「私は何をしているの?」
試合が始まった瞬間、月夜は深い集中の海に潜った。
バドミントンが好きではなくとも、月夜はその溢れる才気で無理やりにその境地に到達する。そうなったら最後、誰にも彼女を止められない。
事実、高宮を筆頭にして全国大会常連の六花総合の選手を退けた実績を持つ。
集中状態の月夜が目にしている光景は、常人のそれとは比較できない。
相手の急所、攻めるべき弱点が赤い光で見える。そして、どのようにラケットを振るえばいいか、その軌道も線となって浮かび上がる。月夜は適切な力加減でその線をなぞれば良いだけだった。
大樹のサーブに、一足早く跳躍する。大樹の反射速度を上回るショットに、大樹は失点した。
それを皮切りに、試合は一方的な展開になっていた。月夜は機械的にショットを繰り出しているに過ぎないが、大樹はシャトルを拾えない、返せない。
大樹の右拳にスマッシュを打てばレシーブを正確に当てられずシャトルをネットに引っかける。左耳の横を狙ってドライブを打てば反応が遅れてシャトルを追うことすら出来ない。天が告げる軌跡は、大樹に付け入る隙を一切与えない、無慈悲で非情なものだった。
大樹の頭上を、シャトルが追い越していく。大樹が腕を伸ばしても届かない、届いたとしても生きた球を返せない絶妙な高さと速さ。
大樹はオーバーヘッドで打つことは諦めて、瞬時にバックステップ。肘と手首を使って仕切り直しのロブ。
「月夜のペースに合わせないで! 守っちゃ駄目!」
真琴が声を張り上げる。試合の真っ最中、インターバルでもないのに主審がアドバイスをしても良いのかはグレーゾーンだが、今日のところは目を瞑ろう。それくらいのアドバンテージは認めてもいいと月夜は思った。
それでも淡々と得点を続け、圧倒的大差でインターバルを迎える。ラリーが長続きしないのでお互い汗はちっともかいていない。
「篠原くん……」
心配げな真琴の声が聞こえた。真琴だけじゃない。バドミントン部のメンバーが、沈痛な面持ちで試合を見届けている。彼らがこの日の大樹のために練習を重ね、策を練り、強い覚悟を持ってきたことを、月夜は知っている。ずっと見ていたからだ。
しかしその程度では、月夜のいる領域を侵せない。高く厚い壁が立ち塞がっているイメージが浮かぶ。彼らでは登ってくることも打ち砕くことも出来ず、また月夜にもどうやってそちら側に戻っていいか分からない。どうしようもない隔たりがあるのだ。
「もういいよ、篠原くん」
失意の中で月夜はぽつりと言う。
試合が始まれば、月夜の想定を上回る力で食らいついてくるか、裏をついた奇策を繰り出してくるのではと警戒――もとい、期待していた。
想像以上に歯ごたえがない。続けても結果は目に見えている。
「君はよく頑張ったと思う。私を引き留めようとしてくれてありがとう。でも、もうダメだよ」
「まだ、終わってませんよ」
「強がらなくていい。君自身、もう諦めたくなって――」
月夜は言葉を継げず、息をのむ。
大樹は強がってなどいなかった。もちろん諦めてもいない。しかし、だからこそ闘志を全く放っていない大樹を理解できない。いくら、勝つことだけに重きを置いていないとしても。
澄んだ瞳が月夜を捉えている。
どういう心境の中にいるのか推し量れなくて、月夜はコートに戻る。一分間の休憩はまだ終わっていないが、あの瞳から逃げたかった。
「逃げる……? どうして、私が?」
シャトルを握るその手は、どうしてだか震えていた。なかなか治まってくれない。
「だから、なんだと言うの」
体の異常を無理やり捻じ伏せる。こうなったら完膚なきまでに大樹を叩き潰す。そうすれば、あんな目をしてはいられなくなるはずだ。
月夜はラケットを左手に握り直す。
「え、な、なんで!? 左利き!? 朝日先輩は何を考えているんですか!? もしかして、大樹さんにハンデをあげるつもりで……?」
双葉が慌てて駆け寄って、大神の体をぶんぶん揺らす。大神は苛ついて双葉の腕を払う。
「いや……そういうつもりじゃない」
代わりに双葉の疑問に答えたのは蒼斗だった。
「左手を使ってバドミントンをする利点があるんだ。シャトルについている羽根は左巻きだから左利きの選手が打つと回転が良くかかりやすい。スピードも出やすいし」
「へえ……。あ、じゃあ大神くんのスマッシュがすごく速いのは、左利きのおかげってこと?」
大神の藍咲バドミントン部で唯一の左利きだ。
大神は線審の椅子に座ったままの状態で双葉を睨む。
「俺のスマッシュが速いのは、俺が左利きだからじゃねえ。適当なこと言うな」
「ご、ごめんなさい」
双葉が頭を下げて謝る。大神は日頃から――きっと藍咲に来る前からスマッシュを速くする修練を続けていたのだと思う。でなければ、一年生にして超高校級の速度を出すことは出来ない。
「とは言っても、その利点を生かすためだけに左利きとして始めようって人はいない。当然、利き腕の方が上手く実力を発揮できる」
「……朝日先輩は、元々は右利きですよね?」
「その通り。でもいつの間に覚えたのか……朝日は左手の扱いも上手い。その強さは、俺が身をもって体感したからよく知ってるよ」
月夜のサーブでゲームを再開する。赤い光は相変わらず大樹の弱点を教えてくれる。どうやって体を動かせばいいのかも、線の通りに従っておけばいい。
左打ちになったことで、ここまでのゲームで慣れつつあった大樹の感覚はリセットされたはずだ。単純な話、フォア・バックの攻め方を改めないといけなくなる。もちろん月夜にとっても同じ条件だが、導きがある限り遅れは取らない。たとえどれだけ悲惨で、退屈な試合になっても容赦はしない。
インターバル前同様、月夜の得点が続く。
現副部長、咲夜は悲鳴じみた声をあげる。
「まずいよ、これ……! このままだと篠原、何にも出来ないまま負けちゃうんじゃ!? ど、どうしたら!?」
また月夜の得点。ここにきて、初めてシャトルの交換が行われる。真琴が新しいシャトルを用意している間、試合が一時的に中断される。
咲夜は悩んだ。何か喝を入れるべきだろうか。頭をくしゃくしゃと掻いているその姿を見て芝崎は口を開いた。
「余計なことすんなよ、村上」
「はあ!? 何言ってんの! このままだと簡単に負けちゃう。何かアドバイスすべきでしょ」
「今の篠原にそんなもん必要ないし、求めてもないと思うぞ」
「何でそんなこと分かんの」
「ここからだと篠原の顔がよく見えるんだよ」
芝崎も線審を務めている。この位置からは月夜の後ろ姿が近くにあり、コートを挟んで奥に大樹の正面が見える。
「スコアも、プレイも、どっちでも圧倒されてんのに変に焦った様子がない。それでいて篠原自身のプレイの質は十全に発揮されている。スポーツやってて思うんだが、ああいう状態の人間はどいつもこいつも強い。後半はひっくり返る」
「だから今のままじゃそうなる前に試合が終っちゃうんだって! それに今は大丈夫でも、もし篠原の心がどこかで折れたら――」
「いやいやお前。それは絶対にないだろ」
芝崎は無造作に手を振る。
「篠原大樹は、朝日月夜のことを諦めねえよ」
想定外だ。月夜は歯噛みする。
ゲームが進行していくほどにラリーが途切れなくなってきている。シャトルがコートを行き交う。ようやく試合らしい展開になってきたと言える。だが、こんな展開を月夜は望んでいたわけではない。左打ちにしたせいでゲーム展開がおざなりになったわけではないはずなのに、何故……。
気の遠くなるラリーの果て、それでも得点するのは月夜だ。最終的には競り勝つが、ヒヤヒヤする。突き放すはずだったのにちっとも上手くいかない。大樹と月夜に、玉のような汗が浮かぶ。ただ、消耗が激しいのは月夜の方だった。
苦しい。月夜は久しぶりに、その感覚を思い出した。
目標だった高宮を打倒し、月夜は全能感を手に入れた。燻って行き場のなくなった苛立ちも、月夜がその領域に身を委ねれば解消されていた。だが、今はまたストレスが溜まり始めている。
何故だ。何故、こんなことに……。
スコアを確認する。後、三点取れば一セットが終わる。たったの三点だ。長引けば、それだけ苦しい時間が続くことは必至。このまま攻め続け、二セット目も奪う。それで終わりだ。
決着を急ぐ月夜はドライブで大樹を攻め立てる。導きの線は、今は無視する。大樹のボディ回りを狙って集中的に叩く。大樹も乗っかってドライブを返してくる。だが、このラリーは長く続かない。ドライブの質の高さは月夜に軍配が上がる。ただの打ち合いなら、大樹はやがて根負けする。
予想通りというべきか。大樹はクロス方向へドライブをいなした。月夜をネット前に誘い出すつもりか。
月夜がシャトルを追う。そこで視界に線が現れた。ゆるく高く伸びるアーチ状の軌道。コートの奥を狙うものだ。大樹は重心が前にかかっており、前方に飛びつく体勢だ。これは決まる。
ぐっと、ラケットを引く。そしてシャトルを高く打ち上げようとした瞬間だった。
目の前に、大樹が立ち塞がっていた。
「なっ……」
一瞬で、ネット前まで間合いを詰めてきた。
月夜が描こうとした軌跡が、大樹のラケットの面を通過してしまっている。これでは止められてしまう。
機械的な反射打ちから、手動でのロブに切り替える。
打ち上げた瞬間、月夜は「しまった」と小さく声を漏らした。シャトルが大樹の体の横を抜くように、つい力任せにラケットを振った。
シャトルはコートラインをわずかに越えた。大神は当然アウトのジャッジを下す。
「よ、よし!」
月夜の後ろで聞こえたその声は、多分咲夜のものだ。
この試合、何点か大樹に得点を許す場面があったが、それは月夜が見逃したり追わなかったりしていた部分が大きい。しかし今の一点は、完全に月夜の失態によって――ミスをさせることによって大樹が掴んだ貴重な一点だった。
それにしても、月夜は不可解に思える点があった。
「何故、彼は追い付けたの……?」
導きの線は、相手の力量を見抜いた上で判断を下す。月夜はここまでのゲームで今日の大樹の力量を把握したはずだった。だから無理なく得点ができていた。
それがここにきて、月夜の想定を上回るプレイをやり始めた。力を隠し、温存していたわけではないだろう。つまり――大樹は試合中に成長してみせたのだ。
「なんで、そんなことになるの……?」
試合を上手く運んだことによって興奮状態になり、普段以上の力を引き出しているというなら説明がつく。しかしここまで月夜がずっとゲームを支配していたし、現時点においても大樹が劣勢なのは変わりない。どういう精神状態ならそんなプレイが出来るというのだ。
脅威になど感じたことがない、後輩の男子。今は彼の存在が不気味で仕方なかった。
謎は解けないままゲームが進行していく。
「あいつ、ハマってるな」
大神は目を細めて大樹を見る。
中学時代から大神は大樹と何度も対戦してきた。その大神には今の大樹の状態がわかっていた。
試合の流れなど関係なく、途端に調子を上げてくることがあるのだ。そういう日は大抵、試合前から集中状態が続いている日なのだと、本人は言っていた。大神も当時は散々苦しめられることになった。
「一矢報いるだけじゃ終わらないかもな」
やはりラリーが途切れない。月夜が狙ったコースに、大樹は常に対応可能なように緻密にポジションをとっている。導かれた軌跡をそのままなぞるのは、もはや危険だった。
しかし月夜は失点を重ねつつも、なんとかマッチポイントまで到達した。あと一点でファーストゲームは終わる。
弱点を示す赤い光は健在だ。今度は顔だ。大樹の顔を狙えばいい。
少しだけ罪悪感覚えて胸が苦しいが、なりふり構っていられない。
トドメを刺す。それしか考えられない。
月夜はロングサーブを放つ。大樹は後方に淀みなくステップした。まるで予測していたみたいに。スマッシュを警戒したが、大樹が選んだのは低空を速く突き抜けるドリブンクリアだった。
月夜は高く飛び上がった。不意をついた一打だったが、月夜の体勢を崩すほどではない。
線がまた浮かび上がる。狙いは顔面。うっかり失明させてしまうようなミスを犯すつもりはないが、全力で行く。
導きに従い、ラケットをスイングする直前だった。
赤い光と導きの線が、粉々に砕け散った。
「は?」
戸惑いの声をあげる月夜。狙いを定められずシャトルがフレームに当たってしまう。カン、と甲高くどこか間抜けな音が響く。スマッシュとは呼べないショットが大樹に向かっていく。まずいと思うがどうしようもない。まだ着地すらしていないのだ。
今の大樹は、こんなわかりやすい好機を逃さない。ぐっと踏み込んだかと思うと力強いドライブ。次の瞬間にはシャトルは眼前に迫っている。ぎょっとして月夜は体を後方へ倒した。尻餅をついた。
「センパイ、大丈夫ですか!?」
大樹と真琴が駆け寄ろうとしてくる。月夜は軽く手を上げて彼らを制した。
立ち上がり、遥か後ろに転がっていたシャトルを拾う。大樹に手渡した。
失点したことはどうでもいい。そんなことよりも今幻視したビジョンの方が気がかりだ。
集中力が切れかかっているのだろうか。大樹を見据える。赤く点滅したり白い線が視界に浮いたりしていて、視界不良どころではない。頭が痛くなってくる。
それらの不純物を大樹に重ねようとすると、やはり消滅してしまう。
ここにきて月夜は悟った。もはや大樹の力量は、月夜に推し量れるものではなくなっているのだ。赤い光も導きの軌跡も意味をなさないくらいに弾き返す。
月夜が授かった恩恵は、もう通用しないのだ。
足場が崩れていくような感覚に襲われる。つい先ほどまでは、自分の実力を絶対のものとして信じて疑っていなかった。あれだけ威張り散らしておいて、少し追い込まれたらこの程度か。
月夜は自虐的な笑みを浮かべる。
けど、どうしてだろう。
これまでに、月夜は全国大会常連の選手と試合をしてきた。彼女たちでさえ、月夜の化けの皮を剥ぐことは出来なかったのに。
――どうして××は、私をここまで追い込んで……。
「…………え?」
名前が出てこない。おかしい、どころの騒ぎではない。対戦している人間の名前がわからないはずがない。
顔を上げ、コートの奥を見つめる。
霞んだ視界の中にその人物は立っている。だがその顔は、黒いペンキで無造作に塗りたくったみたいに判然としない。何度目を凝らしてみても、全然見えなかった。
対戦相手だけではない。
主審も、線審も、その他のギャラリーたちの顔が、見えない。
見えなくても、思い出せばいいだけだ。それすら出来ないなら視界不良だけではなく、軽い記憶喪失を疑った方がいい。
ここは月夜が通う藍咲学園で、その体育館を使って試合をしている。今は辞めてしまったが、元々月夜はバドミントン部であり、それで……。
明日に文化祭を控え、その準備日として登校してきたのだ。そこで何か嫌なことがあってうずくまっていたら××がやってきた。そう、××が駄々をこねるから、前から約束していた試合をやってあげることにした。
なら、対戦しているのは××であり、周りにいるのはバドミントン部の人たちだ。かつての月夜の居場所であり、少なからず交流があった人たち。
――どうして、そんな人たちの顔も名前が出てこないのだ。
顔はわからないのに、彼らの目がこちらに向いているのはわかった。
怖い。自分の呼吸音が普段より大きく感じる。
××がサーブの構えをとり、反射的に月夜もレシーブの体勢になった。
試合は続けなければならない、気がする。
まがりなりにも選手であるという意識が、矜持となって無感動に体を動かす。
「私は……何をしているの?」