1992年 8月(1)
濃緑のカーテン。
その隙間からベッドに細長く差し込む強い光は、今日も暑いことを教えている。
惣領耕平は、知らない女の部屋で目を覚ました。
寝返りをうち、目元に暴力的に入った日光に起こされた。うっすらと目を開けた耕平は頭だけを動かし逃げたが、今度は横でだらしなく口を開けて寝る女の顔が目に入った。
間近で見る濃い化粧と、匂い。別に、彼にとっては珍しいものではない。
そして、今日もこんな一日の始まりであることも。
どれもがいつものことだ。
耕平は半寝ぼけの頭でゆっくり思い出す。
そうか、ゆうべのゼミのコンパで、新宿で。
意識がはっきりしてくると頭が痛いことにも気づいた。
割れるようだ。吐き気。
そうだ、知らない女じゃない、と耕平は思い出した。
少しは知ってる。同じゼミの、なんだっけ。
……いや違ったかも。まぁ、いいか。
耕平は頭を振らないようにゆっくり起きあがる。
裸の身体は、酒と汗の臭い。妙にプラスチックの調度品の多い、初めて見る部屋に居る自分。ワンルームマンションらしい間取り。
おそらく長く使いっぱなしの、シワが深く刻まれたシーツが敷かれたベッドの上から頭痛に耐えつつ床に足をおろす。立つと、ぎし、とベッドのスプリングが鳴った。
間接照明を気取った、部屋の隅を照らすライトも点けたまま。
脱いだか脱がされたかわからない服が床にちらばっている。
耕平は白々とした気分でそれらをのろのろと拾い、着る。
下着、ビンテージもののジーンズ、ポロシャツ。気持ち悪くねとつく身体に重ねてゆく。シャワーを浴びるか、と、思いつくが、とにかくこの部屋を出たい気持ちが先に立った。最後にごろりと落ちていた、まだ長い支払いの残ったロレックスを手首にまきつける。
見ると、時間は午後2時前。
よろよろとたどり着いた玄関先で、ベッドを振り向いて「行くよ」と女に一声かけた。だが、女は微動だにしない。
さらにいびきまでかき初めているその寝顔に、再度吐き気を意識した。
この部屋全体の不潔さに似合った顔だ。
おれ、なにやってんだ? ばかばかしい。
玄関を出る前、靴を履くときには脇のユニットバスから吐瀉物の臭いがした。それから逃げるように、スチールのドアを押し開けてマンションの廊下に出る。
蒸し暑いが、あの臭いよりはましだ。
壁伝い廊下を進むとエレベーターホールがあった。
エレベーター扉の横には、白い壁に4Fとかかれたプレート。
とにかく早く外に出たい。耕平は乱暴に下向きのボタンを押し、開いた扉に乗り込み1Fに降り、エントランスからマンションの外に出た。
きつい日差しの中に歩道と、二車線の通り。ここが何処だかも解らない。
とにかく、と、耕平は車道に近づいて手を上げ、タクシーを拾った。乗り込んで、自宅の近所の駅名を言うと、初老の運転手は返事もせず乱暴にドアを閉めた。
エアコンの冷気が耕平を包む。そして、痛む頭で考える。
とにかく、帰って寝よう。夜は……なにかあったっけ?
タクシーが走り出した。珍しくもない一日の始まり方。
週に何回もある、日常。
大学四年生で、すでに希望通りの大手電機メーカーに就職の決まっている耕平には、割のいいアルバイトとコンパ、ローンの支払い以外には大して悩みもない。
この白々した、こんなときの気分のことを除けば。
ジーンズのポケットに入った煙草を吸う気も、起こらない。
指定した駅まではワンメーターで到着した。
さらに運転手に指示をして路地に入り、小さな公園の前で降りた。
今日はうるさい子供や母親たちもいない。公園の真ん中を、すべり台やジャングルジムなどの遊具を避けてつっきり、その向かいにある軽量鉄骨のアパートの前にたどり着く。一階の右端が耕平の部屋。耕平はドアの前でジーンズのポケットを探った。
暑いって。早く、鍵。鍵、鍵。……無い。
マジかよ、と耕平は舌打ちし、もう一度探る。無い。
視界には、自室のドア。
そしてその横に大量のダンボールが積み上げられている。隣室に誰か引っ越して来たのか引っ越すのか。もう少し元気があれば、腹いせに蹴飛ばしているところだ。
そうして、やっと思い出す。カバンがない。鍵は、あの中だ。
くそ、あの女の部屋かよ。どこだよ、さっきの部屋!
どこだったも、戻り方もわからない。下手に財布だけはジーンズの尻ポケットにあったことで油断をした。耕平はそれでも未練がましく何度も左右のポケットを探るが、当然、無い。
くそ、どうすんだよ、俺。
自室のドアの前で妙なダンスを踊るように、いらいらと身体を揺すってポケットを探る耕平。
その背後から、突然、不機嫌そうな女の声が飛んだ。
「鍵かしら? だったらここにあるわよ」
ダンスの姿勢のまま、ぎょっとして耕平は振り返った。
自分から少し離れたところに、さっきの声を掛けたらしい女と、あと二人。
中年男と、子供。
女は暑い中でもスーツ姿で直射日光に晒され、指にはちゃらちゃらと耕平の知らないキーホルダーにまとめられた部屋の鍵らしきものを回していた。紅いマニキュアの先で、からかうように。
勝ち気そうな女だが、美人だ。耕平に向けた小馬鹿にしたような視線すら、その顔つきには似合っていた。30代前半くらいに見える。
その彼女の背後で、地味な背広姿の中年男は耕平とその女がやりとりをする様子を伺い、さらにその後ろに隠れるように居る子供、おかっぱ頭で私立小学校の制服のような服を着た低学年くらいに見える女の子はどうしていいかわからない様子で、耕平を見ておどおどとしていた。
その背景は、平和な夏の公園。
どれもこれも、そぐわず、それぞれの繋がりも耕平には解らない。
女は、耕平が状況が理解していない事を嘲るように整った口元をゆがめ、そしてその直後、顔をしかめる。数歩分は離れた場所からも判る、耕平の発する熟柿のような二日酔いの酒の臭いが彼女を襲ったからだ。
耕平から少しのけぞるように、顔まで横に逸らした女だったが視線だけは耕平に向けて、イヤミな調子で言った。
「うわ、お酒臭い。いいご身分ね。死んでるのかと思って大家さんから鍵、借りて来たけど、生きててよかったわねぇ」
「……あんた、誰だよ?」
耕平の中では、突然声をかけられたことへの警戒や彼らを何者か思う気持ちより、頭の痛みと、いらつきが勝る。うるさい女だな、とにらみつけ、唸るように言った。
考えるのも面倒だ。とにかく、その鍵を貸せ。そう念じた耕平に、彼女は、ふん、と、格下の生き物を見る目つきで、そして息を止めて耕平に一歩近づき、ぐい、と手を伸ばした。
汚いものを触るように、回すのを止めて指にひっかけたキーホルダーを、だらりと下がる耕平の左手に押しつけて、すぐにまた身体を引く。あぁ、臭い、と再度言いつつ。
その上で、女は一気に言った。
「私は、マヤ株式会社、本社直轄SPプロジェクト、企画担当の音琴です。今日は来年度入社予定の惣領耕平君に会いにきたんだけど、履歴書の写真とはよく似ているから、あなたでいいのかしら? とにかく、「あんた」呼ばわりされたことは覚えとくわ」
耕平の頭の中に、「まずい!」という言葉がはじけた。