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「ちゃんと理由がないと駄目なのかな」


 ついにこの日が来た。

 十月二十七日、金曜日。今日は藍咲学園の文化祭前日――――そして、朝日月夜と対戦をする日だ。


 朝、目覚まし時計をセットしていなかったにも関わらず五時に起床し、シャワーを浴びた。念入りに体を洗い、今度は歯を磨く。いつも以上に時間をかけて丁寧に一本一本手入れをし、デンタルフロスを使って歯垢を取り除く。


 洗濯機をいつもの設定で稼働させ、食事の準備にかかる。昨日の夜のうちから炊飯ジャーには米を用意しており、既に炊けた状態だ。いつもは栄養バランスと色合いを考えるのだが、今は肉が食べたい。分厚いベーコンをさっと焼き、後は適当に納豆とか味噌汁とかサラダを並べる。


 全てのエネルギーを体に閉じ込めるため、ゆっくり咀嚼していく。次は洗濯物を干す。手慣れているし、三人家族とは思えない少なさですぐに済む。時間はまだまだ余っていた。今学校に行っても入れない。家の中を簡単に掃除して、それでもまだ出るには早い。ソファに腰かけて、大樹は目を閉じた。


 どれくらい時間が経ったか。ふと、気配を感じた。妹の紗季と、母が何やら思いつめた顔をしてこちらを見ていた。


「おはよう、二人とも」


「あ、うん……。おはよう、お兄ちゃん」

「……おはようございます」


 大樹は自然体だが、家族の二人はぎこちない返事をする。大樹は立ち上がり、母のために紅茶を用意する。紗季のご飯はもうテーブルの上に置いてある。


 ルーティンとして、大樹が毎日こなしてきていたこと。ただしそのどれもがいつも通りではない。その違和感を強烈なものとして受け止めているのは、家族である紗季と母だ。


「……今日なんかあんの?」


「ちょっとね」


 大樹は答えをはぐらかした。そろそろ登校しても良いだろう。月夜と対戦するのは放課後で、待ちきれないという想いはある。しかし文化祭準備日でもある以上、やり残したことはないようにしたい。文化祭実行委員の立場とは別にして――――明日は『彼女』にとって良き日になってほしい。


 ラケットバッグの中身を確認する。忘れ物はない。ガットの強度は十分だし、グリップにも綻びはない。予備も用意してある。シューズの裏は念入りに拭いた。戦うための下準備は怠っていない。


「お見送りします」


 母が珍しいことを言う。


「いいよ。ゆっくりしてて」


「すぐですから。紗季ちゃんも一緒に」


「……うん」


 断ってもついてくる気だろう。こういう雰囲気の母は何を言っても聞いてくれないのだ。紗季も何か思うところがあるようだった。


 靴を慎重に履いて、振り返る。二人とも背筋を伸ばして、真摯な眼差しを向けてくる。


「いってきます」


 大樹が思い出したのは、高校受験日の朝のこと。あの日も、こういう空気の中で見送られたものだ。

 何故あの日のことが思い浮かんでしまうのか――それを大樹は理解していた。だから余計なこと、無粋なことは言わない。


「いってらっしゃい。きっと、大丈夫だと思いますよ」


 大樹の事情など知らず、何の根拠もないはずなのに、母の言葉に安心感を覚える。無条件に自分を信じてくれる人がいる。それがたまらなく嬉しい。


「紗季ちゃんは、何か言いたいことありますか」


「えっ。あー、その……」


 もじもじとする紗季。大樹は妹の言葉を辛抱強く待った。


「あのさ。お兄ちゃん。勘違いしないで聞いてよ? 変な意味とかじゃないから。いや本当に」


「やけに念を押すね。前振り?」


「うるさいなあ。――なんか今日のお兄ちゃんはさ、その、いつもよりカッコよく見える。普段からそういう顔してたら、もっと女の子からモテるのに……ちょっと! ちょっとだけね! ニヤニヤすんなし!」


「し、してないと思う」


 と言いつつ、大樹は口角が上がっていくのを感じていた。実の妹とはいえ、そういう言葉を急にぶつけられると気恥ずかしい。照れ隠しに笑ってしまうしかなくなる。


 これ以上ここにいると、紗季が癇癪を起こしかねないので大樹は家をあとにした。

 エレベーターは使わずに、階段を下りた。


 陽を感じながら、大樹はゆっくりと歩く。急ぐ必要はない。それよりも、今しか感じられない何かが、そこかしこに転がっているはずだ。宝探しのように、楽しんでいこう。



 丸一日使っての文化祭準備日。当然授業などない。クラスでの作業は、あとはどれだけ内装を凝るかという段階になっている。今更じたばたすることはない。この日のために、早めに動いてきたのだ。


 諸々の雑務は確かに残っている。当日のシフトの把握、使われる衣装や撮影機具の点検など。しかしそれらは委員長コンビが対応してくれるみたいだ。大樹と楓は文化祭実行委員のために度々クラスを抜け出していたが、大樹たちがいない間しっかりクラスをまとめてくれたのが彼女たちだ。本当に有難い。これで統括側の仕事に専念できる。


 相変わらず、文実の会議室は慌ただしい。前日になって企画の内容を変更したい、暗幕やテープが足りない、器材を運ぶ人手が欲しいなど好き勝手な注文が飛んでくる。それに一つ一つ対応していく。先日まで少数精鋭だった文実も、当日が近づいたことで人数が補強された。これなら、二日間における激務もローテーションで回していけると思う。


 そんな風にして午前中の作業を終え、昼ご飯にありつこうとしていたとき。


「ちょっと……いいかな?」


 生徒会副会長の天野翠に声をかけられる。大樹は頷く。驚きは全くない。何故なら午前中、何度も彼女と目が合っていたからだ。文実としての業務のことではないのは察している。それなら躊躇いなく呼べばいいのだから。


 生徒会室を案内された。今は他に誰もいないようだ。あまり人に聞かれたくないのだろう。


「お疲れ様。ごめんね、急に呼び出しちゃって」


「平気ですよ。……どうしました?」


 大樹は先を促した。


「今朝、月夜と会ったんだけど……ラケットバッグを背負ってた」


「……そうですか」


 月夜と頻繁に連絡を取り合っていたわけではなかったので、それを聞いてほっとする。最悪、来てくれない可能性もあり得た。しかし彼女も、今日という日をちゃんと意識していてくれたみたいだ。


「ここ最近、月夜はバドミントン部を――というか、君のことをずっと見てたんだけど、気付いていた?」


「……いえ」


 だが思い当たる節がある。例えば高宮凛がいきなり藍咲にやってきた日のこと。休日で授業はなかったのに、月夜はあの日学校にいた。あのときはどうしてなのか理由は分からなかったが……。


「月夜は、ちゃんと部活に戻っていってくれるかな?」


「さあ」


「えー」


 大樹の答えに不満そうな声を漏らす翠。もっと安心できるようなことを言ってほしかったのかもしれない。


「こればっかりはどうしようもなくて。センパイが何を思うかはセンパイ次第なので。俺はバドミントンで『対話』してくるだけです」


「バドミントンで対話……」


翠はそのセリフを反芻する。多分、大樹の感覚は理解されていないはずだ。その競技を続けてきた者にしか、その真意は伝わらない。大樹はそれでいいと思った。無駄に言葉を尽くす必要はない。


 翠が生徒会室の席に座る。多分、そこが彼女の普段からの定位置だ。腕を組んで悩む素振りを見せる。何か色々なことを思い出して、考え込んでいるようだ。


「私ね、月夜と仲良くなれたとき、すごく嬉しかったんだ」


 やっとのことで搾り出したのは、独白のようだった。


「月夜とは、一年生のときから同じクラスなの」


「へえ……!」


 初めて聞く話だ。藍咲学園は二年次以降、成績優秀者を集めたクラスを一つ作る。翠は成績上位者、月夜も言わずもがなで、同じクラスになることは必然だが、去年から月夜と同じクラスだったのか……。


「まあ、二年になってから話しかけてみたとき『初めまして』なんて言われたのは傷ついたね……。私そんなに影薄くないはずなんだけど」


「それは、なんというか……。センパイが悪いっすね」


 周りに興味がなさすぎだ。


「そんな調子の月夜だったからさ。一年のときに誰かと一緒にいるところとか一切見たことなかった。あ、部活のときとかは別だよ? 月夜は人気だったし。でも、話しかけても何も答えてくれなかったし、月夜が楽しそうにしている様子もなかった」


 そこで語られるのは、大樹が知らない月夜の姿、立ち振る舞い。

 胸が絞めつけられるほどに悲しい話だ。


「でも君が――篠原くんが現れてからの月夜はさ、すっごく接しやすくなったんだよ。自分の話をしてくれることも増えたし、明るくなったと思う。だから――またあの頃の月夜になっちゃったみたいで、今はつらい」


 そう言って翠は寂しげに笑う。


「やっぱり、ちゃんと理由がないと駄目なのかな」


「理由?」


「君のバドミントンみたいに――――月夜と繋がっていられる、仲良くしてもいい、傍にいていいって思わせるような理由」


 大樹はしばらくの間放心した。

 ずっと悩み続けていたのが窺える。月夜との関係を、どう接していくべきかを。翠は真剣になってくれていたのだ。


 翠には申し訳ないが、少しだけ嬉しく思う。月夜を想ってくれている人はちゃんといる。


「月並みなことを言っちゃいますけど、人と人が仲良くするのに理由なんていらないでしょう」


 翠が顔を上げた。


「そんなこと言い出したら、俺だって許されないかもしれないし、ずっと気にしてたらしんどくなっちゃいますよ。もっとシンプルでいいはずなんです。……多分」


 根がぼっち体質のせいで、ちょっと自信がない。え、そうだよね、単純に考えていいはずだよね……?


 そういうことを教えてくれる人がいてくれたらいいのだが、残念なことに大樹の身近な人――楓たちも似たような性質だ。自分の周り、ぼっち気味な人が多くないか。


 大樹は咳払いした。


「センパイは、知っての通り気難しくて面倒な人ですけど――」


「あれ? 篠原くん月夜のこと嫌いなの!?」


「でも、当たり前なんですけど同じ人間なので。顔には出さないだけで、実は分かりやすいリアクションとかしてますよ。気付きません?」


「いやまあ、確かに。……君のこととかは特に」


 ん? ちょっと後半が上手く聞こえなかった。


「もっと傲慢にいきましょ。今日の試合だって無理やり呼び出したようなものです。ガンガン攻めていったら、根負けするかも」


「……うん。そうかもね」


 翠は安心したように笑う。もし大樹が月夜に何もしてやれなかったとしても、その時はきっと彼女がなんとかしてくれるのではないだろうか。決して他人任せな意味合いではなくて、信頼が置けるというか……。


「このあと部活だっけ」


「はい」


 文化祭準備期間である今日、午後から体育館の使用許可が出ている。大会間近ということで特別に作られた時間だ。月夜との決戦前に調子を確かめておきたい。


「頑張ってね。応援してるから」


「はい……!」


 力強く頷く。


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