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「ラブオールプレー!」


 月夜はこの日、朝から居心地の悪さを覚えていた。

 今日は夜から大樹と試合をする。そのためにバドミントン道具一式をラケットバッグに詰めて背負ってきた。

 それが、人の目を引いてしまったようだ。


「朝日さんバドミントン部に戻るの!?」

「え、そのつもりはない?」

「じゃあ今日はどうしたの?」

「ええ? 約束って何のこと?」

「それより朝日さん、その気があるならウチの部にこなーい?」


 などと、ひっきりなしに声をかけられる。今日が通常の授業ではなく、文化祭の準備期間であることも災いして、本当にひっきりなしに、だ。油断する暇がない。


 昼休憩になった段階で、クラスを抜け出す。もちろんただの逃げだ。同じところにじっとしていたら、格好の餌食だから。


 人気(ひとけ)のない特別棟までやってくる……ことには成功したのだが、月夜は嘆息した。どうやら、鬱陶しいハエはまだついてきてしまっていたらしい。


「なに?」


 振り返った月夜が苛立ちながら問いかける。ずっと月夜を尾けていた男子生徒は、いきなりのことで少し動揺したようだ。


「な、なんだよ、そんな怖い顔で睨むなって」


「誰?」


「はー? それはないわ、マジで。ちょっと前まで同じバドミントン部だったじゃねえかよ」


 言われるが記憶にはない。芝崎か? いや、彼よりも体の筋肉がついていないし、肌も荒れている。健康体でないのが一目で分かる。瞳だけが窪んでギョロギョロとした目つきなのが気持ち悪い。


「お前さ、バド部に戻るってマジ?」


「誰もそんなこと言ってない」


「かぁー、マジかよ。もし本当だったら俺も戻ろうかと思ってたのに」


「あなたは何を言っているの?」


 何故自分がバドミントン部に戻ったら、この男までついてくるのだろう。因果関係を理解できない。


「そんなの言うまでもないっしょ。別に俺だけじゃなくて、他にもそういう奴らいるぜ? お前がバドミントン部に戻ったらまた大所帯になるな。虫の息のバド部も、部員が戻ってきてくれて喜ぶんじゃね?」


 あ、嫌い。

 いけ好かない男だと思っていたけれど、話せば話すほどに不愉快さは増していく。あと一秒だって言葉を交わしていたくない。


 別にバドミントン部に戻りたいなんて考えはこれっぽちもない。しかし、もし自分のせいであの場所が――あの人が、迷惑を被るかもしれないという想像をすると胸が苦しい。ある意味で、自分が部活を離れる決断は成功だったのではなかろうか。こんな悪い虫が寄らなくて済む。


 早足でその場を去ろうとする。しかし男はついてくる。


「つうかさ、マジ寒くね、バドミントン部。朝日がいたから成り立っていたっつー自覚ないんかね。しょぼい奴らで群れて、頑張ってますアピールがムカつくし。体育館で見かける度に早く潰れねーかなって思うわ」


 腹立たしいが無視する。反応したら負けだと思う。


「一番ウケるのは、やっぱ村上かなー。女子はあいつ以外全員やめちまったから、団体戦もダブルスも出来ねえ。んでもってシングルスも大したことねえ。俺あいつと同じクラスだから知ってんだけど、あいつずっと塞ぎ込んでやんの。笑える」


 咲夜のことを思い浮かべた。

 彼女は副部長として、部をまとめていく重圧の中にいた。こういう状況になった今も、もしかしたら責任を感じて悔いているかもしれない。

 彼女を友人と呼んでしまっていいのか、そんな資格があるのか分からないが――彼女を侮辱するこの男は許されるべきじゃない。


「まあ最近じゃ持ち直してきたみてぇで面白くないんだが。……ああっ! 俺のイチオシはあいつだな! あのー、えー、名前が出てこねえな。篠原だっけ? あの陰キャラ。 まあ覚えてないだろうけど」


 月夜は足を止めた。


「あいつ、調子乗ってるよな。一年の分際で試合に出やがってよ。途中から入ってきたくせに。あいつ絶対お前のこと好きだぜ。いつもお前の回りをうろちょろしていたもんな。今頃お前のことが恋しくなってんじゃねえのー? ちょっと喜ばせてやろうぜ。きっとホイホイついてくるぜ」


「黙って」


 その言葉通り、不遜な態度のその男を黙らせる。先ほどまでとは比べ物にならない月夜の剣幕に、男は口をパクパクとさせている。そこからは言葉に成り損なった音だけが漏れる。


「あの部活はもう十二分な基盤を築き上げている。彼らは自分の好きなスポーツのためにひたむきに努力が出来る人たちよ。何があったって揺るがない強さも持っている。あなたのような口だけの人間とは比べるまでもないわ」


「はあ!? 俺があいつらより下だって言いたいのかよ!」


「上とか下とか考えている時点で、浅ましい性根を隠せていない」


 男が腕を振り上げる。だが、月夜は一切動じることなく鋭い眼光で男を怯ませた。

 さすがに暴力沙汰はまずいと思い直したのか、振り上げた拳を下げた。途端、彼は肩を震わせ笑いだした。気でも狂ったのだろうか。


「偉そうなこと言ってるけどよ。お前だって俺らとそう変わらないんじゃねえの?」


「……なんですって」


「だって、そうだろ。バド部の奴らを庇って味方面してるけど、じゃあ何で辞めたんだよ。結局のところ、バドミントンにも、あいつらにも興味がなかったからだろ」


 耳を貸す必要なんてない。話をすり替えて月夜を責めるつもりという、その意図までしかりと見抜くことが出来ている。


 だがこんな男でさえ、月夜の悩みの一端には辿り着いてしまうというその事実が、思った以上にショックだ。なんだか自分は、とてもくだらない人間なのではないかと思えてくる。


 言い返さない月夜を見て何を考えたのか知らないが、男が月夜との距離を詰めてくる。

 月夜は離れようとする。だが、廊下の隅に追い詰められてしまった。


「噂で聞いたんだけど、お前って飽きっぽいんだろ。だったら試しに俺と付き合えよ」


 意味が分からないが、それどころではなかった。思いの外、この男のせいで心をかき乱されてしまっている。

 男の顔が迫ってくる。でも動けない。男は抵抗しない月夜に気を良くしたのか、下卑た顔を近づけてくる。


「うおっ、なんだよ! 誰だ、お前!」


 男は誰かに首根っこを持ち上げられていた。まるでネコのよう。

 高身長に、眠たげな顔。そこにいたのは神谷隼人だった。月夜は人の顔と名前を――特に男子はちっとも覚えられないのだが、この人は印象が強くて記憶に刻み込まれていた。


「……余計だったか?」


 月夜に問いかける神谷。月夜は力なく首を振った。


「いえ、助かりました。その人、任せていいですか」


「面倒くせえこと押し付けんなよ。と、言いたいところだが、こんなところで問題なんて起こされると迷惑だからな。こいつは連れて行く」


「離せ、離せってんだよ!」


 名前も知らぬ彼はずっと暴れている。多分、神谷なら問題ないと思うが、急いでこの場を後にした方がいいだろう。


 一応、お礼のつもりで頭を下げる。


「さっき、ムキになってバド部を庇ってところ。……あいつに見せてやりたいな」


「やめてください」


 月夜はしかめっ面のまま去っていく。

 その後ろ姿を見届けて、神谷は眉をひそめた。


「もしかして、やばいか?」



 部活開始の数十分前に、大樹は既に体育館に来ていた。

 早くバドミントンをしたいという気持ちももちろんあったが、体育館のモップがけをするためだ。現在の藍咲バドミントン部は人数が少なすぎるので、下級生に雑事を押し付けるということを良しとしていない。上級生たちも手伝うのが暗黙の了解だった。


 しかし、今日は後輩としてそういうことを率先してこなしたい気分だった。みんながやってきたときには完璧に準備を整えておいて、驚かせてみせたい。そういうビジョンが目に浮かぶ。


 とかなんとか考えていた数分後には部長の蒼斗がやってきてしまった。儚い妄想であった。予想通りというか、いつも通りに蒼斗も手伝ってくれてあとはコートを張るのみとなった。


 蒼斗はあえて月夜との対決について触れてこなかった。きっと余計なプレッシャーをかけないようにしてくれていたのだと思う。心遣いがありがたかった。


 と、そこで携帯が鳴った。大樹のものだった。


「篠原。部活中は電源切っておけよ」


「すみません」


 無論大樹だって常にそうしている。だがこんな時間に、しかもメッセージではなく電話が入るだなんて滅多にない。一体、誰からだろう。

 画面を見て、大樹の顔が引きつった。


「え、神谷さんから……?」


「は、兄貴?」


 二人して戸惑う。共通の認識として、神谷は誰かに電話をかけてくるような性格ではないのだ。何のために連絡を入れてきたのか、全く想像できない。

 かなりの緊急事態と捉えるべきだろうか。


「も、もしもし」


『ひとつ、お前に忠告しておいてやる』


 通話状態にした瞬間、上から目線でそんなことを言われる。こちらの都合などお構いなしなところが大変神谷らしい。


『今すぐ朝日月夜を探したほうがいい。俺は何もしてやれない』


「え、ちょっと待ってください。話が全然見えてこないんですが。センパイに何かあったんですか!? どうして神谷先輩がそれを俺に伝えてくるんですか!?」


『そうすべきだという俺の直感だ。俺は忙しいから切るぞ』


「待って――」


 大樹の静止も待たず、通話を切られる。

 いきなり過ぎて意味がわからない。だが、神谷の忠告を無視するという選択肢は最初からない。大樹は蒼斗に目配せする。


「いってきな。身内が言うのもなんだが、兄貴は色々な機微に気付く。俺らに分からないことがあの人には分かる」


「すみません。すぐに戻ります」


 部長の許しをもらい、大樹は走り出した。

 真っ先に向かったのは月夜の教室。しかし、そこで彼女の姿を見つけることは出来なかった。ある意味では予想通り。どこにいるのか見当もつかない。大樹はがむしゃらに足を動かした。文化祭の準備をしている生徒たちと何度も衝突する。謝罪もそこそこに走り続けて、やがて大樹は立ち止まった。体力の限界を迎え、冷静になった。闇雲に探しても見つからないと悟った。


「神谷先輩は、どういうつもりで電話なんて……」


 話した内容を振り返る。忠告。朝日月夜を探せ。俺は忙しい。

 どういうシチュエーションがあって、そんな助言をしようという発想に至ったのか。多分、神谷は月夜と何らかの形で接触して――そこで彼女に異常を見つけた。大樹がどうにかすべきだと判断して、連絡する。


「待って。そもそも、センパイたちはどこで会ったんだ……?」


 月夜はともかく、神谷の行動範囲なんてたかが知れている。つまり相談室。神谷はいつも通り、そちらに向かいそこで月夜に遭遇したのでは?


「特別棟か!」


 見つからないわけだ。

 今日、相談室のある特別棟は生徒の出入りが少ないはずだ。音楽室や生物室など、授業で使用される教室が集中しているが、今は誰かがいるはずもない。もし月夜がいるなら一発でわかる。


 特別棟を全力疾走で駆け抜ける。人にぶつかる心配はしない。そして最奥まで探すつもりはない。もし相談室付近に月夜がいるなら、探せなんて言わないはずだから。

 部活前だというのに汗だくだ。ウォーミングアップにしては過剰だ。

 授業で使われる特別室は、そのほとんどが鍵をかけられた状態だ。なら、昔はクラスとして使っていた教室に彼女はいる。


 当たりだ。月夜は未使用の教室にいた。机の上で膝を抱えて、顔を隠している。泣いているわけではないと思う。しかしその姿を見て、逡巡する。声をかけづらい。


 部屋に入ると、途端に月夜は顔を上げた。


「誰っ!?」


 大樹は足を止めた。月夜は大樹の姿を認めると、今度は動揺を見せた。


「篠原くん……どうして」


「いえ……その、神谷さんがセンパイを探せと」


 何か言い訳しようと思ったが、素直に白状しておいた。


「……まったく、あの人は余計なことを」


「何かあったんですか。今も、つらそうにしていましたし」


 神谷に悪態をつく月夜を、大樹は気遣う。彼女に何があったのかは分からないが、どうやら今すぐにでもどうにかなってしまう状態ではないようだ。それだけは確認できて、安心する。


「違うの」


「違う?」


 何の話だろう。


「変な人に絡まれて、ムカムカして言ってしまっただけだから。別にバドミントン部の味方でいるつもりはないの」


「……その変な人って誰ですか」


「元バドミントン部の人」


 大樹は顔をしかめた。個人的に、辞めていった人たちには良い感情は持てないのだ。月夜目当てで入部して、月夜がいなくなった途端に背を向ける。それだけでは飽き足らず、蒼斗を始めとした人物たちに心ない言葉をぶつける連中だ。いなくなってくれて、せいせいしている。


「大丈夫でしたか。何か嫌なこと言われてませんか」


 月夜が槍玉に挙がることはないとは思うが、彼女は控え目に言って美人だ。そういう意味でも心配になる。

 月夜が押し黙る。大樹はそれを肯定として受け取った。苛立ちが募る。今更自分たちの邪魔をしないでほしい。


「気にしちゃ駄目ですよ。センパイに悪いところなんてないんですから」


「私――――君とは戦えない」


 突然のことで言葉の意味を理解するのに時間がかかった。その間、ただ体を硬直させ茫然と彼女を見ていた。真意に気付き最初に大樹の口から漏れ出た言葉は、


「ど、どうして」


 なんて、ありふれたものでしかない。大樹は、自分の声が震えていることに遅れて気付いた。寒いわけでもないのに、体全体にも震えが伝わる。


「私、わからないの」


「何がですか」


 月夜は沈黙する。けどそれは大樹のことを意図的に無視したわけではないように感じた。その大樹の直感を裏付けるように、月夜は新たに言葉を継ぎ足す。


「何がわからないのかもわからないくらいに、滅茶苦茶なの」


 彼女が必死になって搾り出したのは、結局それでも要領を得ない意味不明なもの。

 だからこそ、月夜の心の底から這いあがってきた言葉だと思った。本音や本心が、理路整然と言葉になってまとまるはずがない。


 滅茶苦茶だと言った彼女の言葉通り、月夜本人ですら思考の迷路の抜け方が分からなくなっているのだ。


「こんな情けない自分のこと、誰にも――――特に、君には見られていたくないのに」


 涙は流していないが、今にも泣きそうな表情をしていた。

 月夜がここまで弱っているところを、大樹は初めて見た。


「こんな、わけのわからないことを言う私のことなんて、放っておいてほしい」


 再び膝を抱え、顔を隠す月夜。一切を拒絶するつもりだ。

 大樹はかつてないほど、複雑な感情に支配されていた。年上の――しかも女性に対してこんなことを思っていいのか、してもいいのか分からない。というか、おそらくやっちゃ駄目だ。己の価値観としても、世間の一般的な考えの上でも。


 だが、篠原大樹は今日を楽しみにしていた。待ち焦がれていた。今日の日のために、色々な人の協力や支えを借りてきた。朝日月夜と真剣勝負をするために。


 それを、何故この人の勝手な一存で潰されなければならないのだ。

 大樹は止まらなかった。


 月夜の肩に、優しくそっと手を置いた。

 欠片の警戒心も抱くことなく、月夜は顔を上げる。大樹は月夜に笑いかけたかと思うと、腕を広げた。まるで愛しい人を抱きしめようとするみたいに。


 だが、実際はそんなことはなく。


 大樹は勢いをつけて。


 月夜の顔を両手で力いっぱいに挟み込んだ。



「~~~~~っ!!」



 思い切り頬を張られたのだ。月夜は当然痛がって悶える。


「な、なにを、するの……?」


「勝手に自己完結して話を進めるの、やめてもらっていいですか」


 淡々と。感情的にならないように努める。


「いい加減本当に怒りますよ。一度約束したんですから、ちゃんと最後まで付き合ってくださいよ。子供だって守りますよ」


「だ、だって――」


「だって、じゃないでしょう。今度はみんなに合わせる顔がないとでも言うつもりですか」


「………」


 どうやら図星だったようだ。

 そのことが余計に腹立たしく、大樹は月夜の腕を引っ張って彼女を立たせた。そのまま力尽くで連行していく。


「ど、どこへ?」


「このままだといつまでも不毛な言い合いになって、全部うやむやになりそうなので。手っ取り早くいきましょう――今から試合をします」


「今、から……?」


「道具は全部持ってきてますよね。教室ですか? 一緒に取りに行きましょう」


「も、持ってきてない」


「なんで見え透いた嘘つくんですか。天野先輩から聞いてるんで意味ないですよ」


「あう……」


 恥ずかしさからか、掴まれていない片手で顔を隠す月夜。そのまま歩いているうちに、なんだか周囲が騒がしくなってくる。そして、今更になって気が付いてハッとする。もうここは人の少ない特別棟ではなく一般棟。多くの生徒がいる場所だ。


 異様な雰囲気で手を繋いでいる月夜たちに、好奇の視線が吸い寄せられる。


「ねえ、篠原くん。一旦離して。自分で歩くから」


「逃げるかもしれないので却下で」


「逃げない。……というか、ほ、本当に離してほしい。恥ずかしいから」


「今センパイは情緒不安定なので、言うことをいちいち真に受けるのはやめます。あほらしい」


「こ、これはなんで恥ずかしいか説明できるよ!?」


 いっぱいいっぱいになって叫ぶ月夜。結局教室にたどりつくまでは視線に晒されることになり、ラケットバッグを取りに行く間も大樹はずっと険しい顔つきで監視してくるものだから居心地は最悪だった。


「じゃあ体育館行きましょう。流石に着替えるところまで一緒になるわけにはいかないですけど、ちゃんとしてくださいね」


「どうして、君はそこまでして私にこだわるの?」


 また腕を掴もうとしたところで、月夜が問いかける。

 その瞳は不安に揺れていた。


「もう、私がいなくても部活としてやっていける。最近新しく部員が入ってきたことも、実は知っているの。今年は難しくても、来年以降はまた人数を増やせる。私を連れ戻すメリットはないように思える」


 大樹はわざとらしく溜息をついた。やれやれと頭を振ってみせる。その仕草は、流石の月夜も苛立たせた。


「なんでわからないんですか」


「わからないもの」


「じゃあ、どうせ説明したってわからないままですよ」


「もう帰りたい」


「帰って、何をするんですか。何もわからなくなって、わぁーっ、てなっているのに。余計に帰せませんよ。バドミントンでもして、健全に体を動かしていた方がはるかにマシです。今のセンパイにはそれが良いと思います」


「いい加減にして」


 月夜の声に怒気が宿る。言いたい放題だった自覚はある。だから怒られて当たり前だ。失礼をしているのは大樹なのだから。


「変なイメージを押し付けて、私に期待するのはやめてほしい」


 決別の夏祭りのことを思い出した。あのときは初めて月夜との対立を経験したせいで、何も言い返すことができなかった。朝日月夜と接していく難しさにそれまで無頓着でいられたのは奇跡的な偶然だったのだと思い知らされた。


「年下の、男の子の君に、私の何がわかるの」


 だが今は違う。

 朝日月夜は、そういう人間なのだと知っている。


「多分、何も。センパイ自身でさえわかってないんですから」


「だったら――」


「けど!! この世の中であんたを一番わかってんのは、間違いなく俺だ!!!」


 突然大声を出され、びくりと月夜は震える。

 周囲の生徒からの視線が、遠慮のないものになる。けれどそんなことは知ったことではなかった。


「拒絶して逃げたってしょうがないですよ。一時的に気が楽になっても、結局考え始めたら堂々巡りになる。そういうときは誰かとぶつかってみないと。俺とか、天野先輩や咲夜先輩に」


「なんで、そんなこと……君のためにそんなことしないといけないの」


「違いますよ。他の誰でもない、センパイがセンパイ自身のためにやるんです。答えを出すために」


 じっと、月夜の大きな瞳が大樹を見つめる。

 大樹は顔を背けようとして、まるで金縛りにあったみたいに体が全く動かないことに気付いた。


「……着替えてくる」


 大樹は胸を撫で下ろした。どうやら試合はしてくれるらしい。ここまでやっておいて、あっさり帰られたらどうしようかと思った。


「あ。その前に」


 月夜が手招きする。

 大樹はおそるおそる彼女に近づく。


「もう少し近く」


 ここまでくると嫌な予感しかしないが、甘んじて従うことにした。


 嫌な予感的中である。


 月夜の平手打ちが炸裂した。


 声すら出せず、その場に膝をつく。意識が吹っ飛びそうだ。痛い。痛すぎる。父親にもぶたれたことないのに――とかベタなことを考えても、やっぱり痛い。


「生意気だよ。篠原くん」



「すみません。せっかくの練習時間なのに、皆さんを巻き込んでしまって……」


 淡々とコートの準備を進めてくれている芝崎を見て、大樹は申し訳なく思いながら謝った。が、どうやら芝崎は怒っているつもりはないらしい。


「いいよ、っていうか……。ありゃ逆らえないでしょ。良い意味でも悪い意味でも、今の朝日はお前のことしか眼中にねえし、そこに割って入っていく度胸を誰も持ってねえんだよ」


 月夜の逆鱗に触れるのは御免だということらしい。


「それより何でお前、そんなに顔腫れてんの? いや、朝日もそうなんだけどさ」


「あ、いえ、これは……。まあいいじゃないですか」


 そそくさと逃げ出し、今度は大神に声をかける。


「大神も、すまない」


 大神は線審をしようとしている。


「いい。朝日先輩の最後かもしれないプレイを、この目に焼き付けるだけだ」


「ボクもそうします!」


 元気に声をあげたのは双葉だ。そんな同級生たちの反応に、大樹はほっとした。


「それより、準備をした方がいい。朝日先輩、ずっとお前の方を見ているぞ」


「……そうだね」


 待たせるんじゃない、と視線で圧力をかけられている。


 軽くアップ運動をこなしてシューズの紐を固く結んでいると、誰かの気配を感じた。

 なんと、真琴がそこにはいた。


「どうして」


「咲夜が教えてくれたから、様子を見に来た。元々、見届けるつもりではあったから」


 そういえば、咲夜の姿が途中で見えなくなっていたのでどうしたのかと思っていたが、真琴を呼びに行ってくれていたのか。よほど急いだのだろう。咲夜は息が上がっていた。


 真琴が腕を組む。


「予定より少し早くなってしまったけど、やることは何も変わらない。今日までやってきたこと、積み重ねてきたものも何も変わらない。あなたは強くなった。それを月夜に見せてくればいい」


「………」


「どうしたの」


 じっと真琴を見つめて言葉を失っていると、不審がられた。


「いえ。なんだか真琴先輩にそういうことを言われると――すごく頼もしいというか、嬉しいというか」


「な、何を言っているの」


 足で蹴られる。多分、照れ隠しだと思う。


 こんなに良い人なのに、なんで以前の部活では部員から人気がなかったんだろう……とは口には出さない。言ったらまた蹴られる。今度は本気で。


「ごめん、私は勝つ方法しか教えてあげられない。君が本当に求めていたのはそれではないと分かっているけど」


 急に弱気になって謝ってくる。


 月夜の攻略方法を部員たちで考えていたときのこと。真琴が提示していたのは彼女自身が言った通り、脇目も振らず勝利を目指す道。しかし、大樹はそれを素直に受け入れられずにいた。真琴のアプローチはとにかく相手の長所を潰していくやり方。今回の戦いには適さない。


 だが大樹は首を振った。


「戦い方を知らなきゃ、何も伝えられないです。ゼロじゃ、何も変わらないんです。真琴先輩がしたのは意味のあった指導ですよ」


「そ、そう?」


「はい。今日はそれを自分なりにアレンジしてみます。多分今日は……自分史上で最高のバドミントンが出来る日だと思うんです」


「………」


 珍しく大きく出る大樹に、真琴は目を見張る。やがて小さく笑ったかと思うと背を向けた。


「主審は私がやってもいい?」


「え? じゃあ、その……お願いします」


「了解」


 コートまで走っていく真琴。大樹もその後を追った。月夜が待っている。


「先に確認しておくね。試合は21点の二セット先取。11点でインターバル。つまり公式大会と全く同じルールを適用する。これでいい?」


「はい」

「問題ないです」


 大樹と月夜が答える。


「シャトルも、試合球を用意した。試し打ちはする?」


 二人で頷く。


 選手たちは試合前にシャトルやラケットの調子を確かめるためにクリアで試し打ちをする。大会ではよく見られる光景だ。


 今日初めて感じる、羽の手応え。そして月夜の調子も大樹には分かる。



 ――潰す



 そんな恐ろしい気迫が、シャトルから伝わってくるようだ。

 十分に感触を確かめ、シャトルを手にする。サーブは大樹からだ。


 大樹はあたりを見回した。ここにいる全ての人の顔を見ておきたかった。


 蒼斗と咲夜は緊張した面持ちで手を擦り合わせている。部活を運営する立場としてはこの試合の行方が、そして月夜の動向が気になって仕方ないのだと思う。


大神は腕を組んでいながらも、目を大きく見開いている。本当に月夜の試合を全部頭の中に仕舞い込むつもりなのかもしれない。


 双葉は大神の横で、上半身を揺らしている。周囲の緊張感など知る由もなく、ただ楽しむつもりだろう。見られるこちらとしても、その方が楽だ。


 その中で、一番落ち着いているのは芝崎だった。線審の席に収まり真摯に見据えてくる。頼もしい先輩としての風格を感じる。思えば、一連の騒動の中で彼だけが揺さぶられていなかった。どっしりと構えている。


 真琴と目が合う。だがすぐに逸らされてしまう。かと思いきや、またこちらを見てくる。芝崎とは対照的に、彼女は多分この場で一番落ち着きが足りない人物だろう。そんなところに愛嬌がある。


 そして最後に――――朝日月夜。


 今、この瞬間、彼女に対して何を想うべきだろうか。多分、正解は大樹の中にはなくて、もやもやしたものだけが纏わりついてくる。

 そうした余計なものは振り払う。ただ無心になる。


 ――ありのまま、俺はぶつかっていくだけだ。


 主審の真琴が高らかに宣言する。


「ラブオールプレー!」


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