「やばいかも」
ぼけっとしていたら、空が明るくなりかけていた。
どうやら朝を迎えてしまったようだ。
昨夜は家に帰ってからは家族のために夕食を作り、風呂に入ってすぐにベッドに横になった。
しかし一向に眠気は訪れず、大樹の頭の中に浮かぶのは試合の光景ばかりだった。まだまだ興奮状態が抜けきっていないのかもしれないと思い、ラケットを取り出してシャトルリフティングをした。ガットがコルクを規則的に弾く音は子守歌代わりにはならなかった。
もう一度体を横にしたとき、今度は月夜の顔が浮かんで離れなかった。
真琴の指示(命令?)に従って帰路は共にしたが、道中での会話は一切なかった。本当に一言も話さなかった。
だが駅で別れるとき、月夜に一つだけ問いかけられた。
「また好きになってもいい?」
大樹は短く答えた。
「いいと思います」
月夜は満足げになった様子で、背を向けて去っていた。
そのときはその出来事を軽く受け止めていたのだが、こうして夜が更けるまで月夜のことが離れてくれないのは、それなりに理由があるのかもしれない。
「あの言葉ってそういう意味だったのかな……?」
結論は出ない。
まだ時間は早いが、起き上がることにする。不思議と疲れはないから、布団と仲良くしているだけ無為な時間だ。
今日は今日で大事な日なのだ。
なにせ、待ちに待った文化祭なのだから。
◇
少し早めの登校をすると、文実が何故か慌ただしく動き回っていた。
どうやら、機材トラブルに見舞われたらしくその対応に追われているようだ。運悪く生徒会副会長の翠に捕まってしまったので、手伝わされる。
まったく始まりからこんな調子で大丈夫なのだろうか。
解放されて自分のクラスに向かうと、だいたい皆揃っていた。念入りに段取りを確認している。
大樹たちのハロウィン着せ替えでは、衣装の管理と撮影カメラの扱いが重要になってくる。大樹はそういったことをあまり把握していないので、誘導くらいしか出来ない。そもそも文実の関係で全く手伝えないかもしれない。
見覚えのある魔女の後ろ姿を確認する。
「楓、おはよう」
「……おう」
何故かこちらを向いてくれない。
「なにしてんの?」
正面に回り込もうとすると、楓は大樹に背を向ける形を維持しようとする。大樹がくるくると回ると、楓は合わせて回る。なにを隠しているんだ?
やがて観念したのか、楓はこちらに向き直る。
別段、何かを隠し持っているわけではなかった。前回見せてもらった魔女の仮装も特に変なところはない。よく似合っている。
何故か下を向いているのが気になるが。
俯いている顔を下から覗き込んでみる。
「あっ……」
いつもと違う、と思った。
楓は常に眠たげで、顔に覇気がない印象を受ける。ただ今は肌のきめ細やかさが際立ち、赤い頬が愛らしく映る。不貞腐れたように唇を尖らせているのは、恥ずかしいのかもしれない。
でもすごく良い。
視線ががっつり釘付けになる。
「ちょっと化粧してる?」
「いや、あの、うん」
顔の前に手をもってきて、見られまいとする。
「普段しないよね?」
「これは、委員長にやってもらったの」
「どっちの?」
「あだ名のほう」
「意外だな」
真面目系委員長(肩書)は見た目通りこういうことには疎いのだと思っていた。
……良い仕事をしてくれた!
大樹はまじまじと楓を見つめる。
「見るな、バカ」
「仮装メイクしてる人たちも珍しくないんだから。変なことじゃないよ」
今年の文化祭はハロウィンムード一色に染められている。言い出しっぺは大樹たちのクラスだが、他の生徒たちも仮装し始め、もっと凝った仮装をした人たちも何人か見かけた。
こんな薄い化粧、誰も文句を言わない。
「ところで、制服そんなところに置いていいの?」
楓は自分の制服を無造作に端っこの方に畳んで置いている。
邪魔にはならないだろうが、少し不用心だ。
「誰も盗らないでしょ。……いや待てよ? 大樹は怪しいなあ」
ニマニマとして楓がからかってくる。
このノリ懐かしい。
「し、ま、せ、ん!」
「えー、本当にぃ?」
「もしその気があるなら、楓が泊まりに来た日になんかしらやってるよ」
「ちょ、声大きい!」
口元を押さえられる。
周りには何人かクラスメイトがいる。確かに聞かれると面倒だ。
大樹は声を潜めた。
「っていうか、楓。今日、少しだけ時間作ってほしいんだけど」
楓にきょとんとした顔をされた。
一瞬の間をおかれる。
「文化祭を見てまわりたいってこと?」
「あー、まあ、そんなところ」
「私も大樹も、文実で忙しいの分かってる?」
「頑張る。実はそのために仕事を前倒しにして色々やっておいた。だから頼む」
「ひ、必死かよ」
楓としても心当たりはあり、大樹は人一倍に文実の業務に精を出していたのを知っている。楓は断る理由を探したが、何も思い浮かばない。まあ、別にいいかという気になってくる。
「ま、まあ、うん。分かったよ。じゃあちょっとだけ」
「よし!」
なんとか楓の了承を得ることができた大樹は満足して手を叩く。
文化祭の開幕時間になり、全校生徒が体育館に集まる。
生徒会長と文化祭実行委員長によって開幕が宣言される。吹奏楽部の演奏と競技ダンス部の踊りが皆の興奮を高めてくれる。
中学では文化祭がなかったため初めての経験になるが、中々迫力ある。気分にあてられて遊びたい気持ちになってくる。
残念ながら一般生徒のように楽しむ時間は確保できないし、仮に暇人だったとしても基本ぼっちで友人もいないので悲しい文化祭にはなりそうだが……。
悲観しても仕方ない。
楓と共に文実の会議室に向かう。
「楓って、何の仕事割り振られてる?」
「受付」
「……受付?」
「正門前に机と椅子を用意して、来場者確認する」
「それってさ、ずっとその場から動かないってことだよな?」
「うん」
「……俺と代わってくれないか?」
「いいけど、この時間の大樹の仕事は?」
「クラスの企画の誘導とか、その他雑務をやる予定だった」
「受付って意外と大変だよ? ひたすら来客対応に追われることになるから。本当に平気?」
「大丈夫だって! なんとかなるよ!」
◇
「疲れた……眠い」
受付を開始して数十分が経つころには、大樹は自分で立てたフラグを回収することになった。
始めこそ楽勝だと高を括り、担当の二名だけでは対処できない人数が押し寄せたところで雲行きが怪しいことに気付き、生徒の親族を名乗る外国人が現れたときには泣きそうになっていた。
英語を話せる奴なんて知らん。
月夜や神谷ならあるいは、とは思うが。
応援を要請しても、どこも人手が足りていないらしい。
ほとんど機械的に、営業スマイルを貼り付けて客をさばく。
昨晩の睡眠不足がもろに影響を出している。頭がフラフラする。喋り過ぎて口の中がパサパサになって声がかすれる。
そもそも大樹が受付係を請け負ったのは、ある人を無事に学校に招き入れたいからなのだ。招待状は渡しているが、間違いがないようにしたい。
隙をみて携帯を確認する。
もうすぐ着く旨が綴られたメッセージを確認する。
辛抱強く待ち続けて一時間。ようやく目的の人物が顔を覗かせ、思わず大樹の口元が綻んだときだった。
「ねえ。大樹。飲み物買ってきてあげたんだけど」
うわあああああああ!?
「楓!? ちょ、なんでこのタイミングで来るわけ!?」
「は? そろそろ疲れているんじゃないかと思って、クラスを抜け出して様子を見に来ただけなんだけど」
「うっそマジで!? ありがとう! でももう戻ってもらって平気だから!」
「なにそれ。やな感じ。早く帰ってほしいみたい」
「いや、その、そんなことはないんだけど! 今は駄目なんだよ! 今だけはマジで!」
「……なんで?」
純粋な疑問をぶつけられる。
大樹は無言で楓に追い返した。
「せっかく来たのに」
そう言われると本当に心がつらい。
現金かもしれないが、飲み物は有難く頂戴した。
受付に戻った大樹はやっとの思いで、その人物に文化祭のパンフレットを手渡す。
「お待ちしておりました。……このあたりで俺らのクラスの出し物やってます」
一言添えて、見送る。
これで第一関門はクリア。あとはあの人次第か。
それから、早く交代要員が来てほしい。
◇
受付を別の実行委員に任せ、食事もそこそこに他の業務をこなす。
一段落したところで、大樹は自分のクラスの様子を見に行った。
今のところ、多少の連絡の行き違いやトラブルはあっても、問題なく文化祭は進行している。本部にいると色々なことが報告されるので、尋常じゃないくらい仕事が発生する。
運営って大変なんだなあ、としみじみ思う。
クラスに顔を出す。
どうやら、好評のようだ。列が途切れないで、クラスメイトたちはずっと動き回っている。クラス企画については人気投票も行われているのだが、この繁盛ぶりなら一位も十分狙えるのではないか。
大樹も加勢しようと思ったとき、楓がいることに気付いた。
様子がおかしい。青褪めた顔で立ち尽くしているように見える。
嫌な予感がよぎった。
「楓」
「あ、大樹……」
勘違いではないようだ。
不安の表れなのか、楓の瞳が揺れる。
「落ち着いてよ。どうしたの」
「やばいかも」
「何が」
「……私の制服がなくなった」
「は?」
いつだって、想定外は突然に起きる。