1992年 11月(1)
1992年 11月
シンパシィが主演した自主制作映画のコンテスト優勝は、その後数週間の騒ぎを商店街に巻き起こした。
撮影期間中は店を手伝えないことから耕平と涼子は、シンパシィがそういうものに出演するとの話は涼子の父親と祖母にしており、結局その期間は店の営業時間を短縮して彼らも撮影の見学に来ていた。
故に、大賞を受賞したとの話を聞いてからの騒ぎは大きくなった。特に祖母は、店に来る客すべてに言いふらしたらしい。結局、連日のビデオ上映会が川澄屋で行われていた。店からあがった座敷と、その奥の襖をとりはらって二間続けての上映会場には近所の誰もが一度は来ていた。
耕平がシンパシィといっしょに配送に出ると、他の商店の者や近隣住民からも通りすがりに「あら、大女優さん」と声をかけられる。シンパシィもうれしそうだった。
護堅興業からは、先日配送した高級日本酒の樽がさらに三樽、発注があった。桜井は高額商品を注文することでお祝いにしたいようだった。結局顔を出すことはなかったが、それも彼なりの気の使い方だったのだろう。
穏やかに日々はすぎてゆく。
季節の変わり目の空気の変化や風の匂い、止む虫の声にシンパシィの「なんですか?なんでなんですか?」と聞いた後の、自分がひとつ新しいことを知ったことへのうれしそうな表情。
耕平が配送で汗まみれになることもなくなってきたのは気候の変化だけではなく、いまや耕平自身が酒屋の仕事に手慣れてきたことにも理由があった。
涼子は卒業したら店を手伝うことに決めていた。簿記の資格を取ろうとして勉強している。ゆくゆくは店をもっと発展させたいらしい。
「大学までやったのに、こんなチンケな店やらなくても」
といいつつ、父親もうれしそうだった。
シンパシィは変わらず店番を続け、結局ほぼ毎日、川澄屋にいる。
少し前に、耕平の卒業単位の計算ミスが発覚していた。そのことで卒業が少し危うくなったことから連日大学に通うようになったことも理由のひとつだった。それでも容赦なく夕方からは配送の仕事が入り、夜はエンジニア達が耕平に強制参加を義務づける作業台での連夜の酒盛りも止まらない。
平穏な日々。このシンパシィとの暮らしはあと数ヶ月との期限が切られていることも忘れてしまうほど、普通になった日常がそこにあった。
だが、耕平は何度も思い出していた。誰にも相談していなかった。涼子にも話していない。ふとしたときに意識に登り、そのたびに考える。
桜井の言葉。
映画騒ぎでしばらく意識から遠のいていたが、あれからも変わらない日々が続いているということは、つまりそのあたりも変わらないということだろうと耕平は思っていた。いや、状況は進行し続けているのなら、自分には見えないまま深刻化してきているのかもしれない。
尾津に初めて会ったときのこと。彼は最初に「彼女を守ってやってほしい」と言っていた。あのときは意味もよくわからないままだが、少なくとも自分の知らないことはあそこにもある。
耕平は、設計との酒盛りを「卒業がやばいので」と途中で退席して自室でレポートを作成しつつ、合間にそんなことを考えることが多くなっていた。
今もそんな時間だった。部屋の照明は落として、デスクライトだけが周りを照らしている。エアコンをかけなくてもすごしやすくなった、静かな部屋。
振り向く。床に敷いた子供用の小さな布団では、シンパシィが寝ていた。隣には、耕平の布団も一応敷いてある。だが今夜は明け方までかかりそうだ。彼女が来た頃には薄い夏用の掛け布団で寝ていたが、いまはシンパシィにはやわらかく暖かい、掛け布団が一枚かけられている。
映画の件でのお祝いにと、涼子の祖母に買ってもらったパジャマですぅすぅと寝息をたてているシンパシィ。最初にエンジニア達と買い出しに行ったときのパジャマは、今思えば男の子向けのもので夏向けのものだったことから、ありがたく使っていた。布団の肩口から、ピンクの生地とそれにかかるシンパシィのおかっぱの髪。
最初彼女が来たときには「まさか、この子がロボットだなんて」と思った。受け答えがぎこちなく、感情の表現がオーバーなことは言われてみればそうかと思う程度には妙な気もした。だが、それもいまや目立たない。
食事と排泄がないこと以外にはなにもかわらない。時折数日、設計につれられて定期精密整備だとのことでマヤ本社に連れていかれる時以外にはこの子がマシンだということは忘れてしまいそうだ。
思ったままに、言葉が出た。デスクライトだけの明かりの中で、ぼんやりと照らされるシンパシィを見ながら、耕平のひとりごと。
「なぁ、どうなるんだろうな、おまえ」
つぶやいた自分の声が意外に大きかった。シンパシィを起こしたのではないかと緊張している耕平の前で、シンパシィはうーん、と寝返りを打った。仰向けから左を下にした姿勢になり、掛け布団をあごの下にくわえるようにする。そして、「うふふ…ねこさん」と寝言を一言。
見守る耕平の前で、シンパシィは大きな寝息を一回ついてから、またすうすうとし始めた。
耕平はふと思う。子供が出来たらこんな気分なんだろうか。いや、妹がいたら、かな。そういえば実家に長いこと帰っていない。北海道だ。そろそろ雪のころ。
つれていってやれないものかなどと思った後、耕平はまたレポート作成に戻る。
明け方、無事にレポートも書き終わった。
目を覚ましたのは昼前。起きた頃にはシンパシィはいなかった。隣室の設計課分室にいるのかと思いのぞいたが、居ない。端末に向かって仕事をしていた坪倉に聞くと、
「あぁ、店にいくって出て行ったよ。つか、川澄屋さんにいる。ほれ」
と、坪倉はキーボードをおそろしい早さで操作して、自分のモニター上に地図を表示させた。川澄屋のあたりに光点が出ていた。耕平はほっとする。礼を言って、耕平は昨夜作成したレポートといっしょに大学に向かった。途中で、通り道の川澄屋に少しだけ顔をだし、シンパシィと涼子の父親に「いってきます」と一声掛ける。シンパシィの明るい、いってらっしゃい、の声と笑顔。
商店街を通って駅の方に向かう。そのまま踏切を渡り、線路越しに逆側のビルの多い区画に向かう。校門まではあと少し。歩きながら耕平は思う。
こんな自分の姿は、あの日、シンパシィが音琴に手を引かれて来たあの日以前の自分が見たらなんというだろう。
それまではバブル学生そのままに暮らしていたはずの耕平は、気がつくと完全に当時の仲間とは切れてしまっていた。ワリのいいバイトもコンパも昔の話になっていた。あのころの自分のような、学生達が多く通り過ぎる。あるものは仲間同士ではしゃぎ、アル者質はサークルでつくった揃いのスタジャンを、まだ少し暑いかもしれないなかでも着て群れている。
そういえば、あの「中に出したから」と言ったゼミの女。未だに名前も思い出せないが、その後なにも言ってこない。真面目に心配していた耕平に、後でほかのゼミ生は「あいつ、全員にそういうこと言ってるんだよ、ばっかだなぁ、惣領、おまえからかわれてるんだよ」とも言われた。
もうすぐ、校門につく。校舎の高い塀のわきを歩く。
首筋が少し肌寒い。もう一枚着るかな、と耕平は思うが去年はどんな格好していたっけ、とも思い出しなんとなく可笑しくなる。認めるよ、いまのほうが楽しい。
今思っても、当時の仲間とのやりとりは楽しかったはずだ。地方から出てきて、いろんなことを知った。きらびやかな暮らし。服、クルマ、腕時計。ローンが簡単に効くファッションデパートでの買い方。靴。バイト。小じゃれた店。女。それはそれで楽しかった気がする。でも、今のような気持じゃなかった。あのころの白々した気分を思い出すこともない、今の日々。
シンパシィが来てからだ。
遅刻することもなく大学に到着した。校門をくぐり、大教室に向かう。
あっというまに夕方。
出席すべき講義ふたコマに出た。レポートも無事提出。
さっきまでおなじ講義に出ていた涼子といっしょに川澄屋に向かった。今日は、めずらしく配送のない日だと出がけに涼子の父親から聞いていたが、配送のない日でもシンパシィを引き取ってから帰るのが日課だ。
線路を挟んだ、大学側の区画には川澄屋のような古い建物も少ない。だがその区画ももう少し。いつもの踏切にむかって歩きながら、涼子は学校でのおっとり具合を耕平の前では作る必要がない気楽さといっしょに言った。
「もう、卒業大丈夫なの?」
「大丈夫、だと思うよ。涼子さんのおかげで高橋もとれそうだし、あとは林と小島、それと林ゼミ。保険でとってる演習もとれそうだし」
「大丈夫かねぇ、ほんとに」
涼子の口調はからかうようなニュアンスを含んでいた。寒がりな涼子は、すでに薄手の白いコートを羽織ってる。耕平の横を歩きながら、冷やかすように続けた。
「そんな綱渡りで、未来のマヤの企画マン、やっていけるのかい? あの音琴さんってひと、かなりキツそうだし。あのひとが上司になるんでしょ?」
「あぁ、そうみたい。でもまぁ、そういうのも、なんというか」
「なによ」
耕平の、なにかもごもごとした語尾に涼子は鋭く反応した。耕平は言葉を選びつつ、思ったまま言った。涼子は、このことを忘れているんじゃないだろうか。その日がくれば、この日も、来るはずだ。
「なんというかさ、涼子さん、もしも、っていうか、もしもじゃなくても、その時期って来るんだけど、そのときには、シンパシィともお別れかもしれないからさ」
ぴた、と涼子は足を止めた。
耕平は数歩あるいてそれに気づき、振り向いた。視界には、うつむいた涼子と、その左側の無機質なビル。逆側の大通り。
「涼子さん?」
「…そっか、そうだよね」
うつむいた顔をあげ、また涼子は歩き出す。二歩、早足で耕平においついた。そしてまた進み始める二人。
「なんかね、そんなのもう嘘みたいだからなんか、ちょっとびっくりしちゃった」
早いねぇ、時の経つのは、となにかをごまかすように涼子は気取って、続けた。
「それからもまたあえるんでしょ? 耕平くんは無事に卒業できたら普通にしーちゃんとあえるんだろうし。また、つれてきてよ、うちにも」
「あぁ、それはもちろん。おじさんもおばあさんもよければ、そうするよ」
「そうしてほしいどころじゃないわよ!もう、おばあちゃんったら相変わらずしーちゃんが機械だって信じないから、あたしに何度も聞くのよ。「しーちゃん、学校いかなくていいのかねぇ。せめて中学校はいかせてやりたいねぇ」だって。もう孫も同然よ」
「そっか。おじさんは?」
踏切りの近くまで来た。大学の側から続く大通りは、この踏切を渡ると大きく右にカーブして続いている。シンパシィが待つ商店街は、そこをつっきって住宅街の中に入ったほうにある。耕平はそのほうを見ながら、涼子に聞いた。
警報機がかんかんとなり始める。二人は歩みを止めた。
ここで彼女がシンパシィに「ちゃんと右左みてからわたるんだよ」と教えたときのこともまだほんの少し前のはすだ。だが、遠い昔の、もっと前からそうだったような気すらする。
遮断機が下りた。商店街が、もう少しなのに遠くなる。涼子が耕平の質問に返事した。警報の音に負けないように少し大きな声で。涼子も耕平とおなじほうを見ている。
「お父さんもおんなじ。もう毎日軽トラックでの配送につれてっちゃってる。その間はおばあちゃんが店番してる。しーちゃんが居ないなんてお父さん、泣いちゃうかも。そうだ、もしも、」
電車が目の前を通り過ぎる。轟音。
涼子はそれを見計らったかのように言った。
「もしもさ、耕平くん、卒業できなかったら、うちでやとったげる。いっしょにお店やって、ときどきしーちゃんに会いに行こうよ。会社より向いてるとおもうよ。耕平君、優しいし」
「え?え?」轟音にかき消されて、耕平に涼子の声は聞こえない。
電車が通り過ぎた。暴力的な音は遠ざかり、警報もやむ。二人の目の前から、ぐん、と遮断機が上がった。クルマも人も動き始める。
「いま、ごめん、涼子さんなんて言ったの?聞こえなかったんだけど」
耕平は立ち止まったまま涼子に聞き返した。一瞬耕平をみつめる涼子。そして、にこっと笑った。
「配送している耕平くん、かっこいいよって言ったの!ほら、しーちゃん待ってるし、お店まで競争!ほら!」
「あ、まって、涼子さん、ちょっと!」
踏切の上を、涼子のパンプスが走る。ずるい言い方をしてしまった自分と赤くなった顔を見せないように。うしろから「涼子さん、危ないって!」と耕平の声。
カーブする大通りからはずれて踏切をわたり、ごみごみとした区画に入る。商店街。左側の九軒目。数十メートルもない先に川澄屋。涼子は子供の頃から通り続けている道筋を走り、出遅れた耕平は数秒間、その後ろ姿を見送った。あっというまに涼子が耕平から離れてゆく。同じく走り、耕平も追った。
「いっちばん!」
涼子が耕平に追いこされることもなく先に店の前に到着した。だが、正確には店の書面ではない。少し手前。
遠目からも見えていた。涼子の来た方にテールランプを向けて川澄屋の真ん前に車が止まっている。真っ赤なBMWのセダン。
川澄屋からも、この商店街全体からも不釣り合いなそのクルマの後ろで涼子は足を止めた。見覚えのないクルマだ。親戚にもこんなクルマに乗っているひとはいない。何より、いくら交通標識上は入ってこられるとはいえ夕方の商店街に乗り込むなんて、あまりに非常識だ。涼子はなんとなく濃いスモークフィルムの張られたリアガラスをにらんだ。
耕平は少しだけ息を切らせつつ、涼子から数秒遅れて到着。同じく車の後ろについた。意外と早いな、涼子さん、と言う耕平を無視して涼子はお客さんかしらと店をのぞく。だが店内に客は居ない。いつも通りシンパシィがレジに座って、今日はなにやらご機嫌にお絵かきをしているだけだった。ずいぶん集中しているのか、涼子達には気づいていない。
涼子はもう一度、今度はリアガラスの中をのぞきこむように見る。スモークの内側には、運転席と助手席に人影が見えた。もう、ほんとにこういうの困るなぁと涼子はつぶやき、耕平に、使用人に伝えるように指示を出す。
「耕平君、ちょっと、この車、どくように、言ってよ。商売の、ジャマ」
息が切れているのが耕平にばれてしまった。踏切前での話がごまかせたことはよかったが、少し格好わるいなぁと思いつつ、涼子はそう言ってからさっさと車の左側と店のガラスドアの間に入り込み戸をからから開けて店に入った。
シンパシィが「おかえんなさーい」とにこにこした声。無意識に、涼子は後ろ手に戸を閉めた。
耕平は、なんだよ、おれが言うのか世と思いつつも店の前と車の間に入った。そうだな、どいてもらわないと。前の座席のガラスを、ノックするようにこんこんと軽くたたく。すると小さなモーター音と共に、フロントシート側にも張られたスモーク付きの窓ガラスが降りて、半分ほどのところで止まる。サングラスをかけた女が耕平を見ていた。
女の前にはハンドルの上半分とメーター類。耕平は、その車が左ハンドルであることも知った。無表情に顔を向けるサングラスの女性に、耕平は言った。
「店の前なんで、移動してもらえますか?」
女は無表情のままだ。濃い色のサングラス越しに、おそらく耕平を見ている。耕平はもう一度言った。移動してくださいよ、商売の邪魔なんで。助手席側にはシンパシィくらいの半ズボンの男の子が居た。この女の子供か?あまり嫌な言い方はしたくないなと耕平は思う。
まだ女の反応がない。耕平は言った。もう一回。
「聞こえてますか?店の前なんで」
「ふん、「いっちばん」か。ええな、あんたら、のんびりしてて」
耕平の言葉を遮り、その女は突然声を出した。関西弁で、しかもその声音には明らかな悪意と、にやついたいやらしいニュアンス。声の感じからは、耕平たちとおなじ年頃のようだ。いきなりの女の言葉に耕平はむっとする。だが、こらえて、もう一度「とにかくどいてください」と言おうとしたところ、その女はつづけた。
「あんた、惣領耕平やろ、マヤの内定者の」
女は右手でサングラスをとり、助手席の男の子に無造作にぽんと投げた。むき出しになったその女の素顔は、どことなく音琴と似ている。だがもっと若い。なにより耕平を見る視線は強く攻撃的だ。
「…あんた、誰だよ」
女は、にやりと笑った。顔立ちも雰囲気も、品の良い、育ちの良さを感じさせた。だがそれ以上に、強い敵意がその様子全てを覆っていた。