「頑張れ月夜!!」
「ファーストゲームワンバイ朝日!」
真琴がコールする。
大樹と月夜の二人はコートを出た。二分間の猶予を経て、次はセカンドゲームだ。まだ試合は終わらない。まだ、月夜と打っていられる。
「お疲れ様、篠原くん」
「……真琴先輩。どうも」
水分補給をしながら彼女の方を見ると、腕を組んだままなんとも微妙な表情をしていた。意味が分からず、ついまじまじと見つめてしまう。
「どうしました。そんな複雑そうな顔して」
「褒めたいような、怒りたいような気分なの」
いつも決然としていて、はっきりしている真琴にしては歯切れが悪く葛藤しているようだった。一体、自分と月夜の試合で何を感じたのだろう。
「何を言われても平気です。今の俺は無敵だから。聞きます」
「終盤、わざと手を抜いて試合を長引かせなかった?」
大樹の瞳が、わずかに揺れた。
「そんな器用なこと出来ませんし、余裕もなかったですよ」
そう言い放つが、言葉に力が宿らない。もちろん、そんな不誠実なこと、意識的にやってのけることはしていない。
「これは勝つための戦いではないことは、重々承知しているわ。それでもスポーツマンとして全力を尽くさないことは許せない。ゲームの中で表現したいことに注力しなさい。今のあなたなら、それくらい出来るでしょ」
叱責の言葉で大樹が萎縮してしまわないように、真琴は言葉を選ぶ。彼女が今まで見てきた中で、今日の篠原大樹は最高のコンディションだ。この状態を崩してほしくない。
「それ以外については何も不満がない。絶賛したい。特に、中盤まで月夜の空気に呑みこまれずに心を強く保っていたのは花マルあげてもいい。すごく良かった」
「そ、そうですかぁ?」
「調子乗らない」
ぴしゃりと言われ、大樹は破顔した状態から表情を引き締めた。こういう素直なところは嫌いじゃないと真琴は思った。
「それにしても……」
大樹は上を見渡した。何人もの生徒が、こちらを見下ろしている。試合の途中から人がどんどん増えていることには気付いていた。即席の会場が出来上がったみたいだ。
「でも、なんかやたらと統制がとれているというか……何かの団体ですかね」
「騒がしくしたらすぐに追い出そうと思ったんだけど、なんだか彼らが真剣な顔をしているものだから大目にみている」
真琴が言うのだから、ヤジが飛んで空気を悪くなる心配はないのかもしれない。
「なんだか球技大会の日のこと、思い出しませんか」
ぽつりと大樹は呟いた。
春、球技大会でバドミントンのダブルス決勝戦を経験することになった。大樹はその頃バドミントンとは縁を切っていて、選手として出場登録はしていなかったというのに月夜に助っ人として連れ出されたのだ。
あれが、全ての始まりだった。
月夜が大樹に勇気をくれたから、もう一度バドミントンをする決心がついた。
もし、あの日に月夜が声をかけてくれなかったら、大樹は今頃どうなっていたのだろう。こんなときにもしもの仮定を考えても無益なことは分かっているが――――少なくとも大樹のまわりにこんなにも人が集まることはなかっただろう。
考えだしたら感傷的な気分になってきた。
「……そうね」
なんて、真琴もしみじみと言うものだから、下手すると泣きそう。
「あの時のダブルスは決着がつかなったんで、今度仕切り直しにしましょう。相馬先輩を呼んで四人で」
当然、月夜も含めて。
「現役が勝つに決まってるじゃない」
「あのときの俺も引退してからそれなりに経ってましたよ。なんとかなりますって」
「……考えておく」
真琴は寂しげに笑ったのを、大樹は見逃していなかった。どういうつもりでそんな顔をしたのかはこの場では問い詰めないでおく。
セカンドゲームの作戦会議をしようとしたとき、体育館の扉が開け放たれる。
入ってきたのは女子生徒。おそるおそる、あたりを見回している。大樹の知っている人物だった。
「ちょっと。部外者は来ないでほしいんですけど。見るなら上でおとなしくしていて」
真琴が威圧的に言うものだから、女子生徒は顔をひきつらせる。
ああ……。ハラハラとした気分だった。真琴は童顔だから、怒った時との落差が凄すぎて初めて接する人を萎縮させてしまうのだ。
大樹は助け船を出した。
「待ってください、真琴先輩。その人、生徒会の副会長の天野先輩で――――センパイのクラスメイトなんです」
「えっ。……この子、特待生クラスなの」
気になるポイントそこかい。受験生は目の付け所が違う。
彼女――翠は申し訳なさそうに謝ってくる。
「ごめん、邪魔しちゃいけないのは分かっていたんだけど。今、試合が止まっているみたいだから……月夜に声をかけたくて」
「そうですか。あ、もしかして上の人たちって」
「うん。クラスメイトたちだよ」
大樹は再び上を見上げる。
月夜や翠が所属している特待生クラスは、成績上位者を選りすぐって構成されたクラスだ。成績だけでなく、日頃の行いや学園への貢献度も関係しているらしく――――ようするに徳を積んだエリート集団なのだ。
この人たち全員がそうだと考えると圧巻である。
「お、お疲れ様です。センパイの応援に駆けつけてきたとか?」
「ああ、うーん。半分くらい正解かな?」
はっきりしない物言いが気になった。
「いやだってさ、見ちゃったんですもん。篠原くんが月夜の腕を引っ張っていって、何か話してると思ったら『あんたを一番わかってんのは俺だ!』って。そりゃあ気になりますでしょうー? 何事かと思うじゃないですかぁ」
「いや、あの、それはなんといいますか。つい言ってしまったというか」
しどろもどろになって誤魔化す。何を誤魔化すかは知らないが。
「私たちも、野次馬根性で来た部分もあるけど――――月夜がバドミントンをしているのを、少なからず嬉しく思っている人たちもいるんだよ」
翠がクラスメイトたちに視線を向けた。
少なからず……か。多分、翠が一番嬉しいのではないだろうか。
引き止めるつもりはない。大樹は視線で月夜を示した。
翠は月夜に駆け寄っていく。
「さて、真琴先輩――って、なんですか。その顔」
「ごちそうさまです」
両手を合わせる。
ちょっと意味がわからない。
「第二ゲームから試合展開だけど……多分、というか確実に篠原くんにとっては体力的に嬉しいものになると思う」
真琴は、月夜の姿を盗み見る。頭からタオルを被っているのでその表情は見えないが、きっと穏やかな状態とは程遠いところにいるだろう。
「月夜がマッチポイントになってからの様子がおかし過ぎる。全体の動き自体は速いけど、ショットにキレがない。フットワークもガタガタ。何より……目の焦点が合ってないような気がする」
「目の焦点合ってないって……」
大樹は苦笑した。
「体調不良……ではないよね?」
「俺もそう思います。それよりかは……身が入っていない方が近いかも」
ゲームの流れなどよりも、他のことを考えているような気がする。
まったく心を開いてくれていないのが、ありありと伝わってくる。
「心配?」
「はい。すごく」
「どうするつもり?」
「………」
大樹は何も答えることが出来なかった。
もしこのまま月夜が心を閉ざしたままなら――大樹に出来ることなど何もないからだ。
「楽しさを教えるって、こんなに難しいんですね」
◇
視界が揺れる。耳鳴りがする。息が苦しい。吐きそうだ。
風邪でも引いているんじゃないかと疑わしくなるくらいに月夜は満身創痍だった。
マッチポイントに追いつかれ、デュースで第一セットをフルスコアまで争う始末。なんとか勝利することはできたとはいえ、どういうプレイをしたのか記憶が一切ない。
というか……。
「もしかして、接待された?」
今の自分がまともなプレイを成り立たせることすら出来ない状態なのは自分で把握している。それでもフルスコアゲーム……明らかに相手が付き合ってくれている。
××は試合をわざと長引かせているのか。だとしたら何のために? 体力を削るのが目的だろうか。いや、接待が出来るほど実力を持っているのなら小細工しない方が勝率は高いはず。
知っているはずなのに、得体のしれない相手とのゲーム。
奇妙な状況だが、何故か月夜はそれを受け入れてしまっている。その自分の感覚が解せない。
「月夜! 大丈夫? 少し顔色が悪いみたいだけど……」
誰かの声がした。
話しかけられるなんて思っていなかった。ぐるっと、体をねじるようにして反応する。相手は月夜の挙動に驚いたようで、あとずさった。
制服姿の女の子だった。だが残念ながら、顔がわからない。
「誰?」
「…………え。何言ってんの、月夜」
また、自分の名前を呼んだ。彼女は、自分と知り合いなのだろうか。だが今は彼女に構ってあげる余裕はない。もうすぐセカンドゲームが始まる。
視界の端で、所在なさげに立ちすくむ彼女の姿が映った。
「そこにでも座っておいて」
「え、あ、ありがとう……?」
先ほどまで自分で座っていたパイプ椅子を指差してからコートに向かう。コートチェンジが行われるため、さっきの彼女とは反対の位置関係になる。
彼女――〇〇は、表情は読めないがこちらをじっと見ている気がする。
ファーストゲームを制した月夜からのサーブ。シャトルを受け取ったところで、今まで自分が左手でラケットを持っていたことに気付いた。一体何をしているんだ、私は。まさか自分の利き腕すら忘れてしまったというのか。
「あ、朝日先輩……利き手に戻してます!」
双葉が指差す。
「もう左打ちはいいんでしょうか。もっと見ていたかったのに」
「本当は左利きじゃない。それで試合を続けようなんて傲慢だ。第一セットでゲームが成り立っていた方がおかしい」
大神が鼻を鳴らす。月夜はバドミントンに対して真摯じゃない。彼女の実力は認めているし尊敬すらしているが、そこだけは気に入らなかった。
月夜は心ここにあらずのまま、サーブした。
第二ゲームの開始である。
大樹のレシーブはネットのわずか上を通過した。直後、脊髄反射でシャトルに肉薄した月夜は無理やりにプッシュを叩き込んできた。大樹は地を蹴り、腕を伸ばしてロブを上げる。
月夜は連続で攻撃を仕掛ける。スマッシュなどの強打で大樹に休む暇を与えない。利き腕に戻したことで、攻撃に多彩さが戻ったように感じる。
大樹はひたすらにサイドステップをする形になる。このままでは足に負担がかかり過ぎてしまう。
「あ、朝日先輩、すごい攻撃ですね。大樹さんも、よくあんなにずっとレシーブが追い付きますよね。あえてラリーに付き合わないのも手なんじゃ……」
無駄にラリーを続けるくらいなら、残りの体力を温存した賢明だと考えるのも道理だ。
だが大神は、ここは守り続けるべきだと判断した。同様の考えを今の大樹も持っているはずだ。
押しているはずの月夜の方が、明らかに疲弊している。
この均衡は長くならない。大樹も、月夜の攻め方に慣れてきたのだろう。レシーブの体勢に無理がない。下半身からの力がシャトルに伝わっている。
途端に月夜は、同じラケットストロークのままドリブンクリアを放った。虚を突かれた大樹はバックステップしてなんとか球を返す。
「よく取った!」
大神は思わず立ち上がって叫んだ。
だが、スペースが大きく空いてしまった。
「やばっ……」
大樹はホームポジションに戻ろうと急ぐが、そのときガクッと膝が沈んだ。負荷の大きい動きを連続していたせいで、体がついてきてくれない。
炸裂音が轟く。月夜のクロススマッシュは――――しかしネットに阻まれ、シャトルが床に落ちた。
「なっ……!?」
大樹だけでなく、月夜も――――そしてバド部全員で驚愕する。バドミントンはハイスピードでシャトルが行き交うスポーツ。当然、プロの試合でさえネットに引っかけてしまうことは多々ある。
だがこの場面で、朝日月夜が――そんなミスをするなんて、信じられない。
たった一回のミス。誰もがそう軽く捉えて、切り替えようとした。
だがここから月夜の乱調が続く。フレームショットに、コースアウト。大樹が何かを仕掛けるまでもなく、月夜は勝手に自滅していく。月夜は守りを固めようとしているが、それすらうまくいかない。7-0になっても月夜は狂った歯車を修正できずにいた。
「なんか……朝日先輩、ミスが増えてきてませんか。簡単にネットにかけ過ぎな気がするというか」
「ああ。ファーストゲームでの凄まじさを一切感じない。ガス欠……か?」
ずっと部活に参加していなかったのだから体力落ちしていても何も不思議ではない。むしろ、当初の大神の見解としては、篠原大樹が朝日月夜に勝てるとしたら体力勝負に持ち込むしかないと考えていた。
だが蓋を開けてみれば、大樹は善戦を続け、流れを完全に自分のものにしていた。一時大差を付けられていたのにも関わらず。
「くっそ。今のあいつ、俺とやり合ったらどっちが勝つんだ……?」
「ちょ、大神さん。今はそんなこと考えている場合じゃないですよ。一緒に朝日先輩のプレイを観察する約束じゃないですか」
「悪いけど」
大神は吐き捨てた。
「もう見るとこなんてねえよ」
「こんな朝日は……初めて見るな」
芝崎は片肘をついて唸るような声を出した。
「俺は朝日の試合をあんまり見たことないんだが……こういうこと多いのか」
「いや、全然……。朝日がこんなにミスばっかりしてるの、あたしも初めて見る。あいつ、こんなに脆かったの……?」
咲夜も、元チームメイトがここまで調子を崩している姿を見て動揺を隠せない。下手をしたら、本当にゼロゲームのままになるのではないか。1ゲームを通して、一点も取れないのは精神的にかなりつらい。
だが、結果としてそうはならなかった。
大樹がサーブするとき、彼はシャトルをネットに引っかけてしまったのだ。
月夜に初めてポイントが入った。
「なっ。ここにきてそんな初歩的なミス?」
「篠原の奴……完全に集中力切れてるな。まあ、こんな朝日を見てたら平常心を保つのは簡単じゃないのは分かるけどよ。…………お前もそのクチか?」
芝崎が声を投げかけた相手は咲夜ではなく、翠だった。彼女は椅子に座ってスカートを握りしめている。シワになることなど全く気にしていないのだろう。それくらい目の前の光景を食い入るようにして見ている。
「月夜、苦しそう……」
今にも月夜に飛びついて、試合を中断させてしまいそうだ。それをしないのはギリギリのところで理性が残っているからだろうか。上で密集している特別クラスの連中も気がかりだ。彼らが来てからというもの、体育館全体が息苦しく物々しい雰囲気に包まれている。
咲夜が呟いた。
「このまま――終わっていいのかな」
「篠原の心配をしてたかと思ったら、今度は朝日の心配か。忙しないな」
「だって篠原が勝っても朝日が勝っても――結果は誰にも喜ばれない、寂しいものになるような気がするから」
「……そうだな」
芝崎はそう言う他なかった。
許されることなら、今すぐにでもラケットを放り出してしまいたい。
そこまでつらそうにされたら、こんな試合に意味なんて全くないんじゃないかという気になってくる。
シャトルをつまんで、サーブの構えをとる。
次の一点でインターバルになる。点差は八点。第一ゲームから考えれば、ゲームポイントを奪われているとはいえ、完全に形勢逆転と言える。
こんな風にバドミントンがしたかったわけではないのに。
今の月夜を見ていたら、まともにバドミントンなんて出来るはずがない。
情けないくらいに、今の自分が上の空なのを感じる。ラケットを自分の手で振っている感覚すら乏しくなっていきている。
月夜はともかく、大樹がそうなってしまうわけにはいかない。彼女の心を開かせるために、そしてこの競技に信念をかける者として不甲斐ない姿をさらすわけにはいかない。
大樹がショートサーブを選択した。
すぐにラケットを立て、プレッシャーをかけながらコースを潰す。ネット前でシャトルに触れてみせる。
だが、それだけの集中も無意味なものとなった。
大樹は目の前の光景を信じられなかった。
大樹が送り出したサーブを、月夜は返すことなく見送った。当然、シャトルは月夜の足元に着地する。
「ちょっと――センパイ」
汗が急速に引いていく。寒気からなのか、ラケットを握る手が震えてしまう。
コースアウトすると判断してシャトルに触れなかったとしたら、それは立派な戦術だ。だが、大樹の放ったシャトルの軌道は、コースアウトするような勢いのあるものじゃなかった。サーブラインぎりぎりに狙ったわけでもない。
つまり月夜は――――対戦することを放棄したのだ。
大樹は力なくうなだれた。諦観と共に、そっと息を吐く。
たったひとつ残されていた月夜との繋がりの糸が、無情にも断たれてしまった。今の彼女には、どんなプレイを見せても、どれだけの言葉を尽くしても、きっと何も芯に響かない。完全に心を閉ざしている。
いよいよ逃げ出したい。諦めてしまいたい。
だが本当にここで月夜のことを諦めてしまったら、もう二度と彼女の心に触れることは出来ない気がする。誰かが、代わりに踏み込んでくれるだろうと、甘い期待もできない。
でも月夜に立ち向かう勇気が出てこない。
何か、ないのか。
もう一度だけでいい。
大樹の心の支えになる何かを――――
「頑張れ月夜!!」
暗澹としていた心を照らしてくれたのは、翠の声だった。
この場にいる全ての人間の意識が翠のいる方へ集中する。
「まだ試合は終わってないんでしょ!? だったら最後まで諦めちゃ駄目でしょ!」
願いを乗せて、翠は訴える。
月夜は、ぼんやりとした目で翠を見ている。その瞳の暗さに、翠は一瞬言葉を詰まらせた。
だが、声を上げるのは翠だけではなかった。
「朝日さん、しっかり!」
「まだまだリード守れてるよ!」
「まず一本取ってこうよ!」
「後輩になんか負けんなよ!」
「っていうか男子が相手とかずるくない!?」
「少しは手加減しろや、一年生!」
色々な言葉が飛び交う。時たま大樹に対するヤジが来ることもあるが、そのほとんどが、月夜を気遣うものだった。月夜のクラスメイトたちの声援が体育館を揺らす。
必死な形相で声を張り上げる。真剣な眼差しが月夜に向けられている。
その光景に、大樹は目がくらむようだった。
こんなにも、月夜を見てくれる人がいる。そのことが素直に嬉しい。
月夜に向けられているはずの応援で、勇気を与えられているのは大樹だった。
「――インターバル。一分間の休憩です」
真琴が厳かに告げた。
ここからきっと、変わってみせる。
〇〇と、多くの人たちが自分の名を呼んでいる。
月夜は彼らの姿を、その瞳に映す。
長く、バドミントンに限らず色々なスポーツをしてきた。
常勝の月夜ではなく、負けた対戦相手の方が労われるのがしばしばだった。勝つから楽しいなどと考えることは出来なかったから、自分にとって満足のいくパフォーマンスが出来たかどうかで楽しさを判断するしかなかった。
負けても、誰も月夜を励まさない。勝手に反省点を精査して帰って、次に活かす。
月夜にとってのスポーツとは、一人で完結するものなのだ。
試合中の応援など、形式的にこなしていただけに過ぎない。相手がどう感じるかなど考えたことがない。声援を受けても月夜は何も感じたことがなかったのだから、その想像力が欠如していた。
今この瞬間、その認識を改める。
人の声に、こんなに元気をもらえるなんて、知らなかった。
セカンドゲームのインターバルを迎えた月夜は、一目散に〇〇に駆け寄った。
彼女の名前を、呼ぶ。
「翠……」
「な、なに?」
「あなたは天野翠――私の友人、よね?」
○○――翠は不満そうに頬を膨らませた。
「その通りだけど、どうしたの?」
「翠……お願いが」
月夜は自分の髪に触れた。いつもは必ず、その長い髪を縛ってから試合に臨んでいた。しかし今日は下ろしたまま、髪を振り乱して戦っていた。ちょっと鬱陶しいと感じていたところだ。
「髪を結んでほしい。何でもいいから。ヘアゴム持ってる?」
「ごめん、私は普段使わないの。ヘアピンは持っているけど」
「無理そう?」
「待って。やってみる」
パイプ椅子に月夜を座らせた。
普段あんまりやったことがないが、ヘアゴムなしでも髪をまとめ上げる方法はいくつかある。翠は頭の中でやり方を思い出し、実践する。
「この休憩って、どれくらいもらえるの?」
「一分間」
「短っ!? 急ぐよ!」
翠が月夜の髪に触れるのは初めてのことだった。触り心地が良く、枝毛すらない。その黒髪は輝きを放ってさえいるかのようで、見続けているとと妙な気分になってくる。
凄艶という言葉を用いても過言ではないと思う。
スポーツをしている最中なのに、汗くさいなんてことはないし、なんなら良い香りまでしてくる。翠は同じ女としての自信を喪失しかけた。
「で、できた、かも」
「どうなってるの?」
スマートフォンのインカメラで確認する。
お団子とは少し違う。背中まで伸ばした長い髪は、後頭部の少し下のあたりでぐるぐると巻き付けられていた。ヘアピンで感触があるから、簡単にほどけたりはしないと思う。
「凄い。ここまでとは思ってなかった。どうして?」
「ねえ月夜。私の趣味というか、特技はヘアアレンジングなんだけど……分かってて頼ってきたわけじゃないの?」
「うん、知らなかった」
「はあ~。なんかちょっとガッカリなんだけど」
「自分で髪を伸ばそうとはしないの?」
「憧れはあるけど、似合わないんじゃないかなと思って。結局は切っちゃうんだよね。って、そんなことはいいの!」
一分は多分、とうに越してしまった。それでも審判の人が気を遣って待ってくれていることに翠は気付いている。月夜の背中を押す。
「翠。ありがとう」
「……オウ」
照れくさくなって変な口調になった翠である。
月夜が姿を現してコートに戻ろうとしたとき、上で黄色い声が上がった。
「きゃあああ!? 何アレ!? 超可愛いんですけど!?」
「ちょ、お前どけって! よく見えないだろうが!!」
「落ち着いてよ男子! 写真撮るから! いや……動画の方がいいかな?」
「どっちでもいいけど、絶対俺に送ってくれよ!」
月夜は彼らの声に反応して、軽く手を挙げた。
すると、それまでの比ではないくらい月夜のクラスメイトが騒ぎ出し、暴動と何ら変わりない熱狂状態になりそうだったところに、真琴の怒号が飛んだ。
「うるさくするなら全員出ていけェ!!」
冷や水を浴びせたみたいに一気に静まりかえった。
ようやく試合が再開する。
月夜は××を見据えた。
視界に赤い光と白い線は、うじゃうじゃと飛んでいる。××の顔も、未だに黒く塗りつぶされている。
けれど、月夜は自信を持ってその名を告げる。
「勝負よ――――篠原大樹くん」
全ての不純物が跡形もなく消え去った。同時にバドミントン部全員の顔が露わになる。視界はクリアになる。名前も全て思い出した。
××――大樹は笑みを浮かべる。
「はい。それではいきましょうか」