(4)
かなり時代づいた店だった。綺麗に掃除されているが、使い込まれたレジには、マシンではなくそろばんが置かれている。演出ではなく、本当に実用品としているようだった。
置かれている冷蔵のガラスケースにはビンやペットボトルのソフトドリンクもならんでいるが、狭い店内をぐるりと取り囲むように日本酒の一升瓶がこれでもかというほどに並んでいる。それぞれには、手書きの説明書きがついている。耕平は気づかなかったが、丁寧に品よくかかれたその文字は、借りたノートにかかれていたものと同じ涼子の字だ。
木造二階建ての一階の半分を店に使っている。店に使っている土間からは、レジ横の障子戸をあけて座敷にあがるようになっていた。
入学以来、現在のアパートに住み続けている耕平だったが初めてはいる店だった。商店街では定職屋くらいしか入ったことがない。もっとも、ここしばらくは家の近くで食事をすることすらなかった。ぐるぐると店の中を、失礼にならない程度に見回しながら耕平は涼子とシンパシィがあがっていった、半開きの障子戸の前に立ち、靴を脱ぎながら言った。
「おじゃまします」
右足をあげ、座敷にあがろうとした耕平。そこに座敷の低い位置からぎょろりと鋭い視線が投げられた。
障子戸のすぐ奥に、その視線の主がいる。涼子の父親らしい。畳の上に布団を敷き、うつぶせに寝ていた。何か入れているのか、布団の中で腰だけもちあがっている。顔だけ店の中に向けたその姿勢は、まさに店の番だった。
だが、その視線は単に店番、だけの意味の者ではなかった。明らかに、耕平を威嚇している。さっきの怒鳴り声の主が目の前の布団の中にいる男であることは、耕平にもすぐわかった。できるだけ刺激しないようにしないと。
その鋭い視線にむかって、耕平は小さく再度言ってみた。
「ええと、おじゃまします」
「おまえ、店先でなにやってんだ。今は腰やっちまってうごけねぇが、おまえなんか腕だけで、あ、あつっ、つつつつ…」
勢い込んですこし身を動かしてしまったらしい涼子の父親は顔をゆがめ、痛みに耐えた。
そういうことなのか、と耕平は思う。痛みで機嫌も悪いらしい。
惣領くん、そんなのいいから、こっちにどうぞ、との涼子の声に促された耕平は「失礼します」ともごもごいい、布団の足下を通ってちゃぶ台に向かう。一応、どかどかと足音をさせないように気を遣ってみた。
すでにシンパシィは座布団をだしてもらって、ちゃぶ台を前にちょこんと正座していた。その横に置かれた座布団に耕平も座る。涼子の父親はスロー再生のビデオの中の画像のように、腰に負担をかけないようにゆっくり、だが「のがさねぇ」とでもいうように顔だけ先に耕平にむけつつ、身体をちゃぶ台のほうに向け始めた。
シンパシィはうれしそうにぐるぐると、おかっぱの髪をゆらして座敷の中を見ていた。大学に行ったときと同じように、何事もすべてがめずらしいらしい。耕平は「あんまりよそのおうちできょろきょろしちゃだめだよ」と小さく注意したが、その耕平の顔をシンパシィはきょとんとした顔で見上げた。
「よそのおうちってなんですか?」
「よそのおうちって、その、うちじゃないってことだよ」
今日はおとなしくしててくれ、という今朝方の約束はとっくに忘れているらしい。
シンパシィは、いろいろ聞きたいことでいっぱいなのを我慢していなかった。
「うちって、お父さんたちのことですか?」
「そうじゃなくて。まいったな」
涼子の父親は、「う、くっ」とうめきつつ姿勢の制御に成功し、こちらを向くのに成功した。相変わらず腰のところだけ布団の中で盛り上がっている。父親が「おい」と、また耕平に声を掛けた。恐ろしい響き。何を言われるのか。
だが、その続きは涼子の声で遮られた。
「他になんにもないんだけどね。しーちゃん、オレンジジュースでいいかしら?炭酸のよりも、このほうがいいかなっておもって」
台所から帰ってきた涼子の両手には、長方形のお盆。その上に氷の入ったグラスを二つととオレンジ色の瓶のジュースが乗っている。自分は座布団のないまま畳に直接ひざまづき、テーブルの上にそれを置いた。
藤を編んだ夏らしい、涼しげなコースターをお盆からシンパシィと耕平の前に置き、その上に細長いグラスを乗せる。自分のところにもひとつ。自分用のものには氷ははいっていない。シンパシィはそれもふむふむと興味深そうに見ている。また何か聞きたそうだ。
おかまいなく、と習慣的に言おうとした耕平は、そこであっと思い出した。
昨夜までの、八盾や尾津の注意事項。シンパシィは。
「あ、川澄さん、ごめん、実はこの子、飲めないんだ」
「え?」
「ほら、その…、彼女、ほら」
あぁ、と涼子は言う。そうだった。
シンパシィは、ヒトではない。
目の前におかれたグラスと、冷やされて汗をかくオレンジ色の瓶を前にシンパシィは「これなんですか?」と聞きたくてうずうずしているようだ。だが、今は涼子がこれからなにをするのか、耕平と涼子の会話はなんなのかと興味津々で見ている。
二人のそのやりとりを聞く涼子の父親は、当然シンパシィの背負っている事情をしらない。さっきまでの耕平への怒りは、今度は小さな女の子にジュースのひとつも出さないことへの不満に変わっていた。
「おい、おまえ、いいじゃねぇか、ちょっとくらい甘いもの飲ませても。なぁお嬢ちゃん」
「しーちゃん、飲んだり食べたりって仕様はまだ実装してないんですよ」
顔を見合わしていた耕平と涼子は、布団の中の父親に視線を移した直後、そのシンパシィの素直な返答にあっと、彼女のほうを見た。
にこにこと言うシンパシィのその返答に、寝たままの父親は意味がわからずあっけにとられている。この子は、ちょっとかわいそうな子なのか?じっそう、ってなんだ?
あわてて涼子がフォローした。
「お父さん、あのね、この子、飲んだり食べたりができないのよ」
どう説明したものか。
耕平は今日の授業中からおれ、適当トークしっぱなしだよと思いつつ言った。こう言うしかないだろう。
「すみません、この子、ちょっと身体が特別なんで、飲んだり食べたりができないんです。その、特別な食事じゃないと」
「そ、そうか、じゃぁ悪いこといっちまったなぁ。お嬢ちゃん、ごめんよ。おじちゃんしらなくてさ。こら涼子、おまえも気をつけろ!」
自分が言った事をごまかすように、父親は涼子に矛先を向けた。そして、シンパシィにもう一回、ごめんよ、と言う。
シンパシィは自分なりに耕平の説明は正しいと思い、いえ、いいんですよ、気にしないでください。しーちゃんの燃料電池パックは…とさらに言いかけ、耕平はそれをさえぎり、あぁ、いえいえ、と声をだした。
困ったなぁ、早めに帰った方がいいかも。とにかく面倒はいやなんだけど、と耕平は思い、どうしたものかと思っていると店への降り口と逆側の襖が開いた。
さらに声がかかった。今度は和服に割烹着姿の女性。年齢はかなり上だ。
「あらあら、かわいいお客さんだこと。それと、あら、涼子の彼氏かしら」
「そんなんじゃないって、おばあちゃん!」
シンパシィの声が聞こえたからか、涼子の祖母が出てきた。はじめまして、と言いつつ開いた襖の中で正座して、涼子の祖母ですと挨拶したが、涼子はその前の言葉をあわてて否定していた。耕平も急いで否定しようと思ったが、「彼氏かしら」という言葉の瞬間から布団の中の涼子の父親の視線がビームを出すようにぎらぎら光ったことに焦り、言葉を発
シンパシィからすれば初めてあう人というだけでなく、初めて接する社外のヒトのひとりがまた増えたことになる。
なんだかどんどん人数が増えてくる。シンパシィにだけではない。彼女を中心として、耕平にとっても初めて話す相手が現れ続ける。三日前から、そうだ。
いかにも「おばあちゃん」という雰囲気の涼子の祖母は、シンパシィのほうをむいて、こんにちは、お嬢ちゃん、と話しかける。シンパシィも笑顔をむけた。仲良しさんが増えてゆくことがうれしいらしい。和んだ場の雰囲気。つられて父親も笑顔になったが、その前野祖母の言葉を思い出してやはり寝たまま主張した。
「あ、いや、おかあさん!涼子に、彼氏だなんて、早すぎますよ!」
「なにいってるの、弘さん。涼子も花の女子大生だもんねぇ。彼氏の一人や二人、いるわよ。ごめんなさいね、弘さんがうるさくて」
「あ、その、いや、すみません」
耕平には完全にホームドラマになっているこの座敷がつらい。
彼氏ってなんですか?とシンパシィが始めるかとおもっておそるおそる耕平はシンパシィを見た。だが彼女は「初対面のヒトにはまず笑顔」を実行中だった。
にこにこと涼子の祖母にあの自己紹介をする機会をねらっていた。
しばらく話した。
シンパシィは例によって止める間もなく定番の自己紹介を涼子の父親と祖母に実行した。
父親はなんだそれ、と思ったがなにか事情がある子らしいと勝手に思っていたことから、彼女のなまえが「しーちゃん」であることで特に聞き返すことはなかった。
祖母はシンパシィに自分のことをおばあちゃんと名乗り、シンパシィについては見た目はともかくカタカナ風の自己紹介から外国生まれなのだと思ったようだった。さらに、外で食事をしてはいけないという決まりがあるのだと勘違いして、気の毒ねぇと繰り返した。
そしてとりあえず、耕平と涼子はなんとかこの場がおさまったことにほっとしていた。こうなるとちゃぶ台の上のジュースとグラスが邪魔だ。だが変にかたづけるとまたおかしなことになりそうと涼子は気を利かせた。
「あとで、お父さんとおばあちゃんにはあたしから話しておくから」
涼子は耕平にそう耳打ちし、とりあえず、その場のヒトは全員栓を抜かないオレンジジュースの瓶を前にして話をつづけた。
涼子と耕平もそんなに親しい間柄ではなかったことから、初めてお互いのことを知る機会でもあった。
涼子の家は、代々この土地、この場所で酒屋をやっていた。
戦争で一度焼かれたが、目の前の祖母とすでに亡くなった祖父がこの家を改めて建て、商売をつづけたらしい。父親は婿養子で母親はすでに他界している。そして見たとおり、父親の方は腰を痛めて療養中。数日前にビール瓶のケースを重ねすぎて無理してもちあげ宝だという。いまは動けない。
その話になると、照れくさそうに父親は寝たまま言った。
「おれもさ、もうトシみたいでよ。まぁ、しょうがねぇ」
最初の剣幕はどこへやら。彼からすれば耕平の存在も傍らに置かれたしゃれたバックを持ち歩くその様子も、涼子の彼氏ではないと聞いたことからどうでもよくなったらしい。変わらず今時の若いやつは、との見方は変えていないようだが。
シンパシィは、あれこれと聞いた。お店ってなんですか?、お酒ってなんですか?、もちろん、彼氏ってなんですか?そのこともあり、一通り涼子の家の話が終わっても話題がとぎれることはなかった。
だが、そろそろ時間も経っている。夕方のはずだ。耕平はちら、とちゃぶ台ごしに涼子を見た。さっきから店の客も増えてきて、そのたびに彼女は接客に出ていた。彼女が座敷から姿を消す度に、耕平はシンパシィと父親、祖母の会話に気を遣っていた。涼子も、耕平の視線の意味に気づいた。
「…じゃぁ、そろそろあたし、配達に行ってくるから」
涼子が壁に掛けられた時計を見てから、言った。
もう5時が過ぎていた。日は長い頃だが、接客のたびにちょこちょこと席を外していた彼女は、客が増えてきたことから時間を意識したらしい。
気がつけばもう一時間も話していたことになる。「酒屋ってなんですか?」とのシンパシィの問から始まった、父親の「酒屋ってのはいい商売だ。酒は百薬の長。「こむにけーしょん」を助ける、世界平和の源だな」云々の話がそろそろな長引いていた中だったので、耕平もほっとする。最初の印象とは裏腹に、涼子の父親はかなりの話し好きらしい。
「じゃぁそろそろ僕らも」
耕平は傍らのシンパシィに、行こう、と促した。
彼女は名残惜しそうだったが、とにかく今日は耕平のアパートにもどらないといけないことは了解したらしい。その様子に、ふと涼子の祖母がさっきまでの耕平の話を思い出して言った。
「でも大変ねぇ、こんなちいちゃなお嬢さんを惣領さん、あずかって毎日学校にいくなんて。どなたか、近所にご親戚とからっしゃらないの?」
すでに耕平は毎日学校にいかないといけない身でもないのだがこの場ではそれも言わないほうが混乱は少ないだろう。確かに、おそらくこれから大変、なのは事実だ。
「その、まぁ、預けてきた先との約束なんで。世の中を彼女に見せてやれってことで」
「そんなねぇ、毎日連れ回されちゃお嬢ちゃんも疲れちゃうだろうに。世の中を見るなら、うちのお店で遊んでてもらったほうが大学なんかに通うよりよっぽどねぇ。そんなインテリさんばっかり見てもしかたないでしょうに」
「あら、そうね」
涼子が、その祖母の言葉にぱっと顔を輝かせた。なにかを思いついたようだ。
立ち上がりかけていたのを座り直し、言った。
「惣領くん、今日のお昼みたいなことこれからもずっとあるだろうし。しーちゃん、よかったらうちであずかるわよ。惣領くんが学校にいくころには、うちは店、あけているし。学校帰りに迎えにきてくれたらいいし」
涼子は本気らしい。
その様子はいつもの学校での、彼女の印象であった地味でおっとりしたというものとは違う。さっきまでの会話の印象から、もしやと耕平は思っていた。そして今目の前にいる、なにかを思いついたらしい彼女には、明らかにいつも学校で見るのとは違う勢いがあった。
きらきらと目を輝かせて、なにか会話の流れを想定しているであろう様子の涼子の耕平は、とりあえず声を出してみた。
「え、でも」
「そんないいのよ。もし店番手伝ってくれるんならすっごい助かっちゃうし。うち、お母さんいないけどおばあちゃんいるし。お父さんはもっとずっといるし。しばらく寝たきりだもの」
「そりゃ助かるけど」
涼子は一方的に話した。それに父親が布団の中から同調する。
「おれが寝たきりってのは余計だが、そうだな、しーちゃん、おじちゃんとこにあそびにくるかい?」
「はい!おじちゃんもおばあちゃんも、仲良しさんですね!」
耕平はすでに、それが断れる感じでもないことに気づいていた。
だが同時に忘れてはいない。昨夜の尾津の「コロス」と、なにより、音琴のことを思い出して勝手に決めるわけにはいかないことにも思い至っている。これは音琴から依頼のあった「社会経験」のうち、とすることができればいいのだが。
だが本音を言えば、とも耕平は思う。そりゃぁ、預かってくれればおれは助かるよ、っていうか、こんな子供づれじゃ呑みにも、バイトにもいけない。
でもまぁ、ここはこう言うか。
「そんなに甘えるわけには。なんのお礼もできないですし」
「ほぉ、見た目と違ってなかなか堅いこというじゃねぇか」
涼子の父親がぱっと決めちまえばいいのによ、というニュアンスで言った。そして涼子。
「じゃさ、惣領くん、ちょっとだけお願い聞いてくれたらお礼なんていらないわ」
これが駆け引きの勘所、とでもいうように涼子は目を見開いて言った。にっこりと、有無を言わせない笑顔。
「あのね、よければ、お父さんいまこんなだし、あたしもそんなに力強くないし。惣領くんが配達、夕方からでも手伝ってくれるとすごくうれしいんだけどな。それだけで、もううちとしては大助かりよ」
え?ちょっと、と耕平は言いかかるが見事な連係プレーが目の前で始まった。父親がいきなり明るい声を上げ、祖母が言う。
「おぉ、涼子。それはいいな。惣領、アルバイト代はしーちゃんあずかるってことで」
「あらあら、うれしいねぇ、うちにこんなにかわいい看板娘さんが来てくれるなんて」
「ちょっと待ってくださいよ!」
「わー、しーちゃん、お姉ちゃんたちといっしょにいていいんですかぁ?」
…とにかく、今日は逃げるしかない。耕平はくらくらしてきていた。なんだ、この展開は。とにかく、今日はこの場からなんとか消えるしか。
「あの、じゃぁ、彼女の実家にもちょっと相談してみます。お返事はその、また今度。お気持ちはうれしいんですが、その、勝手には決められなくて、この子いろいろと」
「だから、それはあとであたしから話しておくって。ね、惣領くん、よおっく相談しておいてね。期待してまってるから。ね、しーちゃん」
「はい、涼子おねえちゃん! しーちゃん、店番がんばります!」
涼子は優しく、だがきっちり耕平をカタにはめた。
彼女は間違いなく、代々続いた商売人の娘であった。
耕平は、その目の前の光景に自分のなにかが終了したことを悟った。