「私と一緒に暮らさない?」
陽が落ち、人もまばらになってきた。今日一日腕によりをかけていた屋台の人たちが撤収したことで、飲食スペースだった中庭は閑散としている。奏と二人、空いているベンチに腰を下ろしたところで、あくびが出た。
「疲れちゃった?」
「そりゃあ、実行委員だから。ここ最近も忙しかったし」
ここから体育館までは目と鼻の先だ。まだ今日の祭りを終わらせまいと、誰かの必死な歌声が響いてくる。いつもならうるさくて迷惑に思うところだが、今はそれが心地よく聴こえる。
それは多分、自分がこの文化祭を作った実感が伴っているからだ。
もちろん一人で作ったなんて自惚れはない。誰かの手を取り、協力し合ってようやく形にすることが出来た。ここまでの道のりは決して楽ではなかった。というか、目が回りそうなくらい大変だった。
まだ一日目。また明日もある。けど、一日の終わりを感じて少しだけ感傷的な気分になっている。まだ今日が続いてほしい。
「今、私は幸せなんだよ」
そう言った楓の顔は晴れ晴れとしていた。
幸せなんて言葉、軽々しく口にはしない。心の底から思っていない限りは。
単純なことだ。ちょっと嬉しい気分だから、こんな恥ずかしいことを言えてしまう。
「うん。よかった。……本当によかった」
しみじみと相槌を打つ奏が気になって、その顔を覗く。
奏は虚空を見つめていた。その瞳に何を映しているのか、何を考えているのかが分からなくて、楓は少し不安になる。
「彼の言う通りだった」
「え?」
「楓は私の知らない間に、こんなにすごくなってたんだって。今日それを実感したよ」
「………」
大樹のやつめ。奏に一体何を吹き込んでいるんだ。
楓の知らないところで、二人が内通していたのだと知ると、中々に不愉快だ。お互いに、余計なことを喋っていないといいのだが。
「楓を気にかけてくれる人とか、仲良くしてくれる人、――――それに大切に思ってくれる人。楓には、そういう人たちができたんだって、安心した。偉いね」
「それ、私がすごいわけではなくない?」
「いや、十分すごいことだよ。だって私の知っている楓だったら、そういう存在を作ることはできなかったはずだから。友達も作らず、ずっと独りで、死にそうに生きているのだとばかり」
「バカにしてる!?」
心外な評価だ。どうしてそんな風に思われたか、全く心当たりが――――ないわけではないか。ずっと他人と関わるのを避けていたし、それを良しとしていた。奏からしたら、高校入学前と後では劇的ビフォーアフターだったのかもしれない。
言い訳をしようとしたところで奏の様子がおかしいことに気付く。額を抑え、うずくまっている。何事か訝しんでいると、奏は泣いていた。雫が零れ落ち、地面を濡らす。
「え、どうしたの!?」
「いや、もう。嬉しいんだけど、その成長をそばで見られなくて残念とか、でも私が近くにいなかったからこそ変われたのかなとか、色んな考えが浮かんできて……! どうしていいのかわからないの!」
「アンタは私の親か!? 深呼吸でも何でもして落ち着きなよ! こんなところ、誰かに見られるのはゴメンだからね!」
すー、はー、と。
体の中の空気を全部入れ替えるつもりなのかよ。というくらい全力で深呼吸をする奏を見て、楓は呆れた。奏は優秀なのだが、時々バカだ。
「でも、私は。楓の親以上に、楓を愛しているよ」
「………」
急に真面目な話になって困った。愛しているという言葉が重い。
確かに思い返してみても、実の両親よりも奏の方が親らしい時があった。幼い楓を街に連れていき、中学の入学式に顔を出し、高校の三者面談にもやってきた。
「楓は、私のことが嫌いだろうけど」
悲観的な言葉とは裏腹に、奏はどこか期待するような瞳を向けている。
楓は嘆息する。
「別に、嫌いじゃないけど?」
「!」
明らかに瞳が輝いている。
「じゃ、じゃあ、お姉ちゃんのこと、その、好き……かな?」
「え。いや普通」
「………」
そんな悲しい顔をするな。
なんで、自分の一言一句にそこまで過剰に反応するのだ、奏は。
「むしろ私は、アンタの言うことの方が信じられない」
好きだと言われても、愛していると言われても。
楓はその言葉を素直に受け入れることが出来なかった。もちろん、奏が嘘をついていないのは分かり切っている。その視線が、仕草が、声色が、そして笑顔が、奏の気持ちが本物だと教えてくれる。
信じられないのは――――根拠の部分だ。
奏から好意を向けられる、そもそもの理由が楓には分からない。
家族だから、なんて理由だけじゃ納得できなかった。
「アンタは特別な人間なんだよ。なんでも出来るし、何にでもなれる。私みたいな凡人にかまってないで、どこにでも行って好きなことをしたらいいじゃん」
刺々しい言葉が、奏に突き刺さっていく。
奏は楓の言葉を、噛み締めるようにして聞いていた。きっと、楓が言わんとしていることを、奏は受け止めただろう。
「なんでも出来るとさ、何にも執着できなくなるんだよ」
楓が目を見張った。
はぐらかされると思っていた。昔から、奏は自分自身のことをちっとも話してくれなかったからだ。
「幸いにも、私は求められたことを全て成し遂げる力があった。やろうと決めたことで失敗したことは一度だってないよ。でもそれはとても疲れることばっかりなんだよ」
聞き逃すまいと思った。
初めて、奏自身の本心が垣間見えたのだ。
「人が気付かないことに気付くから。思いつかないことを思いついて、感じないことを感じ取って、出来ないことが出来るから。そこまでやって得られるものが、薄っぺらな言葉と、紙切れと、邪魔な置物。初めは嬉しかったのかもしれないけど、段々麻痺してきちゃって。全然大したことないなって。心がときめくことはなくなって。何のためにここまで面倒なことをしているのか、森崎奏が誰のことなのか分からなくなった」
楓は、父の書斎奥にしまってある数々の表彰状とトロフィーを思い出していた。
楓からすればその一つ一つが価値あるものなのに、奏にとってはそうではないらしい。
「外の世界に行けば、知らない人から褒められたり、逆に因縁つけられたり。だいたいいつも、同じことの繰り返し。そういう日々の中で、自分を見失わずにいられたのは――――楓のおかげなんだよ」
奏がふいに手を伸ばして、優しく楓の頭を撫でた。
その手を振り払えなかった。
「楓に『お姉ちゃん』って呼ばれるたびに、私は、そっか、この子のお姉ちゃんなんだって思い出せた。誰もが、森崎奏の持ってくる『結果』を期待する中で、楓だけが私に『普通の姉』を期待してくれる。習い事だって、楓をびっくりさせたり、喜ばせたり、手伝えたりが出来ると思ったから、私は色々なことを頑張れたんだよ?」
「………」
開いた口が塞がらない。
そんなことを――そんな誰にでもできることを、奏は特別に感じていたのか。
「だから私は、楓に本当に感謝しているの」
やっぱり、理由を聞いても楓にはいまいち分からなかった。
きっと、奏にしか理解できない機微だ。妹とはいえ、他人が推し量れるものではなかったようだ。
「楓。楓が高校を卒業したらさ――家を出て、私と一緒に暮らさない?」
突拍子もない話の飛躍っぷりに、楓は焦った。
「お姉ちゃん、今頑張っているからさ。住むところも食べるものも、楓が大学に進学するならその費用も全部私が用意する」
「いや、アンタまだ大学生でしょ。流石に無理じゃない?」
「無理じゃない」
強く言い切られた。
ど、どこまで本気なんだろう。確かに奏が全力を出したら出来ないことなんて何もなさそうな気はしてくるが……。
卒業したら、か。
卒業する頃の自分は、一体どんな風になっているだろうか。
きっとそんなには変わってないのだと思う。大学に進学したい、とは漠然と思っているはずだ。まだ就職する気にはなれない。
ずっと住み続けた東京を離れて、奏のいる京都へ。東京とさほど変わらないくらい栄えているだろう。いや、観光名所としての色が強いせいで、人の多さはさらに凄まじいだろう。人混みで死にそうだ。
京都には、中学の修学旅行で行った。けれど、全然何も覚えていない。奏と同じ高校に受かりたい一心で、あの街並みに目を向ける心の余裕を持っていなかったせいだ。もう一度、今度はじっくりと観光すれば楽しいかもしれない。
どんな家で住むのだろう。二人なら、どこかのアパートくらいで十分だろうが、それぞれの部屋くらいは欲しい。
大学生になった楓と社会人になった奏。
楓が講義を終えて家でくつろいでいると、奏が仕事から帰ってくる。楓は自分の家事当番だったのを思い出して、慌てて取り掛かる。それを見た奏は「しょうがないなぁ」とか言いながらも、嫌な顔見せず手伝ってくれるのだ。
一緒に夕ご飯を作って、同じ食卓を囲う。奏が「大学楽しい?」だなんて、遠い親戚の人みたいなことを聞いてきて楓はそれに対して「授業だるい。一限切りたい」と軽口を言う。単位なんてなんのその。今が楽しけりゃそれで良いが楓のスタンス。ここまで調子に乗ると、奏もさすがに怒るかも。
今までの不仲が嘘みたいに、共同生活は上手くいって、奏の仕事が休みのときは一緒にどこかへ出掛ける。もう金閣寺とか清水寺とか行ってもしょうがないからって、ちょっと大阪の方まで行くのも良い。たこ焼きとか、お好み焼きが食べたい。
思いの外、楽しそうだ。全然不満が見つからない。何しろ、奏はスーパーウーマンだ。きっと時には辛い瞬間もあるだろうが、奏が何とかしてくれる。いや、流石に奏への負担が大きいか。仕方ないから、この妹が支えになってあげよう。
姉妹仲良く。幼い楓は、それを望んでいた。ずっと奏のそばをうろうろして、構ってくれるのを待っている。奏に遊んでもらえた日は、疲れ切ってすぐ眠る。そんな日々のことが思い出された。
今ここで了承してしまえば、そんな幸せを掴むことが出来る。とても簡単だ。
なのに。
どうして大樹の姿が頭から離れないんだ。
「いやー、遠慮しておくよ」
「っ! お、お姉ちゃんと一緒は嫌?」
慌てた奏を、どうにか説得しなくては。けど、なんと言ったらいいのか。
「そ、そうじゃなくて。まだそんな先のことはわからないから。その……ね?」
なんて曖昧な言葉で誤魔化す。しかし奏は目敏かった。楓の思考をすぐに看破する。
「彼のことが――篠原くんのことが好きになったの?」
「え!? そ、それこそわかんないよ!? ていうか、全然好きとかない! 告られたけど振っちゃった後だし……」
「え!? もうそこまでしたの!? ねえ待って。楓。ほんとに彼から変なことされてない? そんな状態で彼の家にいたなんて、さあ……」
「何もされてないってばっ!」
「楓。身内にそういう話をするのは、恥ずかしいって思っちゃうかもしれないけど、大丈夫。お姉ちゃんは全部受け止めるから。その――しちゃった?」
「なんでそういうこと聞くの!? 過干渉キモいよ、お姉ちゃん!」
「あ……」
奏が口に手を当てた。じっと、楓を見てくる。そこまで露骨な反応をされると、恥ずかしい。せっかく意識して呼んだみたのに。
「今、お姉ちゃんって」
「やっぱりまだ、しっくり来ないな」
子供の時はそう呼ぶのが当たり前だったのに。今は違和感がある。
それでもきっと、これからはいくらでも奏と接する機会が増えていくだろう。馴染んでいたはずの呼び方も、いつかは思い出す。
「いつも、私のことを見ていてくれてありがとう」
楓は言うやいなや、足早にその場を去った。奏が咄嗟に静止の声をかけるが、それを振り切る。
まったく、よくもやってくれたものだ。
こんな恥ずかしいイベントは、しばらく御免だ。
◇
「ちょっと大樹」
楓が戻ってきたのは、彼女に暇を与えてから約一時間以上あとのこと。これだけの時間をかければ、それなりに良い結果を持ってきているのではなかろうか。
「お姉さんとはどうだった?」
「そんなのどうだっていいでしょ」
「いや、どうだってよくはないけど……」
奏との時間を確保するために、何日も前から準備してきたし、今日も頑張った。楓に任せていたせいで把握できてない仕事も少なくはなく、その対応に走らされた。帰ってすぐ寝たい。明日は試合なのだから。
「明日ってさ、部活の試合なんだよね」
「ま、そうだね。だから、申し訳ないんだけど、文実の仕事は任せる」
「何時くらいに帰ってくる?」
大樹は咄嗟の返答に窮した。明日は一日、学校には来ないつもりだった。既に公欠届も提出している。だから、戻ってくる時間など考えてなかった。
「なんで? 何かあった?」
「いや、別に」
素っ気ない態度をとられる。そしてなんとなく事情を察する。
やはり人手が欲しいのか。しかしそれを直接言うのも躊躇われると。中途半端な気遣いに、大樹は苦笑した。
「勝てばそれだけ残り続けることになる。一回戦で負ければ昼くらいになるし、全部勝てば夕方かも」
「じゃあ初戦負けしてすぐ帰ってきて」
「もうちょっと応援してくれてもいいんだよ!?」
こうして、いつものパターンで会話が締めくくられる。以前通りの日常を感じさせるやり取りに、大樹は心の中で密かに歓喜した。
藍咲学園文化祭、一日目、無事終了。