「この学園はどうだった?」
◆
学年主任は教職についてから久しい。
真面目一筋で生きてきた彼にとって、ひた向きに生きようとしない生徒は面倒を見る価値がまるでない存在だった。
学生時代は勉学ばかりに打ち込んできたが、体格は人並より大きく顔も厳ついとよく言われた。そんな彼が生活指導を任されることになるのは自然な流れだったのかもしれない。
生活指導といえば、生徒たちの嫌われ役と同義なのだが、彼に不満はなかった。
むしろ、彼らの生き方を正すことは自分にしか出来ない使命だと思い、辣腕を振るうことになる。
そんな折、彼は一人の女子生徒に出会った。
彼女はのちに東京の名門大学に進学することになるのだが、当時の成績は学年で不動の最下位であり、また問題行動も多かった。
しかし彼女は、学年主任がこれまで見てきたような、身勝手で思慮の足りない生徒の一人ではなかった。
……落ち着きの足りなさと、人に騙されやすいという危うい一面はあったが。
彼女は他者との心の繋がりを何よりも重んじ、実際に共感性や感受性が誰よりも優れていた。悲しんでいる人を前にすれば、時も場所も考えずその人に手を差し伸べてしまう。笑っている人が近くにいれば、同じように笑ってくれる。そんな人間だった。
この世に二つとない才能だ。
集団行動が不得手な彼女は、たびたび生徒指導室にやってきた。
そんな彼女に、学年主任は問いかけた。
「どうすれば、君のようになれる?」
「えっ、なんですかそれ!? 皮肉ですか!?」
誤解を解きながら、もう一度説明する。
「君は、どのようにして他者の心を開いている?」
「……少なくとも、そんな怖い目をしていたら、誰も何も話してくれませんよ?」
彼女と過ごす時間の中で、学年主任は多大な影響を受けることになる。
試行錯誤を重ね、時には彼女にダメ出しを受けながらも彼は変わっていった。
行動には、必ず経緯が伴う。
小さなものから大きなものまで、生徒たちが抱えている問題は様々で、彼らにとってはそれが人生の全てだと言わんばかりだった。
不器用ながらも懸命に生きようとする彼らに、いつしか学年主任は助力を尽くすようになっていた。
「私、先生のことを心の底から尊敬します」
卒業していくときの彼女の言葉だ。
「おかげで大学にも合格できました」
「報告を受けたときは何の冗談かと思ったぞ……」
彼女から道徳的な教育を受ける返礼として、彼女の受験勉強を手伝うことになった。
彼女は丸暗記を強要してくる授業は苦手だったようで、学年主任がその部分をフォローするとめきめきと成績を上げていった。
思った以上の結果に繋がって動揺した。
「私、いつかは先生みたいな教師になりたいです」
嬉しい言葉を残して、彼女は学園を去っていった。
彼女の進む道の先に幸せがあることを願い、彼は再び教師としての毎日に戻っていった。
いつの日か、彼女に再会することを夢見ながら。
◇
彼女の制服姿を見ていると、色々とフラッシュバックしてくるのと同時に頭が痛い。
実に嘆かわしいことだ。
「あの……先生?」
かなたが学年主任に手を伸ばしかけて、しかしその手が何かを掴むことはない。
「結城」
学年主任は、かなたを呼び捨てにした。
「は、はい」
「生徒指導室へ来い。お前の方が重症だ」
「ええっ!? いや結構です! 先生のお説教はすごく長いし、心にグサグサときますから! それに篠原くんが先に指名されてたじゃないですか、今回は彼に譲りますよ!」
「篠原大樹。君は後回しだ。先にこの馬鹿に色々と言ってやらねば、私の気がおさまらない」
「は、はあ」
立ち尽くす大樹がどんどん遠ざかっていく。
学年主任は、かなたを引きずるようにして連行していった。
無事に生徒指導室に到着すると、学年主任は『使用中』の札をかけて、内側から鍵をかけた。
「なんで鍵までかけたんですか!?」
「お前……万が一にでも私以外の教員にその姿を見られたら終わりだぞ」
一応配慮をしたつもりだったのだが。
学年主任は指をさして、かなたに座るように促した。
「な、なんだかこの部屋で先生と向かい合ってみると、懐かしいですよね。ドキドキして胸が高鳴るというか。先生もそんな感じ、しません?」
「ああ、そうだな。ドキドキする――――心臓に悪いという意味でな」
「す、すみません」
かなたは場を和ませようと試みたが、学年主任の態度は冷ややかだ。
「お前は何故、高校生の姿に戻っている? 学生気分が抜けないという意識の甘えを表現したつもりなのか。これは天晴。度肝を抜かれたぞ」
「ひいっ……!?」
かなたはガタガタと震えた。
こういう迂遠な言い回しをしてくるときの学年主任は、本気で怒っている。そのことをかなたは誰よりも思い知っていた。
「いや、あの、ちょっと冗談みたいな話なんですけど……」
かなたは平身低頭でこれまでの事情を説明した。
全てを聞き終える頃には、学年主任はげっそりとしていた。
「あの、信じてもらえます……?」
「お前は嘘をつかない。逆説的に、お前の話したことは全て真実だ。だからこそ情けなく思う。いい歳をした大人がどうしてこんなことに……。私はお前がいつか悪意ある人間に騙されて露頭に迷うことになるのではないかと本気で心配している」
「まさかぁ。いくら私でもそんなことにはならないですよぉ」
「………。とにかく、お前はすぐに着替えてこい。教員用更衣室までは、さほど遠くない。なんとか顔を見られることなくたどりつけるだろう」
学年主任が席を立とうとしたとき、突然にかなたが「あっ!」と声をあげた。
「今度はなんだ!?」
「先生! お昼休みに言おうと思っていたこと忘れてました! いきなりではありますけど、バドミントン部の顧問になっていただけませんか!? 名前だけでも可です!」
「……それが、人にモノを頼むときの服装なのか?」
「すみません。また忘れないように思ったらつい……」
先日から、かなたには相談したいことがあると言われていた。
本来は今日の昼休みに時間をとって話をする予定だったのだが、色々な騒動のせいでうやむやになっていた。
「お前はつい先日まで、あのバドミントン部の顧問だったな。どうして、私に後を引き継がせようとする?」
「神谷くんから向いていないって言われて、実際相談室の業務が疎かになってしまっていたことも、もちろん理由の一つではあるのですが。でも、それだけなら私も気合でどうにかしようと思ってたんです。……でも、どうしても私では駄目な理由ができて」
かなたが、学年主任を見据える。
「私、来年はこの学校からいなくなってしまうので」
悲しみなどまるでなく。
ただ単なる事実として、かなたはその言葉を紡いだ。
「っていうか、先生は当然ご存知でしたよね?」
「ああ。異動の話はもちろん。お前はもっと駄々をこねると思っていたのだが」
「そこまで子供ではいられませんよ。……というわけで来年以降のバドミントン部を困らせないためにも、一番信頼の置ける先生にこうしてお願いをしている次第です」
気恥ずかしさからなのか、言葉がどんどん尻すぼみになっていく。
注意していなければ聞き逃してしまいそうだった。
長い溜めを作って、学年主任が口を開いた。
「結城」
元教え子の名前を呼び、再び沈黙が降りる。
静かな空気が重く感じられ、自然とかなたは祈るように手を合わせて目を閉じた。
そんな彼女の姿に、学年主任は気だるげに嘆息した。
「引き受けた」
「――――えっ?」
かなたは口を大きく開いて呆けている。
女性らしからぬ様相に学年主任は顔をしかめた。
「なぜ、意外そうな顔をする?」
「いや、だって、こんなあっさり了承してもらえるなんて。先生はてっきり、バドミントン部に対してあまり良い印象を持っていないものだとばかり……」
「確かに、そうだ」
「じゃあどうして」
「昨日、彼らの試合を見て気が変わった」
「ええっ!? 先生も見てたんですか!?」
むしろ、かなたも見ていた事実に驚く。気が付かなかった。
昨日は文化祭準備日だったのだが、体育館が騒がしいという報告を受けて様子を見に行っていたのだ。
そこでは二人の男女がバドミントンをしていた。
一人は篠原大樹、そしてもう一人は最近バドミントン部を辞めたと噂になっていた朝日月夜だった。
窓越しからでも、張り詰め通した空気は伝わってきた。
学年主任以外にも多くの人たちがその二人の試合を見ていて――――いや、あれはもう、戦いと表現した方が適切だ。信念や誇りをかけた、二人の真剣勝負。
水を差すことなど出来るはずもなかった。
「どうでした?」
「……競技としてのバドミントンというのは、あんなにも臨場感があるのだな。見入ってしまったよ」
「あっ! 私も同じことを思いました! 気が合いますね!」
気が合う、とはまた違うような気もするが。
「それだけの力の秘めた彼らを、評価しないわけにはいかないだろう。だから、名前を貸すくらいわけない。お前も安心して次へ進め」
かなたは照れくさそうに頬をかいて、はにかんだ。
学年主任も、思わず口元を緩めた。
「お前にとって、この学園はどうだった?」
学生として三年。教員として三年。
彼女はこの藍咲学園で過ごしてきた。学年主任の長い教師人生でも、この期間はどうにも気が抜けないというか、落ち着かない時間だった。
……いや、正直な心情を吐露すれば。
それだけ、かけがえなかったということなのだろう。
「……今も、昔も、ここは将来を考えさせられる場所でした」
そう言って、かなたは少しだけ寂しそうな顔をした。
何故、そんな顔をするのか、学年主任には察しがついていたが、彼女の言葉を待つ。
「私は、先生みたいになりたくて、教師を目指しました」
「………」
「大学でも、そういう勉強をしてきたんですけど……。でも分かっちゃったんです。私は先生みたいにはなれないって」
「お前の教え方は独特だからな」
マイルドな言い方にしてみたが、かなたは誰かに何かを教えることに向いていない。勉強が出来ない、というわけではない。ただ、名選手が必ずしも名監督にはなりえないのと同様で、クラス運営の素質がないのだ。
かなたの扱いに困り果てた教師陣は、彼女を相談室の管理人に任命した。
悪い言い方をしてしまえば、閑職に追いやったと言える。
その処分が下ったとき、学年主任はかなたの立場を守ろうとはしなかった。
かなたの才能は、人と関わっていくことで真価を発揮していくことを理解していながらも放置したのだ。
だから、学園主任は問いかける。
過去の自分の判断に、誤りがないかを確かめるために。
「相談室での仕事はどうだった」
「楽しかったです!」
間髪入れずにかなたは答えた。
その答えに、学年主任は口角を上げた。
「あ、いえ、楽しいと言っちゃうと、来てくれた子たちにとっては申し訳ないですよねっ。だから、えっと……」
「やりがいを感じた?」
「そう! それです!」
ビシッと指を突き出してくる。
「私、誰かとお話をするのが好きなのでお仕事は全然苦にはなりませんでした。でも相談をしに来た子たちが、後でお礼を言いに来てくれたときは嬉しい気持ちと一緒に、なんだか複雑な想いもあって……」
「何故だ」
「先生みたいになるって、約束したはずなのに。そうじゃない道を選ぼうとしている自分に気付いてしまって」
「それでいいんだぞ」
かなたが自分に相談を持ちかけてきたときは、てっきり彼女自身の進路に関する内容だと思っていた。
今、確信する。この子は相談するまでもなく、自分が進む道を自分で選び取れたのだと。
「私に申し訳ないなどと思うな。お前が教師を志し、こうして再会できただけで私は嬉しかった。過去の約束のために、自分の未来を犠牲しなくていい」
気が付くと、かなたは涙ぐんでいた。
学年主任は視線を逸らす。
「スクールカウンセラーになるのか?」
「わかりません。そんなに安直に考えていいものなのか、まだ考えなしの部分もあるんですけど……。それが、今の私に必要なことだと思うんです。勘ですけど」
「人生は、迷って、悩みながら進むものだ。……個人的な意見だが、お前は人を惹きつける天才だ。きっと、誰もがお前に心を許すだろう。しっかりやれよ」
「うわっ、かつてないほどベタ褒めですね!? どうしたんですか!?」
「だから、これでうっかりまた再会するようなことにはしないでくれよ。お前の教師として、まだまだ格好つけたいのでな」
だが不思議なもので、再びどこかで顔を合わせることになるような予感がしている。
何かそういう縁でもあるのではないだろうか。
「さて、話がまとまったところで、お前の服装をどうにかせねば……」
制服についてもう一度言及しようとすると、扉をノックされた。
かなたが怯える。彼女を奥の方へ追いやると、学年主任は慎重に扉を開けた。
「む、君は……」
神谷隼人に桜庭紅葉だ。どちらも3年生で……相談室をよく利用している生徒だ。
「……結城さんが何を話したかは知らないけど、その制服、ただの悪ノリなんで」
神谷が何かを言い始める。
「結城さんもここの生徒だったわけだし、着せてみたら面白いかと思って、俺が無理やり着せたんだよ。だから結城さんは何も悪くないし、何か言いたいことあるなら俺に言いなよ、学年主任」
「かなたん! 篠原くんに聞いて、一応相談室からこの衣装持ってきたよ! あと、悪いとは思ったけど教員用の更衣室から私服も……。とりあえず着替えよ?」
「二人とも……」
奥で縮こまっていたかなたが姿を出す。
二人が、かなたに駆け寄った。紅葉は寄り添うように、神谷は守るように。
「結城」
「はい?」
「お前は、本当に愛されているな」
「……ええ。本当に良い子たちです」
かなたは、神谷と紅葉を抱き寄せた。