1992年12月(1)
1992年12月
初雪が降った。
すでにテレビで「雪」というものには知識を持っていたシンパシィだったが、実際に朝起きて軽くつもっているのを、耕平より先に起きた彼女がカーテンを開けた、窓越しに見たときには「うわぁ!」と声を上げた。
彼女にとっては、初めて本当にみた視界だった。
まだあまり荒らされていない雪の風景。見える屋根も、木々の葉も、なにもかも真っ白に覆い隠されている。すでに雪は止んでいるが、いつまた降り出しても不思議ではない雲り空の中、雪の輝きでいつもより明るい外の世界。
シンパシィは興奮して、まだ布団の中で寝ぼけている耕平を揺り起こす。
「耕平お兄ちゃん!雪です!雪! しーちゃん、お外にでてきますね!」
ピンクのパジャマのまま、素足に彼女用の赤い小さなサンダルで外に飛び出し、つま先に感じる初めての冷たさにまたはしゃいだ声を上げた。
耕平は、冬休みに入っていた。学生時代最後の冬。年末のこの時期に積もる雪は、例年よりも少し早い。今年はスキーに行くことも予定していない。
休みに入ってからも、シンパシィと耕平は毎日川澄屋に通っていた。
学校がないならば、耕平がシンパシィを預ける理由はあまりないはずだった。だが、あと三ヶ月でお別れだという少しセンチメンタルな気分から耕平は彼女と過ごす時間を増やすようにしていた。
また、耕平自身の中での変化もあった。涼子への自分の気持ちが以前の「同じゼミの地味な同級生」で「シンパシィを預ける先の娘」というだけではなくなってきていることにも気づいていた。それも、川澄屋での時間を増やしている理由のひとつだった。
涼子自身も、耕平への気持の変化を感じている。だが、それをお互い言い出すこともない。それ以上に二人はまるでシンパシィの年若い両親のようにもなっていた。
耕平は、その後尾津にあの夜聞いたことはそれ以上問わずにいた。
その後しばらくは尾津と顔を合わせるとぎくしゃくした対応をしている自分自身を耕平は感じたが、尾津は大人だった。シンパシィの稼働試験期間が半分を過ぎて、分室に居ることが多くなっている尾津は、何事もなかったように翌日からも耕平と接した。あの会話自体を忘れたように。
だが、耕平は忘れていない。
由美子から聞いたこと。シンパシィの稼働実験という以上のなにかがこの街中で行われているという話。住民全体のプライバシーもなにもなく、街中が盗聴や盗撮に覆われ、すべてが実験結果とされていること。尾津に聞いたときの、沈黙。
そして、桜井が言った、怖い堅気の衆という言葉。
疑問は変わらずあった。もしもそのようなことが行われているのであればせめて涼子にはその事実を伝えたくも思ったが、耕平は尾津の返答を信じて、とりあえずすべてを忘れることにしていた。尾津の返答の様子は明らかに何かを隠していた。だが、耕平の疑いは一応、その場では否定されたことを信じるようにしていた。
それよりも、尾津が言った「シンパシィを護ってやってほしい」という言葉の方を気にすべきだと考えた。もちろん、その言葉自体も耕平のもつ疑問のひとつではあったが。
今日も、いつもと同じようにシンパシィは早い時間から川澄屋に向かう。耕平はビール会社のロゴの入ったジャンパー姿。シンパシィは、少し古ぼけた赤いキルト地の上着と白い耳当て。涼子の子供時代にお気に入りだったものをもらっていた。
開店する朝10時に店に到着するように、いっしょに家を出る。公園を抜け、商店街に出るとシンパシィは店に向かって駆けだしてしまうのもいつも通り。
少しつもった雪。シンパシィが足を滑らさないか耕平は心配するが、後ろから彼女が一瞬すべって、またうまくバランスをとって立ち直って走り続けるのを見てほっとする。
すでに、本当にロボットなのか、とも耕平は思わなくなっていた。シンパシィは、シンパシィだ。
実のところ、この町に来てからの暮らしで彼女に搭載されている三次元オートバランサーの予測動作精度は大幅に成長しており、彼女は同体格のヒトの子供よりよっぽど転ばなくなっていた。だが、耕平にわかることではない。
シンパシィに少し遅れて、耕平も川澄屋の前につく。
涼子の父親がシャッターをあけていた。シンパシィはその横で、父親に雪の話をしていたが、耕平が到着するとふざけて、耕平に向かっていらっしゃいませ!と笑顔で言う。涼子の父親もシャッターを開け終わり、耕平の方を向く。
「よぉ、おはようさん。ちょっと今日は店あけるの遅れちまってよ。耕平、店の前、雪かきしておいてくれよ」
変わらない日常の始まりだった。
午後の配送の時間以外、一日店にいるようになっても耕平はそこそこ忙しかった。
シンパシィは店番をし、耕平も細々とある雑用を手伝いながら日中をすごしている。商店街の集まりにも涼子の父親の代わりに出ることもあった。すっかり「川澄屋の耕平ちゃん」として商店街中に知られていた。
台車での近隣への配送だけではなく、軽トラックでの配送も行うようになった。運転免許は二年生の時に取得していた耕平は、今では一人で大口の得意先に運転して配送も行う。
冬休みが始まってすぐのころ、話の流れから免許のことを話した耕平に「なんだおめぇ、運転できるのか!」とトラック配送をさせようとした涼子の父親は、実際はペーパードライバーだという耕平に運転させて、最初の数回はいっしょに配送に行った。
最初は、ほぼ徐行運転でしか車道に出られない耕平を涼子の父親は冷や冷やしながら注意し続けた。
「こら、歩行者よくみやがれ!」
「あ、はい、すんません。ええと、ここ右ですよね」
「ってお前、ウィンカー!ウィンカー出せ!耕平!」
「あ、ええ、うわ、逆だ」
だが、しばらくうるさかった父親もすぐに運転に慣れてゆく耕平に満足そうだった。
「涼子なんてよぉ、もうずいぶん運転させてるのにいっこうにうまくならねぇ。あいつの運転こわくてよ。やっぱりあれだな。この辺は耕平でも男だな」
とある時の帰りに言い、さらに
「いや、おやじさん、まだまだヤバいですよ」
と言った耕平に
「あたりまえだ、気をつけやがれ」
と一喝。だが、そのときぼそっと「でもあれだぞ耕平、もしも涼子とそのなんだ、デートでも行きたいときは、このトラック貸してやるから」とも続けたのを耕平は聞き逃さなかった。助手席を向いて思わず聞き返した。
「え?親父さん、それって、どういう」
「ばかやろう!耕平、前みやがれ前!」
この話はそのとき以来、二度と出なかったが耕平を見る涼子の父親の目もずいぶん変わってきたようだった。
以前、涼子が言った「うちでやとってあげる」という言葉も耕平は未だに知らずにいた。だがそれとは別に、耕平自身もあと数ヶ月もしたら会社員として暮らしてゆくであろう未来に疑問を感じ始めていた。
このまま、川澄屋で働いていくのもいいかもしれない。
ほぼ一年前には何に疑問も抱かずに就職活動をし、有名な会社でかっこいいと自分が思う名刺をもつことしかイメージできていなかった。そのときの自分がいまでは子供に思えてしまう。
それには、連日の設計陣との飲み会で繰り返される「会社員なんてなぁ」という言葉や、先日の尾津の苦しそうな返答。そして、もしもあのときの尾津の言葉を実質上の肯定だったとするならば、自分もいずれは罪人の仲間になるのかという嫌悪感。そして、人間としては信頼していると言ってもいい尾津が、耕平の感覚ではとても許されないことを肯定して仕事をしているのだとしたら、と思うと、それは今の耕平には共感できないことだった。
川澄屋にほぼ毎日、一日中居るようになって耕平が気づいたことはほかにもあった。
シンパシィのここでの一日を詳しく知れば知るほど、確かにシンパシィは店の看板娘であることもそのひとつだった。
商店街の店の親父たちは、以前は都合をつけては涼子を見に来た時期もあったらしい。だがいまでは「しーちゃん、しーちゃん」とシンパシィに話をしにきている。どんな話でも興味深く「そうなんですかー」と聞き、時には今でも、ちょっとしつこく「それってなんですか?」と聞く彼女は「頭のいい子だ」と人気者だった。
涼子の父親と祖母が、シンパシィがマシンであるからという理由は使わずに「この子には食べるものをあげないで。病気なので、つらいことになるから」と前もってこっそり話していたことからその部分でのトラブルも特に起こっていなかった。シンパシィの身の上を聞きたがる者がいたときにも、そういうことを聞かれたあら自分たちを呼べ、と二人はシンパシィにいってありその場その場でのとりつくろいは二人が行っていた。
最初は「それ、ちがいます、しーちゃんは…」と言い始める彼女を涼子の父親はまぁまぁといなして事を納めた後、「いいかい、しーちゃん、嘘も方便っていってな」と教えていたらしい。
シンパシィは素直にそれを信じ、時折嘘もつくようになっていたがそのどれもがかわいいものだった。
なにかにつけて設計のメンバーがしょっちゅう店に来ることも知らなかった。
設計の、特に若手の数人はシンパシィの様子を見に来ていることもあったが、加えてやはり涼子に会いに来ているようでもあった。涼子はにこやかに相手をしつつ、そのたびに大量の酒とつまみを買わせていた。耕平は連日の飲み会がどうしておこなわれるのかも明確に理解した。
そして予想外なことに、音琴も数日に一回は川澄屋にシンパシィの様子を見に来ていた。分室に来るたびに寄っているようだった。
そのことを涼子の祖母から「しーちゃんのご親戚のかたがときどきみえるわよ」と聞いたときには、例の高慢な、キャリア女としての態度で皆に接しているのではないかと焦ったが、そんなこともないようだ。
二回ほど、音琴が来たときに耕平も店にいた。嫌みな口調で音琴は言った。
「あら、学生さんはいいご身分ね。もうお休みかしら」
耕平には変わらない彼女だったが、確かにシンパシィには優しい。
今日は雪だし、客も少ないかもしれないと朝、涼子の父親が話していた。
耕平は店からあがってすぐの座敷でこたつに入った。レジで例によって「ネコたんマン」を描いているらしいシンパシィに店を任せ、いつの間にか寝入ってしまっていた。
涼子は簿記の検定試験だといって外出中。
涼子の父親は酒メーカーの講習会。祖母は病院にいっていた。今日は午後過ぎまで耕平とシンパシィで店をやる。
そんな日に事件は起こった。
シンパシィが、消えた。
最初に異変に気づいたのは、護堅興業の若い衆だった。
「おいこら、耕平にーちゃんよ、起きろ、こら」
呼び声で耕平は目を覚ました。
「あ、いらっしゃいませ」
反射的に返事をし身を起こす。声の方を見ると黒地にラメ糸で刺繍のはいったガラの悪いジャンパーを着込んだ男が店の中と座敷を仕切る障子戸を少し開け、耕平を見ていた。
あのときの、片ほおを赤くしていた男だ。
シンパシィ、なにやってんだよ、と耕平は寝ぼけつつ起き出して、なんでしょう、と聞いた。
男はぶつぶつ言ったが、先日の一件で桜井に張り飛ばされたことを思い出したのか微妙な言葉遣いで話し始める。
「うちの事務所によ、いつもの届けてくれ、くださいよ。で、あと、これくれ」
男はガラスケースから出した冷えた缶ビールを座敷の上がり口に置く。暖房の効いた店の中で飲んでいくつもりのようだ。ズボンのポケットから小銭を出そうとする男に、耕平は聞いた。
「あぁ、はい。でもいつものって、すんません、わかんないんですけど」
「なにぃ? ったく、しょうがねぇな。嬢ちゃんはいないのかよ。あの子だったら。ったく」
「あぁ、はぁそれが。どうしたんだ、シンパシィ」
寝ぼけた頭で男が缶ビールの代金ちょうどを座敷に置くのを見つつ、ぼうっと考える。寝てたな、おれ。シンパシィはどうしたんだろう。どっか行ったかな。
いや、彼女はおれが寝ているのに、誰も店番してないのに店をあけたりしない。
どこかに行くときも、必ず誰かに行き先と帰る時間を言ってからとの約束を「かならず守るのよ、堅い子よねぇ」と涼子の祖母が言っていた。
なにか、おかしい。
妙だ。
耕平は、いやな予感に一気に目を覚ました。
「ちょ、ちょっと!シンパシィ!どこだ!」
座敷の前で缶ビールを手にしてぷしゅ、とプルタブを開けた男をつきとばし、耕平は靴下のまま座敷から飛び出た。返答が無かったことを署名するように、レジにも、店の中にかも所は居ない。耕平はそのまま外に出た。
店の前。
左右を見る。
いない。
もう一度店の中を振り返る。当然居ない。
つきとばされた男が、てめぇ!と尻もちをついたまま怒鳴ったが振り返った耕平の表情に普通じゃないなにかが起こったことを知る。土間に落とした缶ビールをそのままに立ち上がり、男も店の前に出た。
どんよりした空模様に、またちらちらと雪が降り始めている。
「嬢ちゃん、いねえのかよ」
「まずい。もしかして」
もしかして、さらわれた? もしかして。様々な可能性が耕平の頭をかけめぐる。
そして、その中での最悪である可能性こそが、現実だった。