「やっと二人きりになれたね」
大樹と月夜は付き合っていなかった。
それが分かっただけでも楓にとっては大きな収穫のはずだが、もやっとした後味の悪さが残る。
あの相談室での月夜の告白は、しっかりと大樹に届いていた。誤魔化しようも疑いようもないほどに。
楓や神谷、かなたがいる空間でお構いなしに想いを告げるなど、かなり図太い神経をしている。やはりただ美人なだけの先輩じゃない。
あれから一日が経過し、楓たちは久しぶりの通常授業をこなしていた。机に向かうのは久しぶりのことだ。楓の親は成績のことで一々口出ししてくるので、彼らを黙らせるためには授業は集中して受けなければならない。
……のはずだが、楓の視線は隣席の人物——大樹に注がれている。
大樹もどうやら上の空のようだ。ノートだけはとっているようだが、時折手を止めて目を閉じる。
「はあ……」
これでこの授業五回目の溜息。昼までの通算で二十二回。いい加減うっとうしいな。
何に悩んでいるかなんて考えるまでもない。月夜のことに決まっている。せっかく楓が声をかけても、大樹は全て心ここにあらずで適当な返答をしてくる。非常に腹立たしい。大樹も、月夜も。
大樹の横顔を盗み見て、黒板に視線を戻して、でもやっぱり大樹が気になる。楓の動きは忙しなかった。
「はあ……」
楓も溜息が漏れた。もういい。どうせ今更集中なんて出来ない。楓はペンを置いた。
肘をつき、不機嫌な顔で大樹にガンを飛ばす。これだけ楓が苛つきを隠していないにもかかわらず、当の本人は一切気付く気配がない。なんだこいつ。そんなに月夜のことが気がかりなのか。
唯一の救いは、大樹から嬉しそう楽しそうという空気が全く感じられないこと。これで浮かれている様子だったなら楓は正気を保っていなかったと思う。
楓は危機感を抱いていた。月夜は大樹に好意を示した。今は月夜の一方通行だったとしても、明日はどうなっているか分からない。そう思わせるだけの覚悟が彼女の言葉には込められていた。
月夜がバドミントン部に復帰した今、大樹との接点はまた増えていくだろう。きっとここぞとばかりに攻めてくるはず。
自分に告白してきた人間がいる部活動。
大樹は、どういう風に過ごしていくんだろうか。
——手遅れになる前に、動かなければならない。
楓がその思考に至ったとき、楓は胸の動悸を強く感じた。
緊張と不安が一気に押し寄せ、楓は息切れを起こしていた。激しい運動をしたわけでもないのに。
……ちょっと意識しただけでこの有様では先が思いやられる。あのときのフットワークの軽さはどうしたんだ。
「頭いたー……」
机に伏せて顔を隠す。もう知ったこっちゃねーよ。
そうして迎えた放課後。
大樹も楓も冴えない顔で支度を済ませ、席を立った。
楓は、声をかけていくべきか迷った。しかし、どうせまた生返事を受けるくらいなら無視したい。地味にちょっと傷つくのだ。
「あ、楓。また明日な」
「………」
なんでだよ。
「そっちは部活?」
楓の言葉に、大樹は少しだけ顔をひきつらせた。
「う、うん」
「朝日先輩のいる、部活?」
「余計な情報を付け足して言い直さなくていいから」
大樹の脳裏に、相談室での出来事が蘇ってくる。
「あの、楓。昨日見聞きしたことは誰にも言わないでほしい。センパイに迷惑がかかるから」
「最初っからそんなつもりない。それに、言ったって誰も信じないでしょ」
「まあ、それは確かに。月とすっぽんくらい違うからね。……あ、今のは月夜センパイだから月に例えたわけじゃなくてね!? ダジャレを言ったわけじゃないよ!」
「誰も気にしてないし、そのテンションうざい」
それから、大樹の口から月夜という単語が出てくるのも不愉快だ。
「嫌なら部活行かなきゃいいじゃん」
「こんなことで休めるわけないでしょ。それに大会もあるんだから」
「うん? あー、この間勝ったから先に進めたのか」
「そういうこと。良かったら応援しに来てよ。それじゃ」
楓の返事も待たず大樹は行ってしまう。気まぐれに誘われたようだ。
「本当に行ってやろうかこの野郎……!」
そんな勇気は、欠片ほども持ち合わせていないけれど。
◇
大樹が重い足取りで体育館前にたどり着くと、いつもと違う光景があった。
「あれ? なんで?」
ウォータージャグが置いてある。合宿時などに、大量のスポーツドリンクを作るために容易されるものだ。誰が準備したのだろう。やるとしたら大樹たち一年生が率先していかなければならないところだが……。
焦りを覚えて中に入る。すると、こちらでもいつもとは異なった光景が広がっていた。
開始30分前にも関わらず、暗幕が張り巡らされて陽の光が遮られている。バドミントンでは上方に視線が向くとき、光のせいでシャトルが見えにくくなる。その防止のために部活開始前には暗幕を張るのだ。これも一年生の仕事。
「一体誰が……?」
大神? それとも双葉? やるなら一言声をかけてほしい。
フローリング部分に足を踏み入れると、これもまたいつもと違う感触があった。
キュッ、キュッ、と反動がダイレクトに返ってくるほどに磨き上げられている。モップ掛けをしたようだ。その場でステップをしてみる。とても動きやすかった。
「よっす」
副部長の村上咲夜が手を振っている。
「お疲れ様です。……あの、これは咲夜先輩が?」
「いいや。あたしが来たときにはこうなってた。……あいつだよ」
咲夜が指差した方向を見やる。扉が開いて、段ボール箱を抱えた月夜が現れた。
大樹の心臓が急に跳ねた。それは月夜を目の前にして身構えてしまったこともあるが、上級生にそんな雑務を押し付けてしまったことへの焦りもあった。
「すいません、センパイ! 俺がやります!」
慌てて駆け寄って、段ボール箱を受け取る。軽い。中に入っているのはシャトルだ。
「別に重くない」
「いえ、そういうことではなく……。他にやらなきゃいけないこと残ってますか?」
「いえ、これで全部。私が済ませておいた」
「どうして?」
「しばらくは……というか引退まで、こうした雑務は私がこなしていくつもり。部長にはもう話してある」
「いや、変に気を遣う必要はないですよ。俺も手伝いますから」
月夜はそれに取り合わず、大樹の横を通り過ぎる。無視されたみたいで少しだけムッとするも、今の月夜に何かを言う資格がないことに遅れて気付く。
その様子を見ていた咲夜が呟く。
「お前ら、またなんかあった?」
「なんでですか」
「まー、勘かな。喧嘩?」
「いや、そこまでじゃないんですけど……」
「ふーん。まあ、ほどほどに。大事になる前に言ってよ。こりごりだからさ」
話がある、と月夜は言っていた。いつか、その時は来る。
それまでに色々と考えておかなければ……。
遅れてやってきた他の部員たちも、大樹と同じようなリアクションをしていた。
◇
通常練習を終えた後のミーティングにて。
「さて、今日もお疲れ様」
蒼斗が部員に資料を配っている。
「みんなのおかげで、俺たちは日曜日の大会で勝ち残ることが出来た。よって来週の日曜日も試合だ。ここも勝ち上がれば関東のリーグ戦に出場できる。気を引き締めていこう」
トーナメント表が示されている。出場校は少ない。全校が先週に勝ち残った学校だ。ここでも勝ち残ればいよいよリーグ戦……。
大樹は武者震いをした。中学時代を含めてここまで勝ち上がったことはない。幸運なことに、頼もしい仲間たちが揃っている。まだまだ自分たちは戦っていけるはずだ。
「さて、ここで注意事項だ。試合形式の変更があった。今回、別の学校で行われるはずだったトーナメントが、諸事情により合同で行われることになった。よって試合の消化を速めるために団体戦は二複三単ではなく、二複一単となる」
む。割と大きな変更点だ。オーダーはどうするつもりだろう。
「えーっと、つまりどうなるんですか?」
バドミントン初心者の双葉亜樹が手を挙げる。
大樹が補足した。
「第二シングルスと第三シングルスは省略して、それ以外で戦うってこと。前回は最長で一校相手に五試合したでしょ?」
「む、無我夢中だったので、あんまり覚えてないです」
「そ、そう?」
「ごめんなさい……」
恥ずかしそうに顔を隠す仕草が大変可愛らしくて困る。こいつ男なのに。
それはそうと、前回の大会で藍咲の窮地を救ってくれたのは、このバドミントン歴一か月のルーキーのおかげなので、そこは誇っていいと思う。亜樹の頭を撫でると、彼女——ではなく彼は顔を赤くした。
……うーん、やっぱり可愛いな。
「少ないゲーム数で試合が進行していくと考えてもらえば結構だ。だからってわけじゃないが、一戦一戦の重要度が増す。少なくともダブルスはひとつも落とせないわけだしな」
この間の大会でウィークポイントが明らかになったが、藍咲のダブルスは完成度が低い。蒼斗、芝崎のペアは結成してから間もないし、大樹と大神は元々シングルスのプレイヤーだったこともあってまだその戦い方が抜けきっていないところがある。
「日曜日まで時間がない。女子には申し訳ないけど、大会までは男子主体の試合練習をしたいと思う。構わないか?」
「別にー、それで文句ないよ。……アンタもないよね?」
「問題ない」
咲夜と月夜が続く。
「そうだ、朝日。今日は色々とありがとう。想像以上だった。毎回じゃなくていいんだぞ」
「いい、色々迷惑かけたから。お詫びだと思って」
「こんな負担を一部員に強いることは出来ない。一年生と一緒にやりなよ。……篠原は、特にそうしたがっているみたいだしな」
蒼斗にいきなり名指しされて驚いたが、大樹は何度も頷いてみせる。
もう片付けもほとんど終わっているが、道具一式を部室に残す仕事が残っている。これくらいはやっておきたい。
「それじゃあ、今日はここまで。解散!」
蒼斗の号令に、お疲れ様でした、と全員で返す。
部員たちが動き出す前に、大樹は大神に声をかけた。
「大神。この後で打ちに行こう。多分俺らはダブルスで出場することになるから。今よりもっと完成度を上げておこう」
誘うまでもないことだが、大樹は逸る気持ちを抑えきれなかった。
まだまだ次に進める。そのためには今よりも強くならなきゃいけない。最近はシングルスの練習ばかりやっていたが、大神とのペアをないがしろにしていたつもりはない。
だが……。
「悪い。今日は気分が乗らない。やめておく」
「ええっ!?」
大樹は耳を疑った。
気分が乗らない……? 三食よりもバドミントンを優先するような大神が……?
「不満なら、亜樹でも高宮でも誘って勝手にやってくれ」
「な、なんだと……!?」
大神はそのまま歩き去ってしまい、取り逃がしてしまった。あまりに衝撃的過ぎて動けなかった。
「さ、咲夜先輩、やばいっす。大神が、大神が……!」
「えっ!? 何!? 大神がどうかしたのか!?」
大樹以上に深刻そうな顔をして、咲夜が問いかけてくる。
悩みを共有してほしいのは事実だが、求めていた以上のテンションで逆に困惑する。
「いえ、その……大神がバドミントンしたくないって。いつも部活後に打っているので、少し心配になって」
「な、なんだよ、そういうこと……。驚かせるなよ」
こっちのセリフなのだが。
「まあ大神にもそういう日はあるだろ。大丈夫だって」
咲夜は楽観的にそう言った。しかしそれは大樹の相談を全く相手にしていないというよりも、まるでその理由を知っているかのようだった。
「咲夜先輩、何か訳知り顔ですね。教えてください」
「は、はあ!? 別に何も知らねえし!」
と、下手くそな口笛まで吹いている。これで誤魔化しているつもりなのか?
大樹がさらに追及しようとすると、横目に月夜の姿が見えた。一人で荷物を全部部室に運ぶ気だ。そうはさせない。
「咲夜先輩、その話はまた今度で。お疲れ様でした!」
「だ、だからあたしは何も知らないっての!」
月夜が持っている道具を代わりに背負う。何か言われるかと思ったが、彼女は大樹を一瞥しただけで特に何も抵抗してはこなかった。
特に会話もないまま、部室にたどり着く。各々で勝手に後片付けを済ませていく。ものの数分で終わった。
「ふう。じゃあ後は部室の鍵を返しておくだけですね。センパイ、俺がやっておくんで先に帰っても大丈夫ですよ」
月夜から鍵を預かろうとしたそのとき、ガチャリという音が物々しく響いた。
見やると、月夜が後ろ手に部室の鍵を閉めたところだった。大樹と二人、鍵のかかった部屋にいるという状況になる。
「あの、何を……?」
「やっと二人きりになれたね」
月夜は薄く笑った。
ラブコメっぽいセリフなのに悪寒が走る。
あ、怖い……。獲物を追い詰めた捕食者みたいだった。