1992年 9月(1)
1992年 9月
「うーん、どうしたもんかな、と」
自室の布団の中で目を覚まし、天井を見上げながら耕平はぼんやりと思う。今日は大学にいかなくてはいけない。
いろんなことがいきなり起こった金曜の午後から、土日が過ぎ、9月に入った月曜の朝。
午前9時。つけっぱなしのエアコンの音が、小さくうなるように聞こえる。
講義に間に合うようにセットした目覚まし時計のアラームより先になんとなく目が覚めた。薄い夏用の掛け布団の下から枕元においた赤い小さなデジタルの時計に寝たまま手を伸ばし、鳴る前のアラームを切る。
これまでの癖で、起きてすぐの一服に手探りで煙草を探すが、ない。昨日の強制的な大掃除で「子供と同居するのに、なにを考えているのか」とマヤの設計メンバーに説教をされ、灰皿もライターも、全部捨てられていた。
その他、いかがわしいと彼らに判断されたものは厳しく没収。中学生じゃないんだから、と最初反抗した耕平だが、「子供と同居するのに」の一言と彼らの迫力に、最後は従わざるをえなかった。
この三日で、いろいろなことがあった。
隣室のマヤの設計メンバー達とシンパシィと一緒に買い出しに行き、子供用の小さな布団のセットと子供用のパジャマやその他いろいろな必要品を買い、設計メンバーが支払い領収書をもらっていた。夜は毎晩、隣室で気を失うぎりぎりまで呑まされている。悪酔いしていないのがせめてもの救いだ。マヤのメンバーにとっては休日出勤になっているはずだが、そのことを気にしている者は一人もいなかった。
耕平は、元々予定していた今週のスケジュールを、大学の講義以外はすべてキャンセルさせられていた。バイトも、コンパも全部。申し訳ない、と仲間に電話で謝る耕平だったが、意外とそのどれもがすんなりキャンセルできた。
自分の身に起こっていることは、十分理解している。就職に必要なことだと割り切ることにもした。あまりの急なことに未だに現実感は薄いが、目を覚ますとそのどれもが強固な現実であることを意識せざるを得ない。
数日前までの乱雑ぶりが嘘のような掃除済みの部屋。フローリングの床に直に敷いた耕平の布団は今まで通りだが、その横には小さな布団と、その中の小さな女の子。パジャマで寝ている。
煙草をあきらめる気になった耕平は、そろそろ準備するかとぼんやり思いつつ、あおむけしていた身体を横にした。
すると目の前に、同じ布団で横に寝ている小学校低学年くらいの女の子の寝顔。
シンパシィだ。
耕平の方を向いて、すぅすぅと寝息をたてている。
空色のやわらかい生地のパジャマには、可愛らしく炎を吹いて飛ぶロケットと気取って歩く黒いねこの絵がちりばめられている。それにくるまれた彼女は、今、どんな夢をみているのだろうか。いや、彼女は夢をみるのだろうか。耕平はふと思う。
少し前までの、白々とした気分とは違う毎日が始まっていた。
三日前からの耕平の暮らしは、こう始まった。
まず、シンパシィをつれて帰った金曜日。その後。
いきなり預けられたシンパシィの手を引いて帰宅した。玄関ドアに張られた紙に墨痕黒々とかかれた筆文字を目の前にしてあっけにとられ、だがなんとか鍵を開ける気力を奮い起こし、シンパシィの手を取ったまま逆の手でスーツの内ポケットを探った。さっき音琴からわたされた鍵はここにいれたはずだ。
シンパシィは何も言わずに耕平を見上げていたが、目の前の筆文字には心当たりがあるらしく、にこにこしていた。
鍵がなかなかみつからない。またかよ、と焦り始めた耕平に、さらに少し前と同じような事が起こった。後ろから、声がした。今後は男の声。
「おっ、まいどどーもー」
さっきの音琴の、いらついたニュアンスとは違い陽気な感じ。そして耕平の後頭部からは妙に高いところからの声だった。シンパシィが振り返り、くい、と、耕平のつないでいた手がひっぱられた。彼女の「ただいまー!」の声がする。
今度はなんだよ。耕平はドアの方をむいたまま一度ためいきをついた。そして、もうなんとでもしてくれ、と疲れ気味に振り返る。
そこには男が二人。にこやかな大男と、少し背は低いが妙に二枚目で、真面目そうな男。大男はTシャツの上に、二枚目のほうは白のワイシャツとネクタイの上に作業服らしき揃いのベストを着ていた。さっきの声は、大男のほうかららしい。シンパシィは耕平のほうを振り向き、見上げて「お父さんたちです!」と耕平ににこやかに言った。
180センチ以上はあるだろう男のほうが、そのシンパシィの言葉にそうそう、うんうんとうなずき、早口で「八盾です。まいどまいど」と調子よく片手をあげた。やはり、さっきと同じ声だ。その横の二枚目は、探るような、用心しているとありありとわかる雰囲気で「どうも、尾津でございます」と名乗った。
耕平も名乗ろうとしたが、そんな隙も与えずに八盾は耕平の後ろにさっと素早く回り込み、「やぁやぁ、いやいやどーもどーも」とよくわからないことをいいながら背中を両手でおし始めた。その先は、耕平の部屋ではなく、左側の隣室の玄関。
なるようになれよ、と耕平は無気力に押されるままにそのドアの前に進むと、そのドアには、小さく「SPプロジェクト設計2課分室」と横書きされた紙がテープでとめられていた。ささ、あがってとさらにぐいぐいドアの前に押す。内開きのドアだが、耕平はすでにドアに密着させられている。シンパシィの手を引いたまま。彼女は、なぜかうれしそうににこにこそ耕平のそんな姿を見上げていた。
特に反抗する気はないものの、耕平はさすがに声を上げた。
「ちょ、ちょっとまってください。」
「まぁまぁまぁ、いやいや、音琴さんから話はきいてるよ。うんうん。いや、僕さ、習字が趣味でさぁ」
それでもぐいぐい押し続ける八盾。その表情とは違い、かなり強引な性格らしい。耕平は観念しシンパシィの手を離し、もう何も言わずに自主的にドアノブを握って開けた。室内は、ひやりとした冷気で満たされていた。寒いくらいにエアコンが効いている。
ドアを開けた耕平に満足したように、やっと八盾のプッシュはおさまった。耕平は「失礼します」と一応言って、靴を脱いであがりこんだ。次いで八盾が「そうそう、そうだねー」と上がり、シンパシィを先にあがられた後に尾津が後ろ手にドアを閉めて靴を脱いだ。
彼らが居ることに、シンパシィは大喜びだ。
「おとうさんだ、おとうさんだ」
「シンパシィ、いい子にしてたか?心配したよ。初めてのお外だもんな」
尾津が、きちんと靴を脱いでそろえたシンパシィの頭をなでてやりながら上がり口で言った。
耕平は、このアパートに入居して初めて見る隣室の中を見回した。耕平の部屋と同じ間取りのはずだったが、見る限りすでにその名残も感じられない。
まだ運び込まれただけで据え付けられていない様子の、耕平には何だかわからない機器が床に積まれている。中心に据え付けられた、ちょうど細長い部屋の形をそのままトレースしたような、ベッド形の作業台らしきテーブル。その上には、比較的スペースができている。
その周りの壁に沿って、作業棚つきの机が背を向け並んでいた。
「まぁ、まぁまぁ、ちょっとさ、いろいろとお話したいこともね」
と、八盾は変わらず明るい口調で言いつつ、今度は台所の、そこにもなにやら機械がつみあげてある場所から紙コップとポットを持ってきた。作業台に作りつけてあるコンセントにポットをつなぎ、また台所にゆく。座って座って、この部屋冷やしてるんで、暖かいもののほうがいいよね、などと言いつつ。
もう何をいう気力もない耕平。もう遠慮することもないだろう。さらにぐるぐると室内を見渡した。同じ間取りのはずなのに、自分の部屋とはなにか違和感がある。
すごい荷物。でもなんか、いろいろ置いてある割に広いな。 あ、なんだよ、さらに隣の部屋との壁ぶちぬいてあるし。いつの間にこんな工事やったんだよ。なんなんだよ。
八盾に勧められるまま、耕平は作業台横の手近な椅子に座った。
「おとうさんたち、毎日シンパシィといっしょですか?」
シンパシィは、玄関をあがったところでその様子を見ていた尾津に聞いた。尾津は、
「んー、まぁ、そうだなぁ。交代はあるけど、誰かいるよ」
などと返事をしつつ、耕平の正面に座った。
「どうも、お忙しいところ恐縮です」
ぼそっと一言。尾津の視線は耕平をじろじろと観察しているといってもいいものだった。妙に二枚目な分、その雰囲気は厳しい雰囲気を耕平に与えた。一応の挨拶を耕平が返そうとすると、それを邪魔するように八盾が台所から帰ってくる。
「どうぞどうぞ、お煎餅もあるので」
作業台の上に、どん、と大きな鉢にスナック菓子が盛られたものを置いた。そして八盾は尾津の横に座りる。最後にシンパシィも八盾の側に座ろうとしたが、「いやいや、しーちゃんは、ほら、お兄ちゃんの横にすわんなさい」と八盾に言われ、「はぁい」とちょこちょこと耕平の横にゆき、手近な椅子に腰かけようと少し高いのを手慣れた様子で調整して、ちょこんと腰掛けた。これまで彼女がすごしていた場所で使われていた椅子と同じものらしい。
四人が、作業台の周りに座った。
その間も、尾津は耕平をじっと見ている。
ポットが、小さくしゅんしゅんと音を出し始めていた。
「さて、それじゃぁ少しお話をさせていただきたいんですが。お忙しいところ恐縮です」
尾津が口火を切った。いきなり堅い話のようだ。耕平は、いえ、となんとなく頭を下げた。だがそれも八盾が遮った。
「いやいや、尾津さん、ちょっとなんか堅いよ。これからいっしょに暮らしていくんだからさ、ほら、もうちょっと柔らかくいこうよ。ね」あわてたように八盾のほうが話し始めた。うん、と声を出さずに尾津がうなずく。八盾のオンステージが始まった。
「どーもー。音琴さんから少しは話聞いたと思うけれど、僕は八盾で、ソフト設計のリーダー。彼が電気リーダーの尾津さんね。ほかにもメカ担当の岩本さんとか、いろいろいるんだけれどいずれ会うことになるから。でね、今日は、夜遅くにならないとみんなこないんだけどさ、まだ会社で引っ越しの準備してるから。あ、引っ越しって、つまりここへの引っ越しなんだけど...」
八盾はにこにこと高速でしゃべりながら、お湯の沸ききったポットのコンセントを作業台から抜き、手早く急須にお茶を淹れ、紙コップにつぎ、お煎餅をかじりながら、またそれを耕平と尾津にも勧めた。自分もそれをかじりながら猛烈な勢いで、さらにしゃべり続ける。
そういう性分なのか尾津はあまり顔を変えずに、だが八盾の話に割り込むでもなくうなずきながら聞いている。
「いや、しーちゃんはさ、ものすごいわけよ。他のメーカーなんか僅差でぶっちぎりだね。いやほんと。彼女が存在すること自体フォントにすごくって、って、さっきのは「自体」と「字体」をかけた、フォントってギャグなんだけど」
八盾は時折どこまでもわかりにくいギャグを織り交ぜる。とにかくシンパシィの技術的なすごさについてはなしているようだった。もう数十分、八盾はしゃべり続けていた。耕平はただあいまいな笑みでうなづくしかない。とにかく八盾は早口でごきげんに、高速な身振り手振りと共に話しつづける。
「あっはっは、でさ、ということで、ほんとにすごいんだよ。うんうん」
何十回めかの八盾の「すごいんだよ、うんうん」を聞いた頃、いつの間かにシンパシィは耕平にもたれかかり眠ってしまっていた。その重みをロボットなのに意外と、と思った耕平の心を読んだかのように八盾は言う。
「そうそう、メカ的にもさ、重量も同い年の人間並みなんだよ。素材技術からして違うのよ。デバイスも全部一品もので実装は...」
「八盾さん、ちょっといいかな」
ずっと無言で聞いていた尾津がいきなり口を開いた。
「あ?あぁあぁ、いいっすよぉ。尾津さん、どーぞどーぞ」
気を悪くすることもなく、八盾はうんうんとうなずき話を止めた。尾津が言う。
「惣領さんでしたよね。はじめまして」
隙のない雰囲気と視線で、あたらめて尾津が惣領を見つめて会釈した。さっきまでの八盾の話に薄い眠気を感じていた耕平だったが、尾津の真剣さにしゃっきりとした。
「は、はい」
「人間そっくりにみえるだろ? この娘」
「はい。えぇ、っていうか、いまだにだまされているんじゃないかっておもってるんですが」
正直に耕平は言う。右隣に座る、自分にもたれかかっている重み。あたたかさと柔らかさも、彼女がロボットだというのは悪い冗談だったといまから尾津が言っても不思議はない。耕平はそう思うが、もちろん、尾津はそんなことは言わなかった。
尾津は耕平のその言葉にゆっくりと頷いて、ゆっくりと言った。
「そうだろう。実は、おれたちも思うんだよ。えらいものをこさえちゃったって」
尾津は、簡単には心を許すまい、と思っているようだった。
耕平を値踏みしているような視線で続ける。
「技術的には、ほんとに超一流のカタマリさ。八盾さんのいう通りだ。確かに彼女は、おれたちの、技術屋の意地と根性で出来ている」
そう言って尾津はテーブル上に身を乗り出し、耕平に向かって顔をぐっと近づけた。眼をのぞき込むように、じっと見つめる。
こいつは信用できるだろうか?彼女をあずけていいのだろうか?
耕平は眼をそらさなかった。正確には、その真剣な迫力にそらすことができなかった。近づいた尾津の顔を半ばにらむかのように見かえす。
じっとみつめあったまま、尾津はゆっくり腰を椅子に戻して一息つき、言った。
「それに彼女は、技術のカタマリである以前に、女の子だ。俺たちは自分たちのことを父親だと思っている」
「…」
「今日のことはいきなりで、きっとびっくりしていると思う。迷惑でもあるだろう。だが、すまんが」
尾津は一度黙り、息を吸い、押し殺した声で言った。
「彼女を、AIX Type-00 シンパシィを、守ってやってほしい。頼む」
耕平には、その言葉の意味がわからない。故障しないように大事にあづかってくれということか? 聞こうとしたが、尾津のあまりの真剣さにただ、頷くしかない。
耕平の視界には、尾津と、さっきまでの陽気な大男の雰囲気は消え、真面目な顔でうなずく八盾がいた。
彼女 - シンパシィは、耕平によりかかりぐっすりと眠っていた。
その身体の重みも、ただの、その年頃の女の子。
だが、目の前の男達の表情は一切の冗談や疑いを抱かせないものだった。