる。自分から話してきたくせに。
楓自身も大樹と距離を縮めようと頑張っているみたいだが、月夜の方が一枚上手のようだ。
「さっきも部活覗いてきたんだけど、朝日先輩めっちゃ大樹にベタベタしてる」
「あ、バドミントン部の練習見てきたんですね」
一、二年生は土曜日も登校日だが、授業は午前で終わる。午後から部活が始まるのだ。
かなたは常々思っていることを口にした。
「そこまで想っているならさ、思い切って伝えてきたら?」
「……誰に」
ひじをついて、楓が唇を尖らせている。その先を言ってほしくないのだろう。
でも、かなたはそこで躊躇わなかった。
「篠原くんに」
「何を」
「好きだって」
途端に押し黙る楓。数秒くらいすると、頬に赤みがさしてきた。何を想像しているのか丸分かりだ。なんと可愛らしい反応なのだろう。
「……正論聞きたくない」
「楓ちゃんらしくないね? そうしなきゃ駄目だって分かってるくせに」
彼女はそうだと決めたら迷わず実行する性分だ。それが出来る学生は中々いない。でも、こと恋愛に関しては別人のように動けなくなっている。
「かなたさんには分からないよ」
不貞腐れたように言う。
そんなことないよ、とは言わなかった。確かにかなたは恋愛経験が豊富というほどでもない。片手で数えられるくらいだ。
でも臆病になってしまう心理は分かる。
楓は、大樹のことを大切にし過ぎているのだ。
自分を助けてくれた存在を、絶対に失いたくないと思っている。恋は盲目とはその通りで、今の楓は少し視野が狭い。
もし、楓が選ばれなかったら彼女はどうなるのだろうか。
それは出来るだけ考えたくない未来の話だった。
◇
場所を変えて、バドミントン部の活動風景。
明日は男子の大会が控えていることもあって、練習には気合も熱量も入る。
男子全員が自分の力を最大限発揮していたと思う。この調子で戦うことが出来れば、明日は問題なく勝ち上がれるだろうと予感させてくれる。
特に絶好調なのは、大樹の相棒でもある大神蓮だ。
彼のスマッシュが全国クラスで速く、他を寄せ付けないのはいつものことだが今日はそれに輪をかけて凄まじい。速さだけでなく精度が格段に上がり、誰にも触らせなかった。打てば必ず決まるスマッシュ。最強の武器だ。
なんて頼もしい相棒なのだろう。明日は引き立て役に徹したいと思う。
……それは少し弱気過ぎるだろうか。
ゲーム練習が一区切りついた。そろそろ帰り時間が近い。あとは奥のコートでシングルス練習している双葉と咲夜の試合が終れば片付け作業に入る。
「お疲れ様。篠原くん」
「……どうも。ありがとうございます」
月夜からタオルとドリンクを渡される。……まるで彼女みたいだ。
部室での一件以来、月夜は遠慮というものを知らない。一緒に登下校しようと待ち伏せしてくるし(月夜がいると駅と昇降口が騒がしくなるので待ち合わせ制になった)、短いやり取りだが夜中にメッセージを送ってくるようになった。
当然ながら学校中で噂になっている上、部活の人たちにはどんなに否定しても大樹と月夜は付き合っているものだと思われてしまっている。
強く突き放すことが出来なくて流されてしまい、とんでもないことになってしまっている。非常に困った。何が困るって、この状況がさほど嫌でもないというところだ。
いや、もう少し言い方を変える。
優越感に浸っている。
部活の調子も悪くないし、クラスでの人間関係もかなり良好だ。そして、自分に尽くしてくれる美人の先輩が、望めば手に入る場所にいる。
これで調子に乗るなというのが無理な話だ。
……何をムキになっているのだろう。ここ数日ずっと同じことを考えている。
月夜のことが嫌いというわけではないのだから彼女の好意を受け入れてしまえばいい。きっと楽しい。幸せになれる。
なのに、大樹はその選択をすることが出来ない。
頭の片隅でずっと引っかかっていることがあるからだ。
それをわざわざ明記する必要もないだろう。
彼女とはここ数日、まともに会話できていない。いつも不機嫌そうだから、気軽に話しかけることが出来ずにいる。なんて情けない。
「——篠原くん?」
「えっ? あ、なんですか?」
「号令かかってる。片づけに入ろう」
「は、はい。そうですね」
考え事をしていて気付かなかった。遅れて大樹は歩き出す。
その人のことを考えているうちに、後片付けは全部終わっていた。記憶が飛んだみたいだった。
「明日はいよいよ試合だから、遅刻するなよ。現地集合のつもりだったが、六花に行ったときみたいに藍咲近くで合流しておきたい。遠回りになる場合は俺に言ってくれ。それじゃ解散」
蒼斗部長の話もそこそこに今日の部活も終了となる。
部員がそれぞれ身支度を備えている中、月夜が大樹にもとにやってくる。
きた。大樹の顔に緊張が走る。多分今日も一緒に帰ることになるだろう。
「篠原くん」
「は、はい」
「また明日ね」
「はい! また明日————あれ?」
なんかおかしい。
「実はこの後、クラスメイトの人たちと待ち合わせをしていて。ご飯を食べてくるの」
「————。なるほど、わかりました」
大樹は自然と笑みを浮かべた。ここ数日、ずっと月夜と一緒にいたものだからその変化に大樹も気付いていた。明らかに、以前よりも交友関係が広がっているのだ。主に彼女のクラスメイトたちのことだが、月夜と話しているとその話題が増えてきた。
「……なんか嬉しそう」
月夜が不満げな顔をしていた。
「どうして?」
「いえっ。センパイが皆さんと仲良さそうでほっとしただけです。他意はないです」
「それならいいけど」
そう言う割にはまだ納得はしていなさそうだった。
「安心して。明日はちゃんと応援に行くから。かっこいいところを見せてほしい」
緊張するからそういうこと言わないでほしい。
月夜が去っていく。足取りが軽やかだ。楽しそうで何より。
大樹も更衣室に戻ろうとしたところで、視界の端に蒼斗と大神の姿を捉える。なにやら話し込んでいるみたいだ。丁度話し合いが終わったみたいで、大神がこちらにやってくる。
「部長と何話してたの?」
「……ああ」
ラケットバッグを背負って、面倒そうに大神がリアクションをする。ああって何だよ。
一緒に更衣室に入り、着替えの最中も答えを待ち続けていると大神はやがて観念したようだった。
「実は、母親が試合を観たがっているんだ」
「えっ、そうなの!?」
想像していた答えと全然違くて驚く。
てっきりシングルスで出場させてくれとか言い出したのかと思った。その場合色々困ったことになるが。
「だから、明日は現地集合にさせてほしいって頼んでた」
「ああ、お母さんと一緒に来るってことね」
ここまで聞いただけで分かる。親子で仲が良いみたいだ。子供の試合を観たいという母親。そしてそんな母親に付き添う大神。失礼ながら大神にそういうイメージはなかったから、かなり意外だ。
「……なんだよ」
「いや。だったらさ、明日は勝っていくところを見せていこうぜ。お母さんに」
「——————。そうだな」
不自然すぎるほどの間を感じた。
大樹はそこを指摘することが出来なかった。大神が、触れてほしくなさそうだったから。
嫌な想像がはたらく。
楓の母親のような人だったらどうしよう。
大樹は弱い溜息を吐いた。まあ、明日のことは明日どうにかすればいい。
◇
「ごめんね。こんなに付き合ってもらって」
「いいですよ」
相談者が訪れないことをいいことに、かなたは楓とのお喋りを数時間も楽しんでいた。これでお給料が発生しているのだから、ある意味嬉しい待遇ではある。
夕方になった。この時期、この時間帯はぐっと冷え込む。そろそろほとんどの部活が活動を終える頃だろう。もちろんバドミントン部も。
本当、楓は健気な子だ。
「気を付けて帰ってくださいね」
「うん、ありがと、かなたさん。また今度ね」
楓が相談室の扉に手をかけようとしたとき、その扉が横にスライドした。
「うわっ」
「あ、すみません」
重なった二人の女子の声。一人は楓で、もう一人の声に耳覚えがあった。しかし紅葉ではなかった。
「あ、あなたは……」
「こんにちは、結城先生。ちょっと相談に乗ってくれませんか?」
その場にいたのはバドミントン部副部長————村上咲夜だった。