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「私をこんな気持ちにさせやがって」


 この日、神谷隼人は人生でまだ何回かしかしていない『後悔』をした。


 ことの発端は数十分ほど前に遡る。

 いつも通り合い鍵で相談室に不法侵入した神谷は、誰もいない相談室を見回して物悲しい気分になった。


 文化祭を終え、到来する冬の気配を感じた多くの3年生は、いよいよ受験のことしか考えられない頭になってしまい机と参考書にかじりつく。ここからは試験当日まで勉強漬けの日々を送ることになるだろう。


「可哀そうに」


 性格は歪み性根も捻じ曲がっている神谷だが、彼は優秀な人間だった。少なくとも、望んだ大学に造作なく入学してしまう程度には。


 そんな神谷は怠惰に過ごすことを好んでいるが、退屈は嫌いという非情に面倒な考えの持ち主であり。暇つぶし相手のいないこの場所は実に居心地が悪かった。


「ま、そのうち来るでしょ」


 不意に、神谷は子供のようなイタズラ心から相談室奥にある個室に身を隠した。

 この相談室の管理人である結城かなたは、毎日必ずここを訪れる。彼女がやってきたら、驚かしてみよう。きっと良いリアクションをしてくれるに違いない。


 そして、すぐにかなたはやってきた。


 神谷が絶妙なタイミングを計ろうとしていると、しかしどうやら間の悪いことに相談者を連れてきてしまったようだ。


「お疲れ様でした、文化祭や部活の大会など、大忙しでしたね」


 まずい、と思った。

 普段は温厚なかなただが、もし誰かの相談内容を盗み聞きしていたなどと知られたら、しこたま怒るだろう。いや悲しい顔をして失望を露わにしてくるかもしれない。……普通に怒られるよりそっちの方がつらい。


 さっさと個室を出ようとしたとき、もう一人の方の声が聞こえた。


「たしかに大変でしたけど……それだけ良いこともあったので。一言では言えないんですけど、とにかく楽しかったんで。あんまり気にならなかったです」


「ふふっ。そうですか」


 身構えていた神谷は、その声を聞いて気が抜けた。誰かと思えば、篠原大樹ではないか。神谷は彼のことを、面白みのない凡夫くらいにしか思っていない。そんな奴のためにこちらが気を遣うのも馬鹿らしい。


 二人まとめて驚かしてみよう。


「それでは、えっと……先に楓ちゃんで、篠原くんは外で待っているんですよね?」


「はい。また後でお願いします」


「お先に~」


 神谷は手を止めた。

 状況を理解できない。今の声は、相談室の常連である森崎楓のものだった。彼女がいることに自体ただでさえ想定外だというのに、何故篠原は部屋を出ようとしている? 先とか後とか何の話だ?


 このタイミングで神谷は出ておくべきだった。今更どうにも出来ないからこその後悔なのだが。


 神谷が思考を巡らせている間にも、状況は刻一刻と変化し続けている。

 二人の人間が椅子に腰かけたような音が聞こえた。おそらく、楓とかなたが向い合せになって座っているはずだ。


「まあ、本当は大樹の後が良かったんですけどね」


「ええ? どうして?」


「大樹が何を相談したのか、かなたさんから探ろうとしていたから」


 楓が奇妙なことを言う。神谷の頭をさらに悩ませる結果となった。これだけ考えているのに、大樹と楓の意図が全然読めてこない。別々の相談かと思いきや、相方の相談内容を気にかけている。


「何を聞かれても教える気はありませんよ」


「そうは言うけど、かなたさんポンコツだから。うっかり口を滑らせてくれるかと思って」


「なんですと!?」


 心外だとばかりに、かなたは憤慨している様子だが神谷は心の底から楓の意見に同意した。ペラペラ喋らなかったとしても、かなたは感情が態度や仕草に出やすい。そこからある程度推測は可能だ。


「相談っていうか、ちょっとかなたさんとお喋りがしたくて。世間話を聞くみたいな気楽な感じでお願い」


「ふふっ、そうですか。じゃあガールズトークですね!」


「そっすね。大樹の奴、朝日先輩から告白されてましたよ」


「……………………………えっ」


 出し抜けに、何でもないことのように、しかし楓はとんでもないことをカミングアウトしてきた。


「(マジかよぉぉおおおおおおお!?)」


 その場で叫び出したくなる衝動を、神谷はどうにか抑える。


「えっ、うそうそ!? ほんとに!? ちょっとそれ詳しく聞いてもいい!?」


 相談室管理人という立場を忘れ、はしゃいだ声を出すかなた。

 可能なことなら、神谷もこんな個室を抜け出して二人との会話に混ざりたかった。朝日月夜が篠原大樹のことを好いているのは、この相談室常連メンバーにとっては共通の認識であり、気付いていないのは大樹だけだった。


 文化祭前の時期から彼らが所属しているバドミントン部は一悶着起こしていたようだが、まさかそんなことになっているとは。


「あれは一昨日、後夜祭の時間帯のことでした。私は途中から姿が見えなくなっていた大樹を探していました」


 何故か芝居がかった口調で話し出す楓。


「保健室を通り過ぎたあたりで、人の気配がしました。校舎の中は人がほとんどいなかったので、大樹かな? と。実際、中には大樹がいました。朝日先輩と一緒に……ッ!」


「うんうん! それでそれで?」


 かなたは待ちきれないとばかりに続きを促しているが、神谷はある異変に気付いていた。


「(森崎……何か怒ってる?)」


「私は少しだけドアを開けて、中の様子を盗み見ました。朝日先輩だけは立ち位置的に私に気付いたみたいでしたが、無視されました。……先輩は告白の最中だったんですッ!」


「きゃー!」


 かなたは黄色い声を上げる。

 しかし神谷としては、見え隠れしている楓の怒りの方が気になって仕方ない。


「今でもはっきり覚えています。『篠原くん。私ずっと前から君のことを————』って。もうそこから聞いてられなくなって、私は逃げてしまいました」


「確かに、ずっと見ているのも申し訳なくなるもんね。その判断は結構気が利いて……あれ、楓ちゃんどうしたの? なんだか手が震えて、怒ってるっているか——泣いてる?」


 どうやら、かなたもようやく楓の異変に気付いたらしい。


「私をこんな気持ちにさせやがって……。何やってんだよ大樹! ふざけんな!」


「ちょっと待って楓ちゃん!? 皮膚ごと爪を噛むのやめなさい! 痛いでしょ!」


 ガラガラと扉が開く音が聞こえた。


「あの……楓? 呼んだかな?」


「今相談中! 勝手に入ってくんな馬鹿!」


 楓、かなた、大樹がそれぞれ騒がしい。どうして俺はこんなところで聞き耳を立てるしかないのだろう、と神谷は空しい気分になった。


「あの……楓ちゃん。さっきから忙しない感じなんだけど、平気?」


 大樹が再び外に追い出され、二人きりになったタイミングでかなたは楓を気遣った。

 ハア、ハア、と楓は荒い息を吐いているが、まだ感情が高ぶったままのように思える。


 そんな興奮状態だったからなのか、楓は再びとんでもないカミングアウトをかました。



「すみません。自分、どうやら大樹のことが好きみたいなので、結構動揺しているんです」



「……え? んん? あー……。はい? あららら?」


 様々なリアクションを提供しているかなた。

 神谷も開いた口が塞がらない。というか、何かの聞き間違いではないかと耳を疑う。


「何か……はい。予想通りのリアクションっすけど……すいません。二回も言わないっすよ……?」


 消え入りそうな声で楓は呟く。

 楓が今どんな表情をしているのかは、想像に難くなかった。


「きょ、今日はもしかして、そういう相談のつもりで来てくれたのかな……?」


 長い沈黙の後かなたがそう聞くと「うん……」と弱々しいセリフが届いた。


 聞いていられない。早くこの相談終わってくれないだろうか。誰が誰を好きかなんて話を、しかも割と近しい人間の口から聞くのは苦痛に他ならない。


「こほん! ま、まあでも、まだ篠原くんと朝日さんが付き合っていると決まったわけじゃないし、そんなに落ち込まないで——」


「あ、ちなみに大樹には前に告白されました」


「(どういうことだよ!? もうぶっこんでくんのやめろよ!)」


 かなたも、神谷と同じことを考えたはずだ。


「か、楓ちゃんの嘘つき! 全然世間話程度の軽いお話じゃないじゃん! もうキャパオーバーだよ!? ちょっと時系列から順に、楓ちゃんの心情の変化も交えながら説明してもらっていい!?」


 国語の授業みたいな要求だ。

 律儀にかなたの要求をのんで、楓は赤裸々に語る。夏休みが明けてから文化祭が終るまでの日々のことを。


 途中で楓の主観が入ってきて(部活をしている姿が意外とカッコいいとか、家事出来るのはポイント高いとか)その部分は耳を塞いでやり過ごす。盲目的なのろけ話は胸やけを起こすだけだ。


 しかし退屈な話ではなかった。

 自分の知らないところで、人間模様が移ろい変化している。そんな当たり前のことを再認識させられた。交友関係の狭い神谷はこういう話が耳に入ってくることが少ない。


 そして意外にも思う。森崎楓は、誰かのことを好きにならないタイプだと思っていたし、仮にそうなったとしても誰にも打ち明けず胸に秘めたままにしていたのではないだろうか。

 楓は、変わっていったのか。


「なんだか、私、嬉しいです」


 かなたの声が弾む。


「楓ちゃんが、誰かのことをそんな風に思えるようになったことが。素直に喜ばしいです」


「なに、その子供扱いしてる?」


「いえいえ、そんなことは」


「そういう結城先生は、誰かを好きになったり、逆に好かれたりしたことはある?」


「うーん、学生時代ならともかく最近はご無沙汰だなあ。あ、少し前に、かみ——」


 かなたはそこで言葉を切った。

 神谷は冗談抜きで飛び跳ねた。ガンッ! と大きな音が鳴った。


「……何か落ちたのかな?」


 奇跡的なことに、確認しには来ない。

 だが、まだ窮地は脱していない。


「……かみ?」


「えっ、あの、ごめんね! 何でもない! 先生の勘違いだと思う! うん!」


 なんとか、かなたが誤魔化してくれたので神谷は安堵の溜息を吐いた。うっかりにもほどがある。危うくとんでもないことを暴露されるところだった。


 話題を変えるために、かなたはわたわたとしながら指摘する。


「でも、でも、冷静に考えたら、それって両想いってことにならない……?」


 おそるおそる、といった感じでかなたは訊ねる。

 その通りだ。楓は大樹を好きで、その大樹も楓に告白した過去があるというのなら、何も怖がることがない。


「だって、わかんないじゃないですか」


 不貞腐れたような、拗ねたような言い方だった。


「最初の一回とは別で、もう一度、その……す、すっ、す———」


「……う、うん」


「……すいません、言うの恥ずかしいです」


「うん、大丈夫! なんとなく想像できるというか、察したから!」


 楓が咳払いして仕切り直す。


「まあ、その。想いを伝えられたわけなんですけど。そのときの私は余裕なかったし、それ以前の問題として大樹と付き合いたいとかそういう気持ちがなかったから。断っちゃったんですよね」


 そのときの楓の判断は間違いではないし、妥当な答えだと思える。

 今から振り返れば、もったいないことをしたというだけで。


「で、それ以降はそういう話にはならないで、普通に過ごしました。……だから、今でも大樹が同じ気持ちかどうかなんてわからないし、朝日先輩と一緒になっても仕方ないというか、当然というか……」


 朝日先輩は美人だし、と楓は付け加えた。かろうじて聞き取ることが出来た。

 そこから窺えるのは楓の自信のなさ。もし月夜とライバル関係になるなら、楓が尻込みをするのも気持ちとしては分かる。月夜は万人から好かれるタイプの人間だ。


「それに、私……なんで大樹がその——好きになってくれたのかが、イマイチ分からなくて」


「えっ? 篠原くんはそのあたりのことを言ってくれなかったの?」


「そういうわけじゃなくて……そりゃあ、理由っぽいものは聞きましたけど。でもそれだけの——魅力? うまみ? 役得? みたいなものが、本当にあるのかなって。あいつ、私と付き合って楽しいとか思えるんでしょうかね」


 随分、卑屈な意見だなと神谷は思った。

 男子高校生が異性と付き合いたい理由なんて、どう取り繕っても根底にはエロい欲望が隠れている。

 セクハラになるので言葉にしたことはないが、楓はかなり女性らしい体つきをしていると思う。それだけでも十分、付き合う理由になっているはずだ。


 ……篠原大樹がどう考えているかは知らないが。


「お姉ちゃん——奏のこともそうなんですけど、言われるまでどうして私なんかのことを好きになってくれたのか分からなかったんです。お姉ちゃんが言うには、私の存在に救われたからだって。でも今でもよくわからなくて」


 今年の文化祭において、どうやら楓は姉の奏と仲直りをしたらしい。神谷たちは二人が当日一緒にいたところに遭遇している。

 個人的に、奏には二度と会いたくはないが……。


「結局家族だから、そう錯覚しているだけなんじゃないかなって」


 楓の過去や家庭環境を知っている者としては、楓の思考回路が分からないでもなかった。


 彼女はこれまでの人生、姉と比べられることによって何もかもを否定され続けてきた。楓自身がどれだけの修練を持って功績を立てても、それを認めてくれる者は少なかったのだろう。それが彼女の自信のなさに繋がっている。


「だから——大樹のことも。もしかしたら一時の気の迷いとか、なんとなく盛り上がっちゃって、ああいうことを言ってきただけだって。今ではそう思うんです。私なんかが、愛されるはずないから」


 ひたすらに自分を傷つけて、楓はそう締めくくった。


 理解できないし、したくもない感覚だった。

 神谷は、自分自身のことを嫌悪したり卑屈になったりしたことはない。


 何にも心を踊らされず、無味乾燥な日々を送ったことはあるが。


 神谷は、もうあんな生き方はしたくないと思っている。あんなのはちっとも人間らしくない。楽しさを知った今となっては思い出したくもない。


 ……だから。



 かなたに——神谷にとっての恩人に、気持ちをぶつけた楓の判断は、大正解だ。



「楓ちゃんが自分で考えている以上に、楓ちゃんは魅力的だと思いますよ」


 ぞっとするくらいに優しすぎる声だった。

 鳥肌が立っていくのがわかる。神谷は震えていた。


「私も、神谷くんも、紅葉ちゃんも————そして篠原くんも当然、そう思っていますよ。みなさんを見ていると、なんだかんだ言いながらも相手のことを大切にしているのが分かって、嬉しくなるんです」


「そう、ですかね……?」


「楓ちゃんだって、皆のこと好きでしょう?」


「す、好きっていうか、なんですか、その、まあもちろん楽しいですけど」


 うーん、と楓の唸り声が聞こえる。


「——私、昔は、っていうか春はすごい暗かったじゃないですか。死んでいるみたいっていうか。実際そうなりたかったですけど」


「………」


 かなたは頷かなかった。


「あのとき、かなたさんに見つけてもらって本当に良かったって思ってて。神谷さんとか紅葉さんと知り合えたことも、奇跡みたいで。あれから毎日が、楽しいことも……やっぱり苦しいこともいっぱいあって————すいません、全然まとまらないんですけど」


「はい。いいですよ」


 くすぐったそうに、かなたが笑う。


「だからっ、マジ、感謝してます! 色々な人に! 以上です!」


 照れくさくて限界が来たのか、焦ったように楓はそう言い切った。

 聞いている方が恥ずかしくなってくる。


「こちらこそ、楓ちゃん。私も楓ちゃんに感謝しています。楽しい時間をありがとうございました」


「(……? ありがとうございました?)」


 かなたの言い回しに微妙な違和感を覚えた。

 気のせいかもしれない。楓だって気にした様子はないのだから。だが、神谷にはそれが————まるですぐに訪れる別れを予期しているかのようにも聞こえた。


「でも普段、こういうこと言うのは恥ずかしいですよね」


「まあー、ね。今も恥ずかしいけど」



「——篠原くんやお姉さんは、楓ちゃんに伝えてくれたんですよ」



 楓が息をのむのが分かった。


「楓ちゃんと過ごす日々の中で、二人の心が大きく動かされた瞬間があったんだと思います。そんな楓ちゃんを特別に感じて、お姉さんは愛情を、篠原くんはきっと緊張しながらも——あなたのことが好きだと、告白したんです」


「………」


「一生懸命に愛情を伝えにきてくれた人たちのことを、その気持ちを、どうか大切にしてあげてください」


「……はい」


 しぼりだすようにして楓が言う。

 楓に向けられた言葉のはずだったが、神谷も途中からつい聞き入ってしまっていた。他人事のように感じることができない。


 やはり、かなたはすごい。人の心に何かを響かせるのが上手い。これまでもそういう風にして人と接してきたのだろう。そして、これからも……。


「けど、やばい。どうしよう。なんかこの後で大樹に会いたくないんですけど」


 目には見えないが、あたふたと慌てているのだろう。

 出し抜けに楓は言う。


「すいません。大樹と顔を合わせたくないんで、そこの窓から出ていっていいですか」


「いや駄目だから! 君たちほんと何なの!? 神谷くんも紅葉ちゃんも朝日さんも、みんな窓から出ていこうとするけど、ここ二階だから! 怪我するからね!?」


 かなたが全力で楓を止めていた。


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